夢燈籠第14回

 昭和三年の夏、一時的に江ノ島に帰った留吉は、鵠沼(くげぬま)海岸で海水浴の監視員をやりながら夏休みを過ごしていた。
 鵠沼海岸は明治の中頃に海水浴のできる海岸として開発され、明治三十五年(一九〇二)に藤沢駅から片瀬駅(現・江ノ島駅)まで江ノ島電鉄が開通したことで、賑わいを増していた。この翌年にあたる昭和四年(一九二九)には小田急江ノ島線も開通し、都心から海水浴客が押し寄せ始めたので、この年は、湘南の住人たちだけの避暑地として、最後の落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
 鵠沼海岸では毎日のように地引網も行われ、アジ、サバ、イワシなどの水揚げがあった。漁師たちは親切で、余った魚やサザエを監視員たちに分けてくれた。そのため夜は焚火(たきび)を囲み、焼き魚やサザエに舌鼓を打ちながら、皆で酒盛りをした。
 留吉は夏休みを満喫(まんきつ)していた。
 そんなある日の夕方、海岸で仲間と焚火にあたっていると、白い開襟(かいきん)シャツを着た正治(まさはる)が、ぶらりとやってきた。次兄の正治も夏休みで帰省してきていた。
「兄さん、浜に来るなんて珍しいじゃないですか」
「ああ、海の近くに住んでいても、めったに海に行かない俺だからな」
 正治は相変わらず色が白く、江ノ島で生まれたとは思えない。
「ひとつどうですか」
 留吉が串に刺したアジを差し出したが、正治は顔の前で手を振った。
「遠慮しておくよ」
「そうですよね。兄さんが、ここで魚にかぶりつく姿など想像できませんからね。それで、今日はどうしたんですか」
「兄貴のことだ」
「慶一(けいいち)兄さんが何か」
「まあな」と言いながら正治が話しにくそうにしているので、留吉は「帰って話しましょう」と言ってシャツを着ると、江ノ島大橋に向かって歩き出した。
「慶一兄さんに何かあったのですか」
「うむ。ここのところ手紙が途絶えていたので、母さんが心配していたろう」
 慶一は筆まめだった。ところが今年に入ってから手紙は途絶えがちになり、春以降は音信不通になっていた。父の善四郎(ぜんしろう)によると、「軍人になると、その行動の大半は秘匿(ひとく)されるので、手紙が書けないのだろう」ということだった。しかし慶一は工兵隊に配属されたので、重大な任務に就いているとは思えない。
「忙しくなったのでは」
「それが違うらしいんだ」
「何かあったのですか」
「俺も父さんに『何の件ですか』と問うたところ、兄さんの所在が不明になったと告げられたんだ」
「えっ、国内で行方不明になったのですか」
「僕にもよく分からない。とにかく一緒に話を聞こう」
 話しているうちに江ノ島に着いた。二人は重苦しい雰囲気の中、石段を上がると、自宅に入った。
 父の善四郎は、自宅の居間で「敷島(しきしま)」を吸いながら二人を待っていた。
「そこに座れ」
 やけに改まった様子なので、嫌な予感がした。
「留吉、正治から用件は聞いているな」
「慶一兄さんのことですね」
「そうだ。最後に届いた手紙が二月で、それ以降、どこで何をしているのか不明だったが、実は先ほど陸軍省から通達が届いた」
 そう言いながら善四郎が「陸軍省」と印刷された封筒を取り出す。
「ここに書かれていたのは、慶一が――」
 さすがの善四郎も言葉が上ずる。
「慶一が満州で行方不明になったということだ」
「ええっ、満州ですか」
 正治と留吉が同時に声を上げた。
 深くため息をついた後、正治が問うた。
「父さん、兄さんは内地にいたのではないのですか」
「そのようだ。最後に来た手紙が千葉の松戸(まつど)の消印だったので、てっきりまだ陸軍工兵学校にいるとばかり思っていた。だが、いつの間にか満州に渡っていたようだ」
 陸軍工兵学校は松戸にあり、慶一はそこで築道や橋梁(きょうりょう)建設といった工兵の勉強をしていた。
 留吉が慌てて問う。
「満州で何をしていたのですか」
「全く分からない。ただ戦闘ではないらしいので、何かの事件に巻き込まれたのだろう」
「では、戦死というわけではないのですね」
「そうだ。先ほど陸軍省に電話したのだが、行方不明の状況などは一切分からないということだ」
 正治が問う。
「母さんは――」
「奥の仏壇の前で泣いている。登紀子(ときこ)も一緒だ」
「何とか捜し出す方法はないのですか」
「陸軍省の担当によると、今は情報を収集しているとのことだ」
「では、見つけられる見込みはあるのですね」
「分からん。詳しいことは、東京の陸軍省にも伝わっていないようだ」
 善四郎がため息をつく。
「われわれはどうすればよいのですか」
「何もできない。陸軍省からは『こちらで捜すので任せてくれ』と言われている」
 善四郎が苛立ちもあらわに煙草(タバコ)をもみ消す。
「父さん」と正治が思いつめたように言う。
「私が会社を辞めて満州に行きます」
「馬鹿を言うな。お前などに何ができる」
「父さんは、そうやって私を否定ばかりしてきました。私だって兄さんが心配です」
 正治が嗚咽(おえつ)を堪える。
「お前が満州などに渡れば、流感にやられていちころだぞ」
「たとえそうだろうと、何もしないよりはましです!」
「わしの言うことが聞けんのか!」
「聞けません!」
 留吉が割って入る。
「待って下さい。今内輪もめして何になるというのです」
「うるさい!」と言うや、正治が善四郎を指差す。
「父さんは慶一兄さんばかり可愛がっていた。私と留吉は眼中になかった」
 腕組みした善四郎は、さも当然のように言った。
「長男なのだから大切にして当たり前だ。だが可愛がってばかりではないぞ。お前らの知らないところで、奴には辛く当たったこともあった」
「だから兄さんは出ていったんだ!」
「それは違う。奴は――」
 善四郎の唇が震える。
「わしの仕事を軽蔑し、他人から尊敬される仕事に就きたかったのだ」
 善四郎と慶一の間でも様々な確執があったのだろう。この時代、長男が家業を継がないということは、それだけ重大なことなのだ。
「それはわれわれも同じです。われら兄弟は、女性たちが春をひさいで稼いだお金で飯を食ってきたんです」
「いいかげんにしろ!」
 善四郎の平手が飛び、正治が頬を押さえてのけぞる。
 留吉がすかさず善四郎の右手首を押さえた。
「父さん、暴力はいけない!」
「放せ!」
「暴力を振るわないと約束して下さい」
「分かった」と言って、善四郎は渋々従った。
「正治兄さんも、家業を悪く言うのはやめて下さい」
 正治は頬に手を当てて横を向いたままだが、反論しないので了解したのだろう。
 善四郎がため息交じりに言う。
「家族を食べさせていくことがどんなにたいへんか、お前のような遊民には分かるまい」
 正治がすぐに反論する。
「遊民ではありません。今は出版社の編集という立派な仕事に就いています」
「そんなものは遊民と同じだ」
「それは違います。皆で必死に建築の将来を考えています」
 正治は建築関連の出版社に勤めている。
「では、お前の仕事は立派で、わしの仕事は立派でないと言うのか」
「胸を張ってお天道(てんと)様の下を歩ける仕事ではないでしょう」
「もう一度言ってみろ!」
 善四郎は立ち上がると、正治のところまで行ってその胸ぐらを摑んだ。今度は拳を固めている。
咄嗟(とっさ)に留吉が間に入った。
「二人ともやめて下さい。たとえ汚れた金だろうと、われわれ兄弟が大学まで通えたのは、父さんのおかげです。それには感謝しています」
「留吉、お前まで私の仕事を馬鹿にするのか」
「――――」
 留吉は何と答えてよいか分からなかった。
「わしだって――、こんな仕事に就きたくなかった。だがあの時のわしに何ができたというんだ。祖父(じい)さんは有無を言わさぬ男だった」
 祖父の庄三郎は(しょうざぶろう)一代で財を成した立志伝中の人物だった。一人息子の善四郎が跡を継ぐ前提で、すべてを運んでいったのは想像に難くない。明治というのは家父長の権力は絶大で、逆らうことなどできない時代だったのだ。
 ――父さんも辛かったのだ。
 留吉が善四郎の立場だったとしても、庄三郎に逆らうことなどできなかったに違いない。
 正治が頭を下げる。
「父さんの気持ちも知らずに勝手なことを言い、すみませんでした」
「分かったならよい。今は家族が一丸となり、慶一の吉報を待つしかない」
 それで話し合いは終わった。もはや何を話し合おうが、家族にできることはないのだ。
 奥の間からは、母のいさの嗚咽といさを慰める登紀子の声が聞こえてくる。
 ――慶一兄さん、どうか帰ってきてくれよ。
 留吉も慶一の無事を祈るしかなかった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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