夢燈籠 第52回
三
「あじあ号」が大連駅のホームに滑り込むと、故郷に帰ってきたような安堵(あんど)感に包まれた。
――だが来年には、またジャライノールに行かねばならない。
石油を探すこと自体はやりがいのある仕事だが、何もない僻地(へきち)に何カ月も閉じ込められるのにはうんざりする。それでも三カ月に一度は新京まで報告に行けるので、それが救いといえば救いだ。
――それでも引き受けたからには使命を全うせねばならない。
何としても石油を見つけてやるといった気持ちに、留吉はなっていた。
大連ヤマトホテルに着くと、郭子明から「連絡して下さい」という伝言が入っていた。
まだ夕方だったので電話すると、郭子明は周玉齢を連れてやってきた。
「お疲れ様です」
日本語でそう挨拶した子明は、連鎖街(れんさがい)でも有名な「扶桑仙館(ふそうせんかん)」を予約したという。三人は子明の自動車で「扶桑仙館」を目指した。五人乗りなので、三人でも後部座席に座れるが、子明は助手席に座った。
隣の玉齢はぎこちない笑みを浮かべていたが、子明は饒舌(じょうぜつ)で、最近の大連の様子などを語った。
「扶桑仙館」に入ると、店員が銅鑼(どら)を叩いて迎えてくれた。
メインの海鮮料理を平らげたところで、店の者が子明の耳元で何かを囁(ささや)いた。
「今、連絡が入りまして、急な仕事で事務所に戻らなければならなくなりました」
「そうか。では、お開きにしよう」
「いや、この後に出てくる火鍋が名物なので、ぜひ召し上がって下さい。自動車も置いていきます」
「じゃ、君はどうやって事務所に戻るんだい」
「人力車があるから大丈夫」
そう言い残すと、子明は慌ただしく店を後にした。
――あいつめ。
その時になって、ようやく子明が気を利かせたと分かった。
「行ってしまったね」
「は、はい」
玉齢がうなずく。だが話は弾まない。
やがて火鍋が来たが、二人ともお腹(なか)がいっぱいで、少ししか食べられなかった。
会計は子明が済ませているとのことだったので、外に出た二人は自動車に乗った。
「君の家まで送ろう」
「――――」
「また子明から何か命じられているのか」
「そんなことはありません」
玉齢が泣き出しそうな声で言う。
「私は留吉さんのことが好きなんです」
「分かったよ。すまなかった」
留吉は玉齢の肩を抱いた。
「留吉さんも、私が好きですか」
「ああ、好きだよ。でも俺は日本人だ。長くこの地に留まることはないだろう」
「それでもいいんです」
玉齢の瞳は涙に濡れていた。
「君は俺の境涯(きょうがい)に同情しているだけだ。それを恋だと勘違いしている」
「そんなことはありません。自分の気持ちは、自分にしか分かりません」
「本当に俺のことが好きなのか」
「はい」
留吉は胸の高鳴りを抑えられないでいた。
「俺に身を任せる覚悟があるんだね」
「あります」
そこまで聞いてしまっては、もう後には引けない。
「運転手さん」と、留吉がうっかり日本語で呼びかけようとするのを制し、玉齢が中国語で言った。
「ヤマトホテルまでお願いします」
その後は成り行きだった。
事が終わった後、シャワーを浴びた留吉が窓辺で夜景を眺めていると、玉齢が問うてきた。
「いつお帰りになるのですか」
「明日の船で帰る」
「そんなに早く――」
「ああ、知人が手配してくれたんだ」
「関東軍ですね」
「そうだ」
玉齢が黙り込む。気まずい沈黙を破るかのように、留吉が問うた。
「初めての男が日本人でよかったのか」
「私には、どこの国の人かは関係ありません。好きな人は好きです」
「明快だな」
窓の近くの椅子に腰掛けると、子明がホテルに頼んだらしいバーボンウイスキーをストレートで流し込んだ。
「日本人は本当のこと言いません」
「それは本音というんだ」
「そうです。ホ、ン、ネです」
「日本人は自分の意見を強く主張しないよう教育を受けてきたんだ」
「どうしてですか」
ベッドから出た玉齢がガウンを羽織って、テーブルを挟んで対面の位置にある椅子に座った。
「日本には武士の時代があった。武士は主君から『腹を切れ』と命じられたら、理由を聞くこともなく即座に腹を切った」
「そんなことがあるのですか」
「それが日本人だ」
「われわれとは違います」
その言葉には、ささやかな矜持(きょうじ)があった。
「そうかもしれない。だがそれとは引き換えに、この国には秩序を守ろうという意識がない」
「秩序を乱しているのは、ほかの国ではないですか」
「ははは、そうだな」
再びウイスキーを注(つ)ぎ、それを飲み干すと苦い味がした。
「玉齢、君と僕の間には、国と国との違いぐらい大きな溝が横たわっている」
「本当にそうでしょうか。留吉さんと接していて、私はそれを感じません」
確かに留吉は、祖父や父親のような日本人的気質を憎んでいた。だがそれが留吉の中にないとは言えない。それだけ教育というのは人を形成するものなのだ。
唐突に玉齢が言った。
「私は日本人が嫌いでした」
「では、なぜ日本語を学んだんだ」
「生きていくためです」
「子明に勧められたのだな」
玉齢がうなずく。
「嫌いな民族の言語を学ぶことに、抵抗はなかったのか」
「ありました。でも仕事をしないと食べていけません。たまたま子明さんと縁があり、日本語を学ぶことを勧められたので、これも自分の運命だと思い、懸命に学びました」
「それを生かすのはこれからだ」
「いいえ、もう学んでよかったと思っています」
「どうしてだ」
玉齢は立ち上がると、留吉の方に近づいてきた。何事かと留吉も立ち上がると、玉齢が胸に飛び込んできた。
「必ず、必ず戻ってきて下さい」
「ああ、そのつもりだ」
「では、明日は見送りに行きません」
「それでいい。また会えるから見送りは要(い)らない」
だが、またここに来れば、玉齢を抱いてしまうことになるだろう。それが今後何をもたらすのか、今の留吉には判断できない。
――深みにはまると後には引けなくなる。
それはまさに、中国大陸の泥沼に足を取られていく日本軍と同じだった。
その夜のうちに玉齢は部屋を出ていった。
翌朝、留吉はホテルを出ると、大連埠頭に向かった。どこかで玉齢が見ている気がしたが、気のせいなのは明らかだった。
――またこの地を踏むことはあるのか。
それは留吉にとっても分からなかった。だが仕事が続く限り、最後までやり抜くつもりだった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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