夢燈籠第4回
三
留吉が生まれた年と同じ明治四十一年(一九〇八)の町制施行以来、藤澤町には藤澤・明治・鵠沼という三つの尋常高等小学校があった。商人の息子の大半は尋常高等小学校に進学するが、坂田家は裕福だったこともあり、長兄と次兄は私立藤澤中学校に進学していた。
留吉も中学受験をするつもりでいたが、父親が「お前は尋常高等小学校にしろ」と言い出すかもしれないので、不安な日々を過ごしていた。だが父親は何も言わず、留吉も晴れて私立藤澤中学校に進学できた。
藤澤中学は西富にある遊行寺(清浄光寺)の僧侶養成機関だったため、学則には厳しく「修養」を旨としていた。だがいったん学校から離れると、若者たちは伸び伸びとしており、留吉にも多くの友人ができた。
中でも、平塚から通ってくる岩井壮司(いわいそうじ)と親しくなった。壮司は十三歳にしては早熟で、様々なことを知っていた。とくに文学に詳しく、森鷗外や夏目漱石の作品まで読んでいた。
壮司は平塚の酒屋の次男坊だが、幼い頃から賢かったらしく、兄が尋常高等小学校に行ったにもかかわらず、壮司は中学に進学してきた。壮司の実家は酒屋と言っても手広く商売をしており、父親は七夕祭りで役員に名を連ねるほどの地域の名士だった。
午前だけで授業が終わる土曜など、壮司は学校の帰途にしばしば江ノ島に立ち寄り、海を眺めながら、留吉と様々なことを語り合った。
壮司には煙草を吸う習慣があった。それに留吉が感化されないわけがなく、すぐに煙草の味を覚えた。全くうまいとは思えなかったが、なぜか煙草をもてあそんでいるだけで、大人の気分が味わえた。
壮司が好きなのは「朝日」で、一箱六銭で買えた。ちなみに父の善四郎の好みは「敷島」で八銭もした。
二人が主に煙草を吸うのは西浦だった。西浦の岩場から富士山が望めるので、その場所を壮司はいたく気に入っていた。
西浦では、たまに海苔(のり)を取りに来るおばさんに出会うが、それ以外、ほとんど人は来ない。そのため学生服を着ているにもかかわらず、堂々と煙草を吸えた。
初夏のある日、夕日がまさに沈まんとしている海を見ながら壮司が言った。
「煙草を吸うと、大人になった気分になれるだろう」
「ああ、そうだな。少しなれる」
「少しなれるはよかったな。確かに煙草を肺に吸い込まなくても、大人の気分だけは味わえる」
留吉が煙草の煙を肺に入れていないことを、壮司は見抜いていた。
「それが悪いか」
「悪くはない。俺も初めはそうだったからな。煙草を吸う恰好をするだけで、人生が開けてくるような気がした」
「安易な人生だな」
「そうだ。酒屋の次男坊の人生だ。安易なことこの上ない。しかし君も中学に入れば、人生が急に開けてくると思ったのだろう」
「まあな――」
「ところが全く変わらない」
ほくそ笑む壮司に、留吉は鼻白(はなじろ)んだ。
「その通りだ。だが君とて同じだろう」
「ああ、そうだ。中学に入ったからとて、周囲は大人として見てくれない。親は頭上に君臨し続け、些細なことにまで口出しする。兄貴は常に俺の頭を叩く」
留吉が噴き出す。
「それが人生ってものだろう」
「ああ、そうだ。かの鷗外も、『足ることを知ることが幸福である』と言っている。酒屋の次男にとっては、何もかも足らないのだが、鷗外は足ることを知れという。何とも不条理ではないか」
壮司が不条理などという難しい言葉を使ったので、留吉はまた噴き出した。
「しかしそんな偉そうなことを言っても、鷗外自身が不満を抱えて生きていた。中学に入れば新たな人生が開けてくると思っていたが、そうではなかった。そしてその上の学校に進学しても何も変わらなかった。最後に医者になればと思ったが、それでも変わらなかったという。それで、自分が変わろうとしなければ何も変わらないと気づいたのだ」
「鷗外も学習したのだな」
壮司がにやりとして続けた。
「その通りだ。自分が発光体かどうかが、何よりも大切なのだ。鷗外はこうも言っている。『日の光を借りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小さな灯火たれ』と」
「『鶏口牛後』か」
「鶏口牛後」とは、「大きな集団の末端にいるより、小さな集団でも長となれ」という意味になる。
「まあ、少し違うがよしとしよう」
壮司が新たな煙草に火をつけると続けた。
「それで、君はどういう人生を歩む」
「突然来たな」
だが留吉にも、それは皆目分からない。そのため沈黙していると、壮司が質問を変えた。
「世のため人のため、国家のための人生にしたいのか。自分のことだけ考えて自己満足の人生を送りたいのか。大雑把に分ければ、人生はその二つになる」
「他人のためか、自分のためかの二者択一か」
ここで言う「自分のための人生」とは、エゴ丸出しで生きるという意味ではなく、文豪や哲学者のように自分の内面と向き合い、自分とは何かを突き詰めていく生き方という意味だ。
「そうだ。人生などそんなものだ」
「そう言い切れるのか」
「ああ、言い切れる。他人のために生きる人生は美しいが、人生を突き詰められない。いつまでも同じ価値観の周りを旋回しているだけだ。あの飛行機のようにな」
壮司が顎で頭上を示す。橙色(とうしょく)に染まった空には、いかにも古そうな双発機が爆音を轟かせて飛んでいた。だがフロートが付いているからか、やけに低速だ。
「あれは金沢辺りから飛び立った軍の練習機だ。まあ、そんなことはどうでもよい。で、どっちにする」
「わしには分からん」
中学に入ってから、留吉は自分のことを「僕」か「私」と呼んでいたが、ついこれまで使っていた「わし」という言葉が、口をついて出てしまった。
「そうだな。わしも同じだ」
壮司がからかうように言う。
「君にも分からないのか」
「ああ、分からん。だがうちの兄のように、お国のために軍に入りたいとは言わない」
「そうか。兄上は軍人になりたいのだな」
「そのようだ。元々脳味噌が足りない兄だ。結句、父から問い詰められ、『軍服に憧れて軍人になりたい』と、その理由を告白してしまった」
壮司は幼い頃から暴力で支配してきた兄に対し、反発心を抱いていた。
「それで親父さんは何と言った」
「むろん大反対さ。『あきれてものが言えない』とさ。それで兄は殴られ、『出ていく』『出ていけ』の大騒動だ」
壮司が高らかに笑う。
「そうか。だが国のために尽くすのも一つの生き方だろう」
「くだらん。俺はそんな生き方をしたくない」
「では、自分のための人生を歩みたいのか」
壮司が先ほど言ったもう一方のことを、留吉は忘れていなかった。
「そうとも言えん。まだどうすべきか見極められないのだ」
「どうやって見極める」
「それが分からないから本を読んでいる」
「本を読めば分かるのか」
壮司が珍しい生き物でも見るように顔を上げた。
「分からないが参考にはなる。だから読書を続ける。そのうち曖昧模糊(あいまいもこ)としたものが凝固してくるはずだ」
「凝固しなかったらどうする」
「面白い質問だな。確かにそうかもしれん」
初めて壮司が自信のなさそうな顔をする。
――こいつもわしと同じ年なのだ。
それで少し自信が湧いてきた。
「さっきの質問に答えてやろう。僕は自分のためでも他人のためでもない人生を生きる」
「それはどんな人生だ」
「成り行き任せの人生だ」
「そいつはよかった」
壮司が手を叩いて喜ぶ。
「自分で光り輝く者になろうと努力はする。だが人生は、自分だけでどうにかなるものではない。多くの出会いがあり、多くの別れがある。それも弁財天が導いてくれた御縁だ。いかに堅固な自己を持とうが、そうした御縁を大切にしていきたい」
「つまり確固とした自分の考えは持ちながらも、流れも大切にしていきたいのだな」
「そうだ。人生何が出てくるか。それが楽しみなのではないか」
「その通りだ。われらの前には、大きな道が開けている」
二人は夕日に照り返る相模灘(さがみなだ)に向かって哄笑した。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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