夢燈籠第66回

十七

 昭和十四年(一九三九)、阜新での採掘を継続させるべく、留吉は内地の関係者の間を走り回っていた。しかしなかなか成果はあがらない。そのうち予算が続かなくなり、「東崗営子採掘試験場」の技術者たちも引き揚げてくるという噂が流れてきた。
 松沢に電話すると、それは事実で、試掘範囲も縮小してきているらしい。しかも悪いことに、思ったより東崗営子の油層は薄く、埋蔵されている原油量も予想を下回っているかもしれないとのことだった。こうしたことから製油所を造るとなると、初期投資が回収できるかどうか見えなくなってきているという。
 それでも松沢は現地に残るとのことで、留吉は激励の言葉を送ると、いっそう努力することを約束した。
だが考えつく手は、すべてやり尽くしていた。
 ――どうしたらいいんだ。
 日が暮れると、自然に足は夜の街に向いてしまう。酒で気を紛らわせるしかないからだ。翌十五年から男女は国民服に統一されるが、このころまで自由を謳歌する若者がまだいた。
銀座のカフェーとバーは合わせて六百軒を超えており、通りにはモボ(モダン・ボーイ)とモガ(モダン・ガール)が闊歩(かっぽ)していた。双方共に、その全盛期は昭和四年(一九二〇)くらいまでだったが、時代の風潮に反逆する若者は、いつの時代にもいる。
モボはオールバックにボルサリーノをかぶり、セイラーズボンをはき、ロイド眼鏡を掛けている者もいる。一方、モガは断髪のイートンクロップに黒々と引かれた眉毛、色鮮やかな洋装に身を包んでいた。
 ――俺も今年で三十二歳だ。奴らと同じ恰好はできない。
 街路のスピーカーからは、少し前ならアメリカのジャズが流れていたものだが、日中戦争の影響からか、『愛国行進曲』や『麦と兵隊』といった軍歌が聞こえてくる。それも時代の成せる業だと納得はするものの、海外を知る留吉には少し寂しい気がした。
 馴染(なじ)みのバーに向かうべく、路地に入った時だった。
「この野郎、しばいたるぞ!」
 三人のヤクザ者が、一人のモボらしき青年を小突き回している。
 黙ってその場を通り過ぎようとしたが、狭い路地なので通れない。仕方なくそこに佇(たたず)んでいると、ヤクザの一人が留吉に向かって言った。
「てめえ、文句でもあるのか!」
「いいえ、通れないからここにいただけです」
「だったら失せろ!」
 その言葉にカチンと来た留吉は、言い返した。
「では、道を開けて下さい。私はそっちに用があるんです」
「何だと!」
 三人の興味の対象が留吉に移った。モボらしき青年に逃げられるチャンスが到来した。だが青年は、じっとこちらの様子を窺(うかが)っている。
「お前は、俺たちが誰だか分かっているのか」
 年かさらしき一人が留吉の胸倉を摑(つか)む。
「知りません」
「何だと!」
 留吉は腕力に自信はないが、大陸での経験で度胸だけはある。
「あっ、この人知っている!」
 その時、突然三人の背後から青年が素っ頓狂な声を上げた。
「この人は講道館の柔道家です。確か名前は――」
「木村だ」
 さりげなく留吉が言う。
「兄貴、木村って言えば、木村政彦じゃないですか」
 木村政彦といえば講道館柔道七段で史上最強を謳(うた)われた柔道家だ。身長は百七十センチなので、ちょうど留吉と同じくらいになる。年齢は留吉より十歳ほど若いが、暗がりなので分からないだろう。
「て、てめえ、はったりかましてたら、ただじゃ済まねえぞ」
「そうかい」と言いつつ留吉が一歩前に出ると、三人は後ずさりした。
「いいだろう。この場はてめえに免じて許してやる!」
 そう啖呵(たんか)を切ると、三人は風のように走り去った。
「ありがとうございます」
 青年が揉み手をしながら頭を下げる。
「事情は知らないが気をつけろよ」
「はい。でも私が悪いんです」
「何をやった」
「いかさま賭博(とばく)です」
 青年が下卑(げび)た笑みを浮かべる。
「しょうがない奴だな。もうそんなことをするんじゃないぞ。さあ、道を開けてくれ」
「お願いです。私におごらせて下さい」
「えっ、君がおごってくれるのか」
 飲む金には困っていないが、意外な申し出に留吉は驚いた。
「はい。奴らから巻き上げた金があります」
「しかし俺におごったところで、これっきりの間柄だぞ」
「それで結構です。助けてくれたお礼です」
「そうかい。それなら一杯だけいただこう」
「よかった。こちらに私が懇意にしている店があります」
 青年は銀座の隅々まで知っているのか、路地を縫うように歩いていく。しばらく行くと、うらぶれたバーの前で、青年が止まった。
――「Bar野良猫」か。いかにもな店名だな。
青年が「さあ、どうぞ」と言うので、中に入ると、体臭と安酒の臭いが鼻を突いた。
 留吉は即座に帰りたくなったが、ここまで来たらそうもできず、店内に入った。
「いらっしゃい」
 御年四十になんなんとする厚化粧の女がけだるそうに言う。ほかに客はいない。
「どうぞ、どうぞ」
 青年が勧めるままに座に着くと、女が尻を振るようにしてウイスキーとグラスを運んできた。
「おい、氷を忘れるな」
「今、持っていくわよ」
 二人のやりとりを聞いていると、まるで夫婦のようだ。
「こいつは、俺のこれで」
 青年が自慢げに小指を立てる。その動作は品の欠片(かけら)もないが、どこかしら愛敬(あいきょう)がある。
「では、一杯いただこう」
 青年が氷をどうするか視線で聞いてきたので、留吉は「ストレートでいい」と答えた。
「お名前を聞いてもよろしいですか」
「ああ、構わない」と答えつつ、留吉が名乗る。
「それで君の名は」
「はい。横田英樹(よこたひでき)と申します」
「東條さんと同じヒデキだな」
「東條さんって――」
「何でもない。忘れてくれ」
 青年が満面に笑みを浮かべて頭を下げる。
「実は本名は別なのですが、勝手に改名しました」
「そういうことか。どうもモダンな名前だと思った」
 横田が頭を深々と下げる。
「あらためまして、ありがとうございました」
「いいってことよ。道が狭かったから、ああなったまでだ。つまり、たまたまだ」
 留吉は正直に言った。
「それでも助かりました。これは兄貴への借りです」
「兄貴なんて呼ぶなよ。俺は堅気なんだ」
「えっ、そうなんですか。この辺りの顔役かと思っていました」
「とんでもない」
「では、お仕事は何ですか」
「軍属だ」
 横田が驚く。
「ということは、軍に顔が利くんですね」
「利くといえば利くが――」
 ――何か望みがあれば、遠慮はするな、か。
 留吉は石原の言葉を思い出していた。
「実は私は繊維問屋をやっています」
 横田がポケットから皺(しわ)くちゃの名刺を取り出すと留吉に渡した。そこには「横田商店 代表取締役社長」と書かれていた。
「何だ、坊ちゃんか」
「とんでもない。私一人でやっている小さな会社です」
「では、叩き上げだな」
「ええ、そんなところです。でも、この程度じゃ満足できません」
「どでかい商人になろうというのだな」
「そうです。今は、軍に何かを納めることで大利を得られます。そのため八方手を尽くして軍に渡りを付けようとしていましたが、陸海軍共に、大手や老舗(しにせ)ががっちり食い込んでおり、付け入る隙もありません」
 軍に入り込むことが、この時代の最も大きなビジネスチャンスなのは間違いない。
 気づくと、横田が留吉のグラスになみなみとウイスキーを注いだ。
「それでご相談なのですが、軍服などの――」
「待ってくれよ。君とは出会ったばかりだ。しかもあんな形で出会ったんだ。それだけで君を信じるわけにはいかない」
「尤もなことです。ですから、坂田さんも共同経営者となってはいかがでしょう」
「待ってくれよ。話が早すぎる」
 横田と名乗った青年は、どうやらせっかちのようだ。
「申し訳ありません。では、まずは飲んでお互いを知りましょう」
 横田がカウンターの中の女に、「若い女を二、三人連れてこい」と命じると、女は黙って裏口から出ていった。
「いいだろう。どうせ飲むために銀座に来たのだからな」
 考えてみれば、縁や運というのは突然やってくる。それを摑むも摑まないも本人次第なのだ。
 ――多くの人は、気づかずに運や縁を逃している。だがこうした些細なものにこそ、大きな宝が隠されているのだ。
 女たちが来てひとしきり騒いだ後、横田が女たちにチップをやって帰した。
その後、横田は熱心に繊維業界について語り始めた。その話は端的で的を射ており、横田の頭脳が並々ならぬものだと察せられた。
「つまり君は、軍に繊維関係の物資を売り込みたいのだな」
「そうです。今は大手や老舗が固めているので、手も足も出ません。しかし伝手さえあれば、大もうけしてみせます」
 ――悪い話ではなさそうだな。
 留吉は次第に乗り気になってきた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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