夢燈籠第44回
九
それから中原からは「会おう」と言ってくることもなく、追加の無心がなくて一安心していると、とんでもないことが起こった。
九月某日の深夜、激しくノックする音がした。深い眠りから覚まされた留吉は、目をこすりながら飛び起きると、何事かと玄関に向かった。
「どなたですか」と問うと、女の声で「私よ」という声が聞こえた。
「私よって――、こんな深夜に誰ですか」
改めて時計を見ると、一時を回っている。
「長谷川泰子」
そのぶっきらぼうな声を聞いた留吉は、ため息を漏らすと問うた。
「何の用ですか」
「入れてよ」
――仕方ないな。
全く知らない仲でもないので、留吉は玄関の鍵を外した。
次の瞬間、大きな風呂敷包みを持った泰子がなだれ込んできた。
「厠を貸して」
「どうぞ」
留吉が厠の位置を教えるよりも早く、草履(ぞうり)を投げるように脱いだ泰子は、当てずっぽうで厠に向かった。
――参ったな。
おそらく中原に付きまとわれ、身一つで逃げてきたのだろう。
やがて泰子はすっきりした顔で厠から出てきた。
「きれいにしているのね」
「そりゃそうですよ。借家ですから」
「よかった。私は汚い厠(かわや)は苦手なの」
――どういうことだ。今済ませたじゃないか。
泰子の言葉の意味が、留吉には分からない。
勝手に居間に上がった泰子は、ちゃぶ台の上に置いてある急須から碗に茶を注(そそ)いだ。
「さっきからずっとしたかったの。でも路上でするわけにもいかないでしょ。ようやく人心地がついたわ」
「そいつはよかったですね。それで、こんな夜中にどうしたんですか」
「ああ、そのことね」
泰子がしどけない仕草で髪をかき上げる。化粧をしていなくても、それは十分に魅力的だった。
――中原と小林が惚れただけのことはある。
その魅力を、泰子も十分に心得ているのだろう。
昭和六年、泰子は東京名画鑑賞会が主催した「グレタ・ガルボに似た女性」というコンテストに応募し、見事一等に選出されていた。グレタ・ガルボとは一世を風靡(ふうび)したハリウッド女優のことだ。
「実はね、私も托鉢(たくはつ)しているの」
「托鉢って、あの托鉢ですか」
「そう。無一文の上に宿なしだから、知人の家を回っているの」
ようやく留吉にも泰子の用が分かってきた。
「それで、ここに来たのですね」
「そうよ。草野さんに聞いたの」
「ということは、草野さんの家に先に行ったんですか」
「そうなの。でも草野さんは妻帯者だから、一宿一飯をお願いするわけにもいかないでしょ」
「それはそうでしょう」
留吉は内心舌打ちした。草野が独身者の留吉の住所を教えたのだ。
「でね――」
泰子が急に笑顔になる。
「女日照りの坂田さんなら泊めてくれるんじゃないかと、草野さんは言うのよ」
「冗談はやめて下さいよ。そんなことをしたら中原さんに殺されます」
「なんであいつに殺されるのよ。あいつは私に未練を持ちながら、別の女と結婚したのよ」
「では、泰子さんも中原さんのことが好きだったのですか」
「はははは」と甲高い笑い声がした。その声が家主の又吉健吉一家に聞こえないか、留吉ははらはらしていた。
「あんな小僧に惚れるわけがないでしょ」
「でも、かつては――」
「あの頃、あいつは金を持っていたの。山口の坊ちゃんでしょ。あの頃の仕送りの金額を聞いたら原節子でも同棲するわよ」
原節子とは、この時代の日本のトップ女優のことだ。
「でも、僕は金なんて持っていませんよ」
「誰が金をくれって言ったの」
泰子が懐から煙草を取り出した。その時、わざと胸をはだけたので、留吉は目を逸らせた。
「ねえ、私はここが気に入ったわ。何日間かいていいでしょ」
「それは、ここに居候するってことですか」
「そうよ。ほかに行くあてもないし」
泰子が紫煙を留吉の顔の方に吐き出す。
「待って下さいよ。確かに泰子さんは魅力的だ。私だって男です。こんなうまい話はありません。しかし――」
「しかし何よ」
「曲がりなりにも、泰子さんは中原さんの恋人だったんでしょ」
「それがどうしたというのよ。私は自由な女よ」
「いや、しかし――」
「こんな夜中に、あんたは女をほっぽりだすの」
どうやら一泊はさせないとまずいようだ。
「分かりました。今夜は構いません。でも、明日には出ていって下さい」
「あんたんとこは二部屋あるでしょ。蒲団もあるわね」
泰子は素早く立ち上がると、押入れを開けて蒲団を確かめた。
「よしよし」
――なにがよしよしだ。まあ、一つ蒲団で寝ることだけは避けられたな。
中原のことがあってから、友人用の蒲団を買っておいたので、それが幸いした。
「風呂はどこ」
「ここに風呂などあるわけがないでしょ。いつも銭湯ですよ」
もちろん又吉家に風呂はあるが、留吉は遠慮して銭湯に通っていた。
「こんな夜更けに銭湯は開いていないわ」
「もちろんです」
「じゃ、しょうがない。少し飲んでから寝ましょう」
「寝るのは別室ですよ」
「分かっているわよ」
留吉とて男だ。魅力的な女性が転がり込んでくれば、抱きたいと思うのは当然だ。しかし相手は、中原がいまだに未練を持っている女なのだ。その手のトラブルだけは避けたいという気持ちが先に立つ。
「乾杯!」
湯飲み茶碗にウイスキーを注ぐと、泰子は飲みだした。幸か不幸か、ウイスキーは買ったばかりで、泰子一人が酔いつぶれるのには十分な量がある。
――そうだ。酔いつぶそう。
「どうぞ、飲んで下さい」
留吉がウイスキーを注ごうとすると、泰子が言った。
「私を酔いつぶそうっていう魂胆ね。その手には乗らないわ」
「だったら寝て下さい」
「あんたも飲むのよ」
留吉もやけくそになってきていた。
――据え膳食わぬは男の恥、か。
その後のことは成り行きだった。
事が終わった後、すやすやと眠る泰子の傍らで、留吉は今後のことを思い、暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
翌朝、会社に出社すると、草野が笑顔で待っていた。
「いや、すまんすまん」
「草野さん、困りますよ」
「でも、いい思いができただろう」
それについて留吉は嘘を言えない。
「やはりそうか。まあ、君も若いんだ。少しは勉強になっただろう」
「朝からやめて下さいよ」
「どうせ一晩だ」
留吉が声を潜める。
「そんなことはありません。泰子さんは何日か滞在するようです」
「それはまずいな」
草野が深刻な顔をする。
「やはりまずいですか」
「まずい。中原というのは何をしでかすか分からん男だ」
「脅かさないで下さいよ。草野さんがうちの住所を教えたばかりに――」
「そうだな――。泰子や中原の知らない場所に引っ越したらどうだ」
「それは無理ですよ。今は親戚の家に居候させてもらい、家賃はなしなんです。転居するとなると家賃がかかります」
草野が「うーん」と言いながら腕組みする。
「でも抱いたんだろう。君にも責任がある」
それを言われれば、留吉とて言い訳はできない。だが若い男の許に若い美人が転がり込んでくれば、結末は見えている。
「それはそうですけど、一晩ならまだしも、ずっといられるとなると困ります。家主にも何と言い訳してよいか――」
又吉健吉は、留吉の継母のいさに留吉のことを請け負ったに違いない。だから何くれとなく心配してくれる。だが泰子は今、銀座の「エスパニョル」というキャバレーで踊り子をしているのだ。そんな女と同棲していることがばれれば、さすがに怒るだろう。
――前門の狼、後門の虎か。
わけありの女を抱いたがゆえに、事態は複雑な様相を呈してきていた。
「困ったな。おっと、もう始業時間だ。解決策は考えておくよ」
そう言い残すと、草野は風のように去っていった。もちろんいつまで経っても、解決策なるものは伝授されなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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