夢燈籠第27回
十六
ノックをして日本語で名乗ると、下士官の一人がドアを開けてくれた。石原の部屋に入ると、先ほどの武官二人の視線が一斉に注がれた。それだけで、外から来る者を過度に警戒していると分かる。
「こっちだ」
ぞんざいな口調で武官がソファーを指し示す。
「失礼します」と言って座っていると、シャワーを浴びたばかりらしい石原が、バスローブ姿で現れた。石原が下士官の淹れた茶を飲むと、ソファーに寄り掛かりながら言った。
「待たせたな。それで米野らは元気か」
「はい、多分。私は田中少佐に張り付いていたので、ずっと奉天にいたのです」
石原は酒や煙草を嗜まず、大の甘党で茶菓子を好んだ。この日も焼き菓子の月餅(げっぺい)が盛られた皿がテーブルの上に置かれている。腕輪のように数珠(じゅず)を左手首に巻いているのは、石原が熱心な日蓮宗信者だからだ。
「君は田中と一緒だったのか。奴は賢い。君が一緒なら殺されないと分かっている。だが君は殺されるかもしれなかったんだぞ」
「誰にですか」
「一に関東軍の河本派、二に事情が分からぬ張学良一派、三に――」
石原がにやりとすると言った。
「俺たちにだ」
「ど、どうしてですか」
「決まっているだろう。田中は蠅(はえ)と同じだ。何かを摑めば、それを自分に有利に使おうとする」
留吉が息をのむ。
「冗談だよ。いくら嫌な奴でも、陸軍士官が陸軍士官を殺すはずがなかろう。だがな、やりすぎはよくない。やりすぎはな」
事と場合によっては、田中でも闇から闇に葬られるのだ。
――やはり満州は無法地帯だ。
日本国内と違い、関東軍が天下を取った満州では、主流派の石原なら何をやっても許されるのだろう。もちろんしたたかな田中が、そんな簡単に殺されるはずはないのだが。
「で、何が聞きたい」
「はい。では――」と言うと、留吉は身を乗り出すようにして問うた。
「ずばりお聞きしますが、満州国を建国するのですか」
「ははは、知らんな」
「すでに国内外では、その噂で持ち切りです」
「君らが噂を報道するのは勝手だが、わしはそんな噂を知らんぞ」
「でも石原参謀の『世界最終戦論』によると、最終戦争は不可避なので、そうなる前に満蒙を領有すべきだと書かれていましたが」
「それは理想論だ。現実には大きな壁が立ちはだかっている」
「どんな壁ですか」
留吉は徹底的に石原を追及するつもりでいた。
「中国人、満州人、蒙古人だ。彼らの意向もあるし、欧米だって黙ってはいない」
「満州人の国を樹立させ、日本がその後見にあたるということではないのですか。それならば形の上では、満州人の独立国家になります」
「そこまでは知らんよ」
石原が月餅に手を伸ばす。
「君もどうだ」
「いただきます」と答えるや、留吉は月餅を一口かじった。
「うまいか」
「はい。うまいです」
「それが満州だ」
石原が続ける。
「手を伸ばし、食らいつけば、これほどうまいものはない。だがな、うまいものほど危険なのだ」
「では、満州国を建国することは、日本にとって危険と承知なのですね」
満州国を建国するとなれば、それを支えるのは日本になる。つまり日本の傀儡(かいらい)政権となれば、国民党を率いる蒋介石やその傘下に入った張学良だけでなく、欧米列強もそろって非難することが想定される。石原はそれを危険だと言いたいのだ。
「事を急ぐな」
石原が茶で月餅を飲み下す。
「今、教えられるのは、ここ長春に、一つの大きな都市を築こうとしているということだけだ。そのために板垣さんと俺は、ここに来ている」
石原が構想を語る。
「われわれは、ここに人口三百万の一大都市を築こうとしている。そのための計画用地は百平方キロメートルだ。だが当面は二十万都市を目指し、それを五年で達成する。そのための計画用地は二十平方キロメートルだ」
「随分と大きな計画ですね。その総予算は――」
「それは教えられんが、途方もない額になる」
まさに国運をかけた都市計画が、ここ長春で進もうとしているのだ。
「これまでわれわれは、旅順や大連をはじめとした満鉄沿線の租借地(そしやくち)を利用し、小規模な都市を造ってきた。だが大半は旧ロシアの造った都市をベースにしたものだった。だがここ長春だけは、われわれの手で、ゼロから一つの都市を造ることになる」
満州の実質的支配者である関東軍は、単に駐屯(ちゅうとん)する軍隊というだけではなく、満鉄と共に都市計画にまでかかわっていた。
「われわれの構想では、町は中心部の住宅地と商業地域、郊外の工業地帯と明確に分け、建物も新都市にふさわしい象徴的なものを建設していく。また幹線道路は幅六十メートルで統一し、交通量の増大にも対応できるようにする」
石原は言葉を選びながら情報を開陳(かいちん)した。むろんそれらは、オープンにしても差し支えのないものばかりだろう。
「なるほど、ここが二十世紀を代表する新都市となるのですね」
「そうだ。世界の範となるような都市だ」
石原の目が輝く。おそらく石原は軍人よりも、政治家か思想家が向いているのだろう。自らの計画を語る熱意溢れる様子が、それを如実に物語っている。
「よく分かりました。それ以上のことは教えてくれませんよね」
「ああ、記事にできるのはここまでだ」
「ありがとうございました」
「これからもよろしくな」
武官と下士官が視線で退室するよう促す。
「一つだけ個人的に関心のあることを、お尋ねしてもよろしいですか」
「何だ」
「張作霖爆殺事件の際、一人の将校が脱走したと聞きました。その将校は長春に潜んでいると聞きましたが、何かご存じありませんか」
「そんなことまで調べているのか」
「はい。実は、個人的に追いかけています」
石原が首を左右に振る。
「特ダネを当てたいんだな。残念だが、俺は知らんね」
「そうですか」
留吉が肩を落とす。
「なぜそんなにがっかりするんだ」
「実は、その将校は、私の兄なのです」
石原の眼光が鋭くなる。
「では、先ほど俺から聞いた話は、どうでもよかったのか」
「いいえ、そんなことはありません。米野さんと臼五さんから、正式に命じられての仕事です」
「では、記事にするのだな」
「もちろんです」
どうやら石原は、自分の知名度を高めたいのか、満州国建国の布石(ふせき)を打ちたいのか、自分の談話を記事にしてほしいらしい。
――そうか。日本人商人が目当てなのだな。
この記事が満州日報に掲載されれば、長春に進出しようという日本人商人も出てくるはずだ。それを石原は目論んでいるに違いない。
「それならよい。だが坂田少尉のことは知らんぞ」
「今、少尉とおっしゃいましたね」
留吉は名刺を出しているので、姓が坂田というのは当然だ。だが少尉とは言っていない。
「ははは、さすが新聞記者だ。人の言葉尻を捉えるのがうまいな」
「何かご存じなんですね」
「知っていれば捕まえているさ。ところがそうもいかん」
どうやら裏には何か事情があるらしい。
「どうしてですか」
「朱春山を知っているか」
やはり鍵を握っているのは朱春山なのだ。
「知っています」
「兄さんは朱春山の許に逃げ込んだらしい」
「ということは――」
「われわれが手を尽くしても見つかるまい」
天下の関東軍が見つけられないとなると、留吉が見つけるのは困難を通り越して不可能に近い。
――だが、それをやり遂げねばならないのだ。
留吉は焦る気持ちを抑えて問うた。
「なぜ朱春山は兄を匿(かくま)っているのですか」
「張作霖爆殺事件の真相を知っているからだ。その手札をどう使うか、朱春山は考えているに違いない」
「つまり張学良に売り渡すと――」
「それも一つだ。だがそれをやられると、われわれには都合が悪い」
そうなれば、欧米がこぞって関東軍を非難してくるのは明らかだ。
「では、私が捜し出します」
「まあ、無理だろうな」
石原が食べかけの月餅を再び口にした。
「いいえ、捜し出してみせます」
「本気か」
「はい」
石原が視線を外すと言った。
「朱春山の居場所は分からんが、こちらに来ているのは確かだ。来ている目的は阿片芥子(けし)の栽培地を物色するためだ」
それがヒントなのは明らかだった。
「ありがとうございます。では、一つだけお願いがあります」
「何だ」
「車を一台貸して下さい」
阿片芥子の栽培地となると、郊外を走り回らねばならない。
「君は運転できるのか」
「できません」
「では、運転できる者を雇うしかないな。どのみちガイドが要るだろう」
「はい。ガイドだけでなく運転手も雇うつもりです」
「よし、一台、都合つけてやる」
石原が武官に目配せすると、武官がうなずいた。
「だが郊外は、危険がいっぱいだ。くれぐれも気をつけろよ」
「恩に着ます」
立ち上がって一礼すると、武官が車のキーを持ってきた。
「ホテルの裏に車が何台かある。これがキーだ」
そのキーには、車のナンバーの書かれたタグが付いていた。
「ただし、兄貴を連れ帰ることができたら、俺に引き渡せ」
「それが条件ですか」
「そうだ。命は保証する」
いかに信義に厚いと言われる石原でも、それはあてにならない。留吉が黙っていると、石原が付け加えた。
「どこかに逃がそうなどとしたら、君も逮捕する。そうなれば、もう取材などできず、満州日報からも放り出されるぞ」
満鉄を使わなければ、日本との窓口の大連まで逃げることなどできない。つまり慶一が大手を振って外を歩けるようにしない限り、日本に連れ帰ることなどできないのだ。
「分かりました」
「よし、俺の手を煩わせるなよ」
「分かっています。ありがとうございます」
大きく息を吸うと一礼し、留吉は石原の部屋を後にしようとした。
「おい、これを忘れるな」
石原がホルスターごと拳銃をテーブルの上に置いた。
「銃など使ったことはありません」
「馬鹿だな。これを持たずに郊外に行けば、三日と持たずにお陀仏(だぶつ)だぞ」
留吉が息をのむ。
「ど、どうしてですか」
「郊外には、馬に乗った匪賊(ひぞく)、いわゆる馬賊がうようよしている。奴らは日本人と見れば、捕らえようとする」
「なぜですか」
「人質にして金を払わせるためさ。これまでも日本人商人などが囚われて、金を払って返してもらった」
「関東軍は助けてくれないのですか」
「軍が動けば人質は殺される。だから人質返還交渉は密かにせねばならない。君が囚われても満州日報は救ってはくれんぞ。だから自分の身は自分で守るしかないんだ」
石原が高笑いした。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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