夢燈籠第6回

 大正時代は、何もかもが民衆に解放された時代だった。とくに江戸時代から明治半ばまで、民衆は政治について批判的なことを言えない雰囲気が、どことなく醸し出されていた。だが明治も後半に差し掛かる頃から、議会制民主主義の導入などによるデモクラシーの潮流が押し寄せ、また知識階級の子弟が次々と欧米から帰国し、その自由な空気が日本にも流れ込んできた。
 これにより大正に入ると、政治、社会、労働などの分野で大衆運動が盛んになり、それと比例するように、教育の普及によって新聞が爆発的に売れ始め、大衆運動を煽ることになり、大正デモクラシーと後に呼ばれる時代が到来した。
 こうした潮流は止まらず、第一次世界大戦での輸出超過によるインフレと、米商人や地主による米の投機的買占めによる米価急騰が発生したため、全国八十八カ所で米騒動が勃発し、大正七年(一九一八)、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣は総辞職に追い込まれた。
 後任には、平民宰相と呼ばれた原敬(はらたかし)が就任し、本格的政党内閣が発足する。民衆はこれに力を得て、政治を動かせる自信を深めた。だが大正九年(一九二〇)三月、株価暴落をきっかけとして戦後恐慌が始まり、日本経済の不透明感は増していった。
 そうした不景気が長引く大正十二年(一九二三)九月一日の土曜日正午前、一大事件が勃発する。

 夏休みが終わった翌日、誰もが眠そうな目で数学の授業を受けていると、足下に不自然な微動を感じた。誰かの「あれ、地震かな」という声が聞こえ、皆が顔を見合わせていると、黒板に向かって何かの数式を書いていた教師が手を止めた。
 一瞬、微動が止まったので、教師が再び黒板に向かおうとした時だった。船に乗って、時化(しけ)に遭遇した時に感じるような大きな揺れが襲ってきた。上下動を伴っているので、立ち上がることもままならない。誰もが机を摑んで体を支えようとしたが、立っていた教師は黒板に背を張り付けるようにして天井を見上げている。それでも再び揺れが止まりかけたので、周囲に安堵のため息が広がった。
 だが次の瞬間、木造校舎のすべての木が軋み音を上げるような、凄まじい揺れが襲ってきた。
「うわー、でかいぞ!」という誰かの叫び声が聞こえた。その後も長周期の揺れが続く。
 ようやく職務を思い出した教師が、「落ち着け。机の下に潜れ」と命じる。激しい横揺れの中、皆は次々と机の下に潜り込んだ。もちろん留吉(とめきち)も同じようにした。
 次の瞬間、どこかで何かが崩れる大きな音が聞こえてきた。
 ――たいへんなことになった。
 誰かの「校舎が崩れるぞ。外に出ろ!」という声が聞こえる。それを聞いて飛び出していく者もいれば、教師の指示に従って、机の下にうずくまったままの者もいる。
 ――どうする。
 揺れが一時的に収まったので、机の上に顔を出した留吉は、皆が廊下に出ようとしているのを見て、つられるように立ち上がった。
 ――よし、出よう!
 こうした場合、机の下にうずくまり、動かないようと教えられてきたが、本能の命じるままに外に出ることにした。
 廊下に出ると、三度目の揺れが襲ってきた。眼前で転倒する者もいる。それを助け起こそうとしたが、足元が揺らいで膝をついてしまった。
 ――まさか、死ぬのか。
 死の恐怖が押し寄せてくる。身動きが取れないので、皆で体を寄せ合っているしかない。頭上でぶらぶらしていた電球が落下し、天井から埃(ほこり)が落ちてくる。どこかで「崩れるぞ!」という声が聞こえる。だが揺れが激しく、立ち上がっても歩けない。
 遠くから「助けて」「母さん」「死にたくない」といった声も聞こえる。たまたま窓から外を見ると、町全体がぐらぐらと揺れており、学校の前にあった木造家屋が一切姿を消していた。土煙が視界を閉ざし、その間から幾筋もの煙が空高く上がっており、町中で火災が発生しているのは明らかだった。
 ――たいへんなことになった。
 ようやく未曽有(みぞう)の大地震に襲われたと分かってきた。それでも揺れは次第に大きな周期になったのか、立ち上がろうとする生徒の姿も見えた。
 留吉も立ち上がると、壁を伝いながら階段まで来たが、留吉の学年は二階なので、階段は大混雑だった。大きな揺れの中、押し合いへし合いしながら、それでも何とか一階に下りることができた。
 その時、大きな軋み音と絶叫が聞こえた。どうやら校舎の一部が崩れたらしい。
「火だ。火が見えるぞ!」
 誰かの絶叫が聞こえた。火元がなくても、乾燥した木がこすれ合えば火がおこることもある。留吉は理科の実験で習ったことを思い出していた。
 押し合いへし合いしながらも、ようやく校舎の外に出られた。皆で校庭の中央付近に寄り集まり、遅れた生徒たちが校舎から出てくるのを茫然と眺めていた。
 教師たちが崩れた校舎の方に走っていく。崩れた瓦礫(がれき)の中に生徒がいるかどうか、確認に行ったようだ。
「手伝いに行こう!」という誰かの声がすると、その辺りにいた全員が立ち上がった。すでに時折余震が襲ってくるだけで、揺れは収まってきている。
 西側の校舎の一部が崩れていたが、避難が早かったためか、下敷きになった生徒はいないようだ。
「点呼だ。点呼を取れ!」
 校長らしき声が聞こえると、ようやく担任が「集まれ!」と言い、生徒たちを組ごとに集めた。
 留吉も担任のいる場所に行き、点呼に応えた。点呼を終えた担任は「よし、全員いるな」と確認すると、「そこを動くな!」と命じて校長の許に走っていった。
 やがて皆が心配顔を見交わす中、校長は朝礼台に上ると、高らかな声で叫んだ。
「全校生徒無事!」
 次の瞬間、校長が膝をついた。責任の重さから解放されたからか、ハンケチを出して目頭を拭っている。あの恐ろしい校長が泣いているのだ。
 生徒たちは互いの無事を喜び合い、笑顔で肩を叩き合った。だが誰かの一言で、状況は一変する。
「家はどうなっている!」
 皆が浮足立つ。集団がばらけ始め、一斉に門の方に向かおうとする。その背に校長の声が追いすがる。
「学校から出てはいけない。状況が分かるまで、ここにいるんだ!」
 それを聞いた教師たちが、正門まで走っていって通せん坊をする。
「駄目だ。出てはいけない!」
 制止されれば出たくなるのが人情だ。皆が正門に殺到する。
「裏門には誰もいないぞ!」
 その声は教師たちにも聞こえたらしく、何人かが裏門に走っていった。
「出てはいけない!」
 校長が声を嗄(か)らす。ようやく落ち着きを取り戻した生徒たちは、家のことが心配で気もそぞろながら、校庭の中央付近に戻ってきた。それを教師たちが押し包むようにする。
 ――先生たちも家族を家に残してきているんだ。
 この有様を見れば、誰もが家のことが心配だろう。教師の中には、新婚ほやほやの者もいれば、赤子が生まれたばかりの者もいる。だが教師たちは職務を全うすべく、生徒たちの安全確保に努めていた。
「井戸から水を汲め!」
 誰かの声でわれに返ると、校舎から出ていた煙は赤い炎と化していた。もはや校舎は救えないが、周囲への延焼を防ぐためにも消火せねばならない。教師は生徒たちを並ばせ、バケツリレーを行おうとしていた。それに気づいた生徒たちは、すぐに一列に並ぶ。普段の防災訓練の成果だった。
 やがてバケツリレーが始まったが、そんなもので火が消えるはずもない。それでも教師も生徒も必死になってバケツを回していった。
 だが次第に火勢は強くなり、手の施しようがなくなった。生徒たちは火の粉をかぶり、咳き込みながら、校舎が焼け落ちるのを見つめるしかなかった。
 そこに遊行寺(ゆぎょうじ)の坊さんたちが助けを求めてきた。どうやら遊行寺も倒壊したらしい。だが校長が首を左右に振っているところを見ると、助けを出すことはできないようだ。教師たちには生徒の安全確保があるので致し方ないと覚ったのか、坊さんたちはあきらめて戻っていった。
 しばらくして再び校長が朝礼台に上がる。
「安全な場所に誘導してもらえるよう警察や消防に依頼しようとしたが、電話はつながらない。連絡に走った教師も戻らない。見ての通り、周囲は煙に包まれている。どうやら東京も横浜も、たいへんなことになっているらしい。ここを出るのは危険だが、ここも安全とは限らない。だからといって列を成して海岸に向かうのは至難の業(わざ)だ。苦渋の決断だが、それぞれの判断に任せたい」
 校長が涙ながらに訴える。確かに校庭にも煙が立ち込め始め校庭が安全とは言えない状況になってきていた。広い場所が安全とは限らないのは、東京の本所(ほんじょ)区(現・墨田[すみだ]区)にある被服廠(ひふくしょう)跡で起こった火災旋風でも、後に証明されることになる。理科の教師が、校長にその危険性を指摘したのかもしれない。
「どうする」
 突然声を掛けられて振り向くと、岩井壮司(いわいそうじ)が心細げな顔で立っていた。
「どうもこうもない。いったん海岸に逃れるしかあるまい」
「そうだな。その後で江ノ島に帰るのか」
「ああ、そうなるだろう」
 鵠沼(くげぬま)方面からは江ノ島に渡れないので、海岸沿いに東方に向かい、腰越(こしごえ)方面に出なければならない。
 正門の方を見ると、通せん坊していた教師たちはすでにおらず、何人かの生徒が校外へと走り去るのが見えた。だが校外は煙に包まれ、時折人の叫び声がしている。その中に飛び込むのは危険すぎる。
 多くの生徒が躊躇(ちゅうちょ)していると、黒煙でかすむ朝礼台に校長が三度(みたび)上った。
「みんな聞いてくれ。どうやらここは危険だ。それぞれ何人かに分かれて海岸を目指せ。友が倒れても――」
 すでに嗄れ始めていた校長の上ずった声が聞こえた。
「振り向かず走れ。最後に走っていくわれらが、倒れている生徒を背負っていく!」
 その声を聞いた生徒たちは、五人から十人のグループに分かれて走り出した。
「岩井、行くしかないな」
「ああ、そのようだ」
 近くにいた級友を誘い、留吉たちも駆け出した。海岸までの道は分かっているが、黒煙で包まれた中を行くのは恐ろしい。
 ――倒れても先生たちが助けてくれるのか。いや、いかに先生でも他人を頼りにはできない。
 生徒たちを外に出すのは危険すぎるが、校長としては、一人でも多くの生徒を救うための苦肉の策だったのだろう。
 留吉の集団も外に飛び出した。案に相違せず、外は黒煙に包まれ、住民たちが何事かを叫びながら消火活動に従事している。道路上に積み重なる瓦礫の山の間を縫いながら、留吉は走った。
 海が近づくと松林の中なので走りやすくなった。小走りから全力疾走に切り替わる時、壮司の声が聞こえた。
「みんな、自分の命は自分で守れ。誰も守ってくれぬぞ!」
 ――その通りだ。生きたければ、自分だけが頼りだ。
 留吉はそう自分にそう言い聞かせると、グループの先頭を切って走り出した。
 黒煙に行く手を遮られながらも、何とか鵠沼海岸に着いた。先着していた者たちが砂浜に倒れ込んでいる。先に避難してきていた住民たちが、バケツの飲料水を分け与えている。
 知らぬ間に黒煙で喉をやられたのか、声が出ない。留吉は這いずるようにして水の方に向かった。
「兄ちゃんたち、よう助かったの」
 そう言いながら、どこかの主婦が柄杓(ひしゃく)で水を飲ませてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 ようやくそれだけ言った留吉は、その場に大の字になった。曇天(どんてん)で南風が強く吹いている。それが火災をひどいものにしていると気づいた。
 ――そうだ。江ノ島はどうなっている。
 上体をを起こして江ノ島の方を見ると、幾筋もの黒煙が上がっていた。西は岩場なので、いつもと変わらない風景だが、これまでとは違って、岩場が何段にもなって見える。
 ――海面が下がっているのか。
 だがそんなことよりも、留吉は家がどうなっているかが心配だった。空には幾筋もの黒煙がたなびいており、死角となっている東側で火災が発生しているようだ。
 ――家はだめかもしれない。
 不安と同時に、何かから解放されたような不思議な感覚を、留吉は味わっていた。
「おい、坂田(さかた)。こにいたのか。心配したぞ」
 まだ息を切らしながら、壮司が言う。
「壮司、お前こそ無事でよかった」
 なぜか涙が込み上げてきた。その理由は定かでない。非日常の中で日常の象徴のような親友を見つけ、安心したこともあるのだろう。
「泣くな。お前らしくない」
「ああ、そうだな」
「それより家が心配だな」
「うむ。お前はすぐに平塚に帰るのか」
 壮司が西の方を向く。
「急いで帰ったところで、火災に巻き込まれてはたまらんからな」
 壮司はいつもと変わらず冷静だった。
「しかし心配ではないのか」
「俺が何を心配する」
「お前にも家族がいるだろう」
「家族は何とかしているだろう。ここまで集めてきた『少年倶楽部』が焼けていないか心配なくらいだ」
「少年倶楽部」とは大正三年(一九一四)に創刊された少年向け雑誌で、この頃、爆発的な人気を博していた。壮司は後追いだが、古本屋を足繁く回り、かなりのバックナンバーをそろえていた。
「そうだな。慌てて炎の中に飛び込むのは危険だ」
「では、お前はどうする」
「僕の家は目と鼻の先だ。全島が燃えていたら別だが、さほどでもなかったら腰越から出る船で戻るつもりだ」
 その言葉に、壮司も動かされたようだ。
「そうだな。僕も慎重に戻るとするか」
「気をつけろよ」
「分かっている。お前こそな」
 そう言ってにやりとすると、壮司は西の方に歩いていった。その後ろ姿を見送ると、周囲を見回すと、級友の姿もまばらになっているのに気づいた。家のことが心配で、誰もが家路に就いたのだ。
 ――よし、何があっても動じないぞ。
 留吉は覚悟を決めると、江ノ島の家に戻ることにした。

 案に相違せず、江ノ島へと至る桟橋(さんばし)は落ちていた。そのため江ノ島と腰越漁港の間には、多くの漁船が行き来していた。
 腰越漁港に行くと、知った顔の漁師がいたので、江ノ島の損害を問うと、さほどでもないという。それで安堵して、臨時の受付所のようなところに行き、島に渡りたい旨を伝えると、名前を書いて待つように言われた。
 かれこれ一時間ばかり待ち、ようやく漁船に乗ることができた。すでに日は沈み始めており、江ノ島の子供のように南端部にあった聖天島(しょうてんじま)が随分と大きく見えた。
後に知ることになるが、江ノ島は地盤が一メートルほど隆起し、聖天島は江ノ島と陸続きとなり、これまで海中にあった波食台(はしょくだい)が陸上に顔を出すことになる。
船着き場に船が近づくと、島を出ようとしている人々が桟橋に集まっているのが見えた。だがざっと島を見回しても、すでに平静を取り戻しているように見える。おそらく先ほど見た煙は、島の向こうの腰越辺りの民家から出ていたのだろう。
後に分かったことだが、江ノ島は全島が岩礁なので地震の被害はさほどでもなく、倒壊したのは江島(えのしま)神社の古い建物、岩本楼(いわもとろう)と恵比寿楼(えびすろう)が増築している部分などで、全壊家屋は十一戸、半壊十八戸という軽微な損害だった。
桟橋で船を下りた時は、さほどの損害でもないと分かっていたので、顔見知りに頭を下げながら弁天楼(べんてんろう)に向かうと、次兄の正治(まさはる)に出会った。昨年、正治は早稲田大学に入学し、ふだんは大学に通うようになっていたが、この日はまだ夏休みだったので家にいた。
「留吉か。無事でよかった」
「兄さんも」
 正治の顔を見たら、なぜか涙が出てきた。
「泣くな。家族も使用人も皆無事だ」
「ああ、よかった」
「さあ、皆が心配しているから、早く行ってやれ」
「兄さんはどこへ」
 正治は空の一升瓶(いっしょうびん)とズダ袋を持っていた。
「桟橋まで行って水と食料を調達してくる」
「僕も行きます」
「何を言っている。皆に無事を知らせるのが先だ」
 それもそうだと思い直した留吉は、正治と別れると階段を駆け上った。やがて無傷で立つ弁天楼が見えてきた。
 ――ああ、よかった。
 玄関口で「留吉、戻りました!」と声を上げると、廊下をどやどやと皆が走ってきた。
「留吉、無事か」
 いつもは不愛想な父の善四郎(ぜんしろう)も、この時ばかりは満面に笑みを浮かべている。
「よう帰ってきた」
 継母のいさと姉の登紀子は、もう涙ぐんでいる。
「お前、怪我はないかい」
「ありません」
「留ちゃん、よかったね」
 肩に触れる姉の手が、やけに温かく感じられる。
 皆が無事だったことが、実感を持って迫ってきた。
 ――家族とはいいもんだな。
 だがすぐに、自分だけ母親が違うということが思い出された。
「慶一(けいいち)は無事だろうか」
 いさが心配そうに言う。
「横須賀(よこすか)の方が火山のように見えたという人がいました」
 いさの弟の又吉健吉(またよしけんきち)の家は浦賀(うらが)だが、横須賀に近いので、誰もが心配なのだろう。時間的に、慶一は又吉宅で士官学校の受験勉強をしているはずだ。だが電話が不通なので、安否を確かめる術(すべ)はない。
「火山とは大げさだ」
 善四郎が威厳を取り繕いつつ言ったが、不安そうに見える。
 登紀子が明るい調子で言う。
「ここで心配していても仕方がないわ。無事を祈りましょう」
「そうだな。まずは家の被害を調べよう」
 そう言うと、善四郎が老執事と一緒に家の周囲を見に行った。ほとんど被害がなかったとはいえ、瓦(かわら)の大半は落ちているので、台風が襲ってくれば屋根が飛ぶかもしれない。
「これだけ瓦が割れてしまっては、修繕に金がかかるな」などと執事に言いながら、善四郎は歩き去った。
 そこに正治が戻ってきた。
「わずかだが水と食料を調達してきた」と言いながらも、水は一升瓶を満たし、袋の中には魚介類が随分と入っていた。
「お米と味噌(みそ)はあるから、これなら全員分の夕飯が作れるわ」
 それを見て、いさと登紀子の顔に笑みが浮かぶ。
「僕は離れに行ってみます」
 誰も聞いていなかったが、そう言い残すと、留吉は離れに向かった。
 離れに入ると、仏壇は無事だったが、仏具が落ちてしまっていた。ぬいの位牌も落ちていたので、慌てて仏壇に戻した。
 ――ぬいが守ってくれたのだな。ありがとう。
 窓の外を見ると、燈籠も変わらず立っていた。それに安堵した留吉は、仏壇に手を合わせてから片づけに入った。本棚も倒れていたので、室内は見るも無残な有様だ。それでも本棚を起こし、最初の一冊を手に取ると、なぜかやる気が起きてきた。
 ――何事も最初の一歩からだ。今回の震災で、関東はひどいことになっているだろう。だが必ず元に戻せる。
 離れの片づけが終わり、母屋の手伝いに行くと、正治が「若い衆は江島神社に集まれという触れが回ってきた」というので、二人で集合場所の江島神社に向かった。力仕事に駆り出されるのだろう。
 かくして江ノ島でも復興の第一歩が踏み出された。
この後、各地の被害状況が明らかになってきた。高校の友人の中には、家が倒壊して家族に犠牲者が出た者もいた。だが横浜や横須賀に比べれば、藤沢(ふじさわ)市の被害は軽微で、津波による被害も、海岸近くある数軒の家屋が流されただけで済んだ。
その後、慶一の無事も確認され、坂田家は人的被害なくして大震災を乗り切った。それは湘南(しょうなん)地区に実家が多い級友たちも大同小異だった。岩井壮司の家も無事だったが、後に壮司は、「家が倒れて親父の一人でも死んでくれない限り、何も変わらん」とうそぶいていた。
後に分かったことだが、震源地は相模湾だったが、直接的な地震の被害、つまり地震による家屋の倒壊よりも、火災による被害の方が大きく、それは家屋が密集している東京や横浜の一部の地域でとくにひどかった。大震災の死者と行方不明者は、おおよそ十万五千人で、うち火災による死者は九万二千人にも上った。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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