夢燈籠第25回
十四
中国大陸と阿片(アヘン)は切っても切れない間柄だ。いまだ日本が泰平の眠りに浸っていた天保十一年(一八四〇)、中国大陸では阿片をめぐって、英国と中国(清)の軍事衝突が勃発していた。阿片戦争である。
当時の英国は、清から茶、陶磁器、綿などを大量に輸入していたが、清がほしがる輸出品がなく、大幅な輸入超過となっていた。いわゆる貿易赤字である。そのため英国は一計を案じた。植民地のインドで製造した阿片を輸出し、清に銀で支払わせたのだ。この政策により、貿易収支は逆転し、中国大陸から大量の銀が流出した。そのためインフレが巻き起こり、物価が高騰した。
しかも阿片は中毒性が高い上、摂取し過ぎると精神錯乱を伴う衰弱が激しくなり、廃人になってしまうという恐ろしい薬物だった。それが凄まじいスピードで大陸を蝕(むしば)んでいった。
清政府としては当然のように阿片を禁輸したが、逆に密貿易が盛んになり、阿片の流入は止まらない。そのため清は英国商人の阿片を没収した。これに対し、英国は自国民保護の名目で兵を送り、双方は戦争となった。そうなれば装備で圧倒的に有利な英国が勝つのは、自明の理だった。
こうした経緯があり、日本軍が満州に進出する前から、満州には阿片が蔓延(まんえん)していた。当初は取り締まりを強化しようとしていた日本政府の出先機関の関東庁だったが、阿片はソ連からも入ってくるので、禁輸することは困難だった。そこで関東庁は阿片管理政策を取ることにした。
これは特定の商人だけに阿片の製造・販売を託すことで、その蔓延を徐々に終息させていくという方法だが、中国系商人はしたたかで、専売権を与えられれば、さらなる商圏の拡大を図るのは自然の摂理だった。
こうしたことに頭を悩ませた関東庁は、石本鏆太郎(いしもとかんたろう)という満州の阿片調査を担当してきた人物に、すべての阿片事業を委ねた。この意を受けた石本は阿片の管理政策を徹底し、阿片患者の蔓延を防ぐことに力を注ぐ。だが石本もしたたかで、莫大な個人資産を築いた。これに関東庁が文句をつけられなかったのは、石本が私財で関東庁の財源を賄(まかな)ったからだ。
さらに石本は、自身が稼いだ巨万の富を、旅順・大連間の道路の敷設、公園、市営住宅、図書館の建設、銀行開設などに注ぎ込んだことで、満鉄沿線の都市化も急速に進んだ。
大正四年(一九一五)、初代大連市長に就任した石本が、阿片の製造・販売業から足を洗ったことで、その翌年、関東庁は阿片を専売する阿片総局を設立した。阿片総局は宏済善堂とも呼ばれ、阿片患者を救済する宏済部と卸も含めて阿片を販売する戒煙(かいえん)部に別かれていた。
さらに関東庁は市中に出回る密輸阿片を摘発し、それを正規ルートで売ろうとしたため、関東庁の金庫には金が積み上がっていった。
かくして満州での阿片中毒者は横這いから減少へと転じた。結果的に関東庁のソフトランディング策が功を奏したのだ。しかも日本人の間では皆無と言えるほど阿片中毒者が出なかったことで、日本国内への蔓延も防ぐ形になった。
昭和四年十月、留吉は郭子明を連れ、王谷生の指定した阿片窟に行ってみた。
そこは、この世の地獄としか言えない魔界だった。
阿片窟は出せる金によって設備やサービスが格段に違ってくる。富裕層向けのものは豪奢(ごうしゃ)な内装で、ゆったりとしたベッドに横たわり、品質のよい阿片を味わえる。その逆に貧民向けのものは、衛生環境の悪い狭い場所に、いくつもの寝台が並べられているだけだ。
そこで阿片を吸う人々の顔は虚(うつ)ろで、何かを考えているように見え、実際は何も考えていない。ただ脳を麻痺させる快楽を貪っているだけなのだ。
二人が指定された場所に着くと、その店の周囲には、痩せて骨と皮だけになった中国人たちが群れていた。
「彼らは金がないので阿片窟にも入れない中毒者たちです」
郭子明が顔をしかめる。
日本人が来たことに気づいた中毒者の何人かは、けだるそうに立ち上がると群がってきた。彼らはそろって手のひらを出し、「お金、お金」と片言の日本語で言う。
「出してはいけません」
郭子明が強い調子でたしなめる。
「どうしてだ」
「一人に出せば、ここにいる全員が群がってきます」
そこには優に五十人近くの阿片中毒者がいた。群がってくるのはましな方で、大半は起き上がる気力もなく寝そべったままだ。中には、微動だにせず目を閉じ、生きているのか死んでいるのかさえ分からない者もいる。
――これが阿片の威力なのか。
留吉は改めて阿片の恐ろしさを知った。
「私も親から絶対に阿片やるなと言われました」
そう言いながら、郭子明は群がる中毒者たちをかき分けていく。
「君は一度もやったことがないのかい」
「何度かはやりましたよ」
郭子明がにやりとする。
「よく中毒にならなかったな」
「やり続けなければよいのです」
郭子明によると、慢性的中毒になる者は辛い現実から逃避したいからやるのであって、自分の生活が成り立っている富裕層や将来に希望を持っている若者は、何度かやっても常習者にはならないという。
「そんなに気持ちのよいものなのか」
「それはもう」と答えると、阿片を吸った時のことを思い出したのか、郭子明が陶然とした顔をした。だが、そこにたむろする中毒者たちを見れば、阿片がいかに恐ろしいものか分かる。
「まあ、やらないに越したことはないようだな」
「そうです。やらないのが一番」
そう言いながら店頭に着いた郭子明は、早口で店員と思(おぼ)しき男に話し掛けている。
気づくと、先ほどまで群がっていた中毒者らしき者たちは、関心をなくしたかのように元いた場所に戻っていた。彼らは照りつける太陽を気にするでもなく、ひたすらこの場所で阿片を吸うのを待っているようだ。だが何ら稼ごうともせず、ここにたむろしているだけでは阿片を得る術はない。そんな道理さえ、もはや考えられなくなっているのだ。
店員と話していた郭子明が振り向くと言った。
「店主は不在のようです。中に日本人はいないとも言っています」
「とりあえず確かめたい」
店員は郭子明の通訳を待たずに手を出した。おそらく多少の日本語を理解しているのだろう。
留吉が満州中央銀行券を一枚出すと、店員の顔が輝き、「どうぞ、どうぞ」と言わんばかりに戸を開けてくれた。
中に入るや、阿片独特の刺激臭が鼻をついた。暗い通路を通っていくと、部屋ごとに多少の違いがあるのか、すし詰めの部屋もあれば、空間に余裕のある部屋もある。その中を何人もの店員が阿片をのせた盆を持って行き来している。金のある客に阿片を届けているらしい。
「この人たち、もう先がないです」
郭子明が顔をしかめて言う。大半の客はあばらが浮き出るほど痩せていて、ぼんやりと横たわり、長い筒のようなものを口にしている。そこから出る煙は、彼らの命の灯(ともしび)を奪い取っているのだが、それさえも彼らは考えない。ただひたすら阿片が吸いたいだけなのだ。
――こうなったら人も終わりだ。
留吉は阿片だけには手を出さないと誓った。
阿片窟の中を隅々まで歩き回ったが、慶一はいなかった。残念な反面、ほっとしたのも事実だった。
あきらめて店を出ようとすると、先ほどの店員が郭子明に声を掛けてきた。
話を聞いていた郭子明が首を左右に振る。
「何と言っている」
「自分は日本人を知らないが、ボスは知っているかもしれないと言っています」
「ボスというのは、ここのオーナーか」
「そうです」
「それは誰だ」
郭子明の顔色が変わる。
「阿片特売人の朱春山(しゅしゅんざん)です。とても悪い人。会わない方がよい」
「どこにいる」
「お金くれたら教える」
二人の会話に店員が割り込んできた。どうやら少しは日本語を解するようだ。
「本当か。嘘をついたら日本人の警察官を連れてくるぞ」
郭子明が趣旨を伝える。
「嘘はつかないと言っています」
それを聞いた留吉は紙幣を二枚渡すと、男が言った。
「長春だと言っています」
長春は満州国建国直後の昭和七年(一九三二)三月九日から新京と改名するが、この時期は長春(ちょうしゅん)と呼ばれていた。
――長春、か。
満州日報からは、田中隆吉が奉天にいる限り奉天での滞在を許されているが、勝手に長春に行くことなどできない。
落胆を隠しきれず宿舎としているホテルに戻ると、満州日報編集長の臼五亀雄から電報が来ていた。関東軍が長春で何かを画策しているらしいので、いったん田中隆吉の許を離れても構わないので、河本大作の後任となった板垣征四郎高級参謀(大佐)とその部下の石原莞爾作戦参謀(中佐)から談話を取るよう命じられた。
調べると、二人とも長春に行っていた。
「しめた」と思った留吉は郭子明と共に満鉄に乗り込んだ。
張作霖が爆殺された後、蒋介石は三十万の兵を率いて北京に入り、北伐の終了を宣言した。
これに対し、以前から蒋介石率いる国民党軍との融和を考えていた張学良は、東北軍閥の独立という父張作霖の基本方針を捨て、国民政府の統治下に入った。その条件として、国民政府軍は、奉天、吉林(きつりん)、黒龍江(こくりゅうこう)の満州三省の政治と軍事に干渉しないというものだった。その合意が成ったことで、昭和三年十二月、張学良は父の旗である五色旗を捨て、青天白日旗を掲げた。
これにより国民政府の支援が得られるようになった張学良は、激しい排日運動を始めた。日本の息のかかった工場、農場、坑道を武装警官に襲わせ、再稼働できないようにするや、並行して満鉄潰しを図り、満鉄に並行した路線を敷設し、満鉄の収益を悪化させようとした。
これに日本が黙っているわけがない。陸軍きっての強硬派として知られる作戦参謀の石原莞爾中佐は、武力による満蒙領有を唱え、「満州問題解決方策の大綱」という論文をまとめ、武力発動も辞さない構えを見せた。これを支持したのが高級参謀の板垣征四郎大佐だ。
二人を中心にした関東軍主流派は、これまでの穏健な政策を捨て、武力を前面に押し出し、満州統治に乗り出していくことになる。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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