夢燈籠第46回

十一

 昭和九年も師走(しわす)を迎えようとしていた。思えば日本にとって、この年は大きな曲がり角だった。というのもこの年の三月、満州国の皇帝の座に溥儀(ふぎ)が就き、国号を満州帝国に改めて帝政が開始された。だが満州帝国とは名ばかりで、すべての決定は関東軍に委ねられていた。要は傀儡政権である。日本は引き返せない道へ踏み出してしまったのだ。
だが、そんな未来を知らない日本人の大半は快哉を叫び、新たな友好国の誕生を祝した。満州帝国の件は留吉にとっては感慨深いものがあった。留吉にとって満州での体験は鮮烈だったからだ。そのため今でも満州への関心は高いが、まさか関東軍が傀儡(かいらい)政権まで打ち立てるとは思わなかった。
 関東軍の暴走が始まったのは、昭和六年(一九三一)九月の柳条湖(りゅうじょうこ)事件からだった。この事件は奉天(ほうてん)駅の北東八キロメートルほどにある柳条湖で、日本が経営する南満州鉄道の線路が爆破されたことに端を発する。
 この事件は張学良(ちょうがくりょう)率いる東北軍の仕業と発表された。関東軍は南満州の主要都市を次々と占拠すると、錦秋(きんしゅう)への爆撃を敢行、石原は政府の不拡大方針を無視する形で戦線を拡大していった。そして昭和七年初頭には、東北三省を制圧した。
 この成功には理由があった。蔣介石(しょうかいせき)は国内統一のために軍を温存し、二十五万の兵を有していた張学良は病で倒れて弱気になり、東北軍に「抵抗するな」と命じていたからだ。こうした情勢を踏まえた石原の読み勝ちだった。そして三月、「王道楽土」「五族協和」を旗印にした満州国が成立する。
 五族とは、和(日本)、朝(朝鮮)、満、蒙、漢の五つの民族を指し、「五族協和」とは、この五族が協調して暮らせる国を目指すことだ。
 こうした風雲急を告げる情勢を、帝都日日新聞も無視するわけにはいかず、この年の十一月、留吉を満州に派遣することになった。

 ――またここに来るとはな。
 大連(だいれん)港に降り立った留吉は、その半円形のエントランスに佇(たたず)み、懐かしさで胸がいっぱいになった。
 ――慶一兄さんはどうしていることか。
 慶一に会いたい気持ちはあるが、満州に留まることを選択した慶一にとって迷惑ではないかと思い、今回はあえて探さないでおくことにした。
 その時、手を振りながら走ってくる人影が見えた。
「坂田さん!」
「郭子明(かくしめい)!」
 二人は手を取り合って再会を喜び合った。
 郭子明には事前に手紙を出していたが、その返事が来る前に船に乗り込んだので、届いているかは不明だった。しかしこの様子からすれば、間違いなく届いていたようだ。
「立派になったな」
「はい。おかげさまで日本語がうまくなり、今は大連で自分の貿易会社を興しました」
「そうか。では、通訳の仕事はできないな」
 帝都日日新聞から通訳の予算はせしめてきたので、通訳の一人ぐらいは雇えるが、郭子明自ら事業を行っているとなると迷惑はかけられない。
「そうなんです。そこで通訳をやりたいという人を連れてきました」
 郭子明が背後に隠れるように立っていた女性を前に押し出す。
 ――美人じゃないか。
 年の頃は二十歳過ぎたぐらいで、目鼻立ちがはっきりとしている。
「彼女は君の秘書ではないのか」
「いえいえ、学生です」
 その女性が小さな声で言った。
「周玉齢(しゅうぎょくれい)と言います」
 玉齢はゆったりとしたワンピースにクローシェ帽をかぶり、東京にいそうな中流階級のお嬢さんといういで立ちだった。
「初めまして。しかし――」
「心配は要(い)りません。私と同じように、どこでも連れ回して下さい」
「それは分かったが――」
 留吉は郭子明の腕を取ると手前に引っ張り、耳元で問うた。
「君の彼女ではないのか」
「ははは、違います。彼女は別にいます」
「そうか。しかし――」
「彼女なら仕事もできます。たんまりお礼を払ってやって下さい」
 その後は給料などの話をしたが、とくに不満はなかったので条件が整った。
 郭子明が問う。
「で、どうします」
「すぐに長春(ちょうしゅん)、いや新京(しんきょう)まで行き、関東軍の石原参謀に会う」
「そうだと思いました。玉齢――」
「鉄道は一時間後に出ます」
 満鉄は船の到着時間に合わせて列車を走らせていた。とは言っても飲食物や切符を買う時間も必要なので、五十分から一時間の余裕はある。
「分かった。ゆっくり飯を食う暇もないな」
 郭子明が自慢げに言う。
「汽車の中には食堂車もありますので、ご心配なく」
 三人は埠頭(ふとう)の目の前にある満鉄の大連駅へと向かった。

 その異形の機関車を見た時、留吉は正直驚いた。
 ――こんな機関車は内地でも走っていない。
留吉がカメラを向ける傍ら、郭子明が説明する。
「これが満鉄の誇る特急『あじあ号』です。まだ新京までしか通っていませんが、来年にはハルピンまで運転区間が延長される予定です」
特急「あじあ号」は大連~新京間の七百キロメートルを約八時間半で走破するという高速の蒸気機関車だった。ちなみに大連からハルピンまでの九百四十三キロメートルは、十三時間半で走破することになる。そうしたスペックよりも、特徴的な流線形の機関車の顔が未来を感じさせてくれる。
郭子明の説明に留吉が確かめる。
「内地のどの機関車よりも速いんだな」
「そうなんです。何でもレールの幅が取れるとかで、平均時速八十二・五キロ、最高速百十キロで走ると聞きました」
 この時代の日本国内を走る特急の最高速度は「つばめ」の六十七キロなので、その快速ぶりは際立っている。
「そうか。それは誇らしいな」
 留吉は日本の技術の進歩に感慨深かった。
 ――アジアの小国日本が、ここまでの技術を持つに至ったんだな。
「しかも空調設備が完備されているので、窓を開けずに済みます」
 つまり蒸気機関車に付き物の、煤(すす)を浴びて顔が真っ黒になることもないという。
 その時、乗車券を買ってきた周玉齢が小走りにやってきた。
「一等展望車が取れました」
「それはよかった」
「一等展望車は、そんなによいのかい」
「はい。『あじあ号』に乗るなら、一等展望車が一番です」
 三人が最後列の一等展望車に向かう。
 その乗り口で車掌に切符を見せると、郭子明が言った。
「では、私はここまでです。よい旅を」
「ありがとう。また会おう」
「はい。大連で待っています」
 留吉と玉齢が一等展望車に乗り込むと、ほぼ満席になっていた。
 やがて「あじあ号」が走り出した。郭子明は黒煙を浴びながら、列車が見えなくなるまで手を振ってくれた。
 一等展望車の室内を見渡すと、日本人はもとより、中国人の金持ちから西洋人と思しき紳士までいる。彼らにいちいち黙礼していると、どこかで見た顔に出会った。男はパナマ帽を深くかぶり、手に持つステッキを支えに、こくりこくりしている。
「小林さんじゃないですか」
 留吉が近づくと、かつて満州日報で同僚だった小林金吾(きんご)が目を開けた。
「ああっ、まさか坂田留吉君か」
「そうです。坂田です」
 小林の隣は空席らしかったので、留吉は隣に座った。
「ここで何をしている」
 留吉が経緯を説明する。
「そうだったのか。帝都日日新聞に就職したのか。よかったな」
「小林さんは相変わらず満州日報ですか」
「そうなんだ。ということは君も新京まで行き、石原さんの記者会見を聞くんだな」
「えっ、記者会見が開かれるのですか」
 石原が記者会見を開くことなど、留吉は知らなかった。
「知らないのか。ああ、そうか。記者会見を開くと発表されたのは三日前だからな。船の上では知らなくて当然だ」
「でも、ちょうどよかったです」
「そうだな。これは重大な記者会見になる」
「はい。個別に会ってくれるかどうか分からなかったので、出張が無駄にならずよかったです」
 小林がにやりとする。
「ところで、あの姑娘(クーニャン)は誰だい。まさか君の嫁さんじゃないだろうね」
「えっ、ああ、彼女は通訳です」
「なんだ、そうだったのか。君ぐらいハンサムだと、姑娘を射止めるのは簡単だと思うけどな」
「よして下さいよ。私は今日、日本から着いたばかりです」
「そうなのか。それにしては通訳を雇うのが早いな」
 留吉が再び経緯を説明する。
「なるほどな。それでその郭子明とやらが通訳に若い女を連れてきたというわけか」
「そういうことです」
「よかったな」
「やめて下さい。これは仕事です」
「悪かったな。でも道連れができてよかった」
 そこまで話したところで、小林の隣に席を取ったらしき中国人がやってきた。
「これは失礼」と言って留吉は席を立った。
 小林が残念そうに言う。
「まあ、仕方ない。後で食堂車に行って飲もう」
「ぜひ」
 留吉が席に戻ると、玉齢が問うてきた。
「お知り合いですか」
「ああ、以前に世話になった人だ」
 かつて満州に来た時のことなどを玉齢に話していると、「あじあ号」が動き出した。
 留吉と玉齢は、日本語と中国語を交えた会話をすることで次第に打ち解けていった。
 玉齢は、「あれが大和尚山(だいわしょうざん)、あれは金州城、熊岳(ゆうがく)城、望小山(ぼうしょうざん)」などと説明してくれたので、代わり映えしない風景にもかかわらず飽きなかった。
 かつて郭子明と満鉄に乗った頃は「あじあ号」がなかったので、二十時間を超える旅となって疲れきったが、今は「あじあ号」のおかげで随分と楽になった。
その青い弾丸は、凄いスピードで万里の荒野を走っていった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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