夢燈籠最終回

十九

昭和十四年(一九三九) 九月、英独戦争が始まり、昭和一六年(一九四一)十二月八日、遂に日本は真珠湾を攻撃し、米国と開戦した。
その後、日本の快進撃は続いていたが、同年六月、陸軍省は突然、留吉に満州に渡ることを命じてきた。陸軍省に赴くと、担当官から幕引き、すなわち満州の石油採掘事業からの撤収を行ってほしいとのことだった。つまり様々な契約の当事者が留吉なので、現地の業者との間に様々な揉め事が起こり、収まりがつかなくなっているという。そのため採掘機材を差し押さえられているので、金銭で始末をつけ、何とか内地に持ち帰ってほしいという仕事だった。
石原の舞鶴要塞司令官への左遷によって、石油採掘事業から手を引く形になっていた留吉だが、軍属の正式な解雇通知はなかったので、給料は支払われ続けていた。そのため一肌脱ぐことにした。さらに横田からも、「横田商店の事業は軌道に乗っているし、陸軍の心証をよくしておいて下さい」と言われたので、満州に赴くことにした。

大連港に降り立つと、郭子明(かくしめい)が待っていた。二人は再会を喜び合い、早速仕事に掛(か)った。言葉の問題もあり、郭子明に働いてもらわねばならず、留吉は多額の報酬を約束した。
大連で債権者らとの話をまとめた二人は、鉄道を乗り継いで阜新に着くと、何台かのトラックを雇って「東崗営子採掘試験場」に赴いた。
「東崗営子採掘試験場」は、かつての活気が嘘のように静まり返っていた。
 子明が呆れたように言う。
「確か日本では『夏草や兵どもが夢の跡』と言うのですよね」
「松尾芭蕉だ。よく知っているな」
「昔、習いました」
 まだ多少の要員や採掘設備は残っているので、関東軍の警備兵はいる。だが以前にも増して老兵のような気がする。
 事務棟の中に入ると、ほとんどの部屋に人はいない。だが松沢教授は残っていると聞いていたので、留吉は運搬の段取りなどを子明に任せ、一人で松沢の部屋を訪れた。
 ドアをノックすると、中で人の動く気配がした。
「教授、坂田です」
「えっ、誰だって」
「坂田留吉です」
「ああ、坂田君か。入れ」
 机に向かって何かを書いていた人物が振り向く。その顔中には鬚(ひげ)が生え、かなりやつれていた。
「松沢教授、ですよね」
「ああ、そうだ」
松沢の以前の面影は消え失せていた。部屋には煙草(タバコ)とアルコールに、何日も風呂に入っていない人間の体臭が混じり合った悪臭が立ち込めていた。
 松沢にその後の詳細経緯を語ると、松沢は「うん、うん」と合いの手を入れるが、上の空のようだった。
「それで坂田君、どうしてここの石油が掘れないんだ」
 それまで説明していたにもかかわらず、あらためて松沢から問われたので、留吉は簡略化して伝えることにした。
「政府の方針が変わったからです」
「どう変わった」
「日本は南方の資源地帯に進出したので、満州の石油が必要なくなったのです」
「それでは、アメリカと戦争になるぞ」
「もう、なっています」
「そうだったのか。だとしたら、たいへんなことになる」
 どうやら松沢は世事に疎いらしかった。
「もはや、われわれの手の届かないところで、事態は動いているのです」
「満州で石油が出たのに残念なことだ」
「はい。私もそう思います。しかし政府の決定には逆らえません」
「残念だ、実に残念だ」
 松沢が天を仰ぐ。
「それで言いにくいのですが、こちらの設備を内地に引き揚げることになりました」
「それは本当か」
「はい。それで教授も、われわれと一緒に内地に戻っていただくことになりました」
「内地にだと――」
 松沢が虚(うつ)ろな目をする。
 ――無理もない。
 松沢には妻子もなく、満州の石油事業に人生のすべてを賭けてきたと言っても過言ではないからだ。それを突然終わらせられるのだから、たまらないだろう。
「そうです。一緒に帰りましょう」
「帰ってどうする」
「それは――」
 留吉が言葉に詰まる。
「また、どこかで石油を探せるのか」
「もちろんです」
「そうか。だが同じことの繰り返しではないのか」
「それは、私には何とも言えません」
「君は石原さんとツーカーだと、長田君たちが言っていたぞ」
「ですから、その石原さんが失脚したのです。それで満州の試掘事業も終わりを迎えたのです」
 どう説明しようと、松沢には通じないようだった。
「私はここに残る」
「そうはいきません。ここは原野に戻るのです」
「嫌だ。私は石油を見つけたではないか」
「分かっています。その功績は大きなものです。きっと陸軍省も評価してくれています」
「そんなことは、どうでもよい」
 松沢が肩を落とす。
「いずれにしても、荷物をまとめて下さい」
 留吉が土産(みやげ)のウイスキー・ボトルを机の上に置いたが、松沢は視線も向けず、感謝もしない。
「では、私は撤収の仕事があるので、これで失礼します。重ねて申し上げますが、荷物をまとめておいて下さい」
 冷淡だとは思ったが、留吉はそう言い残すと、松沢の部屋から外に出た。
 その日は子明と共に走り回り、機材の運び出しの段取りをつけた。
 そして翌朝、留吉は松沢の部屋をノックしたが、松沢は出てこない。何かあったと察した留吉がドアを蹴破ると、松沢は手首を切って自殺していた。
 留吉に言葉はなかった。

 出航三十分前を知らせる汽笛が高らかに鳴らされた。待合室の椅子に座り、子明と思い出話に花を咲かせていたが、いよいよ帰国の時が迫ってきた。
「さて、名残惜しいが、そろそろ行く」
「そうですね。私も名残惜しいです」
 子明が珍しく言葉に感情を込める。
「子明、今までありがとう」
「こちらこそ、楽しかったです」
「これで俺の満州での仕事も終わりだ。次に来る時は観光旅行だ」
「必ず来て下さい。待っています」
「もちろん来たい。だが今は戦時だ。いつになるかは分からない」
 子明がにやりとする。
「留吉さん、正直に言って下さい。本当は大連に来たくはないのでしょう」
「そんなことは――」
 そう言いかけて留吉は口をつぐんだ。子明の言うことが的を射ていたからだ。
「玉齢(ぎょくれい)のことだな」
 これまで二人は、どちらともなく玉齢の話題を出さなかった。
「そうです。留吉さんは、玉齢のことが忘れられのないでしょう。だから大連には、もう来たくないはずです」
「ああ、そうかもしれん」
「だとしたら、私とも、これでお別れですね」
 留吉が首を左右に振る。
「それは分からん。いつの日か、この世に平和が訪れた時、五十代かそれ以降かもしれないが、君とまた会える日が来るかもしれない」
「それを願っています」
 二人は握手すると、欧米人がやるように抱擁を交わした。
 ――おそらく二度と会うことはないだろう。
 それは子明も分かっているに違いない。
「子明、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 留吉は乗船すると、最後尾のデッキから大連の町を眺めた。
 埠頭(ふとう)には子明が一人佇み、手を振るでもなく、こちらをずっと見つめていた。
 やがて汽笛と共に船が動き出した。
 ――さらば大連、さらば満州、さらばわが青春。
 留吉は若き日々に別れを告げた。
 これからの人生がどうなるかは分からない。だが羅針盤のない荒海を行くように、運命に翻弄されてきた若き日々と違い、しっかりと地に足を着けて、運命を操ってやろうという気概が、胸腔(きょうこう)に満ちてきていた。
 気づくと、大連の町も子明の姿も小さくなっていた。
 ――新たな旅立ちか。
 その時、あの燈籠(とうろう)の声が聞こえてきた。
『これから、お前はどうする』
『俺か――、まだ分からん』
『分からん奴に、大きなことはできない』
『そんなことはない。必ず自分のやるべきことを見つけてやる』
『これから日本は未曾有(みぞう)の大難に巻き込まれる。お前はその荒海を泳いでいけるのだな』
『ああ、そうだ。もう誰にも俺を止められない』
『分かった。お前のお手並みをじっくりと拝見させていただく』
 やがて燈籠の声は、波の音にかき消されていった。
 ――よし、やってやる!
留吉は新たな戦いに向けて突き進むつもりでいた。

(第一部・完)

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー