夢燈籠第63回
十四
昭和九年末に出した中原の詩集『山羊(やぎ)の歌』は、文壇に大きな衝撃を持って迎えられた。
反響の大きさに有頂天となった中原は、多作の季節を迎える。掲載誌も『文学界』『四季』『文芸』といったメジャーなものになり、十年五月には草野心平(くさのしんぺい)らと『歴程』を創刊、さらに『四季』の同人となる。遂に中原は、文壇の中心に名を連ねることになったのだ。
一方、泰子は青年実業家の中垣竹之介(なかがきたけのすけ)と知り合い、結婚した。それでも中原と友人としての付き合いは続き、中原は中垣とも友人となる。
そんな中原に突然の不幸が襲う。
十一月、中原の愛息の文也(ふみや)が病死したのだ。その直後から中原は神経衰弱に陥り、幻視や幻聴を伴い、外も歩けないようになる。
周囲は文也の死のショックから来たものと思っていたが、実は中原自身が病魔に冒されていたと知るのは、随分と後になってからだった。
文也の死の翌十二月、妻の孝子は第二子を出産するが、それについて中原が書き残したものはない。文也の死と自らの病魔によって、中原は正気を保つことさえ難しくなっていたのだ。
昭和十二年初頭、中原は千葉の療養所に入院させられた。後に小康を得た中原が書き残した手記によると、故郷湯田から出てきた母のフクが「診察してもらいに行こう」と言って中原を連れ出し、診察が終わると、すぐに「入院してもらいます」となり、病室に監禁されたという。
結局、二月半ば、中原は脱走するように退院するが、中原が書き残した「治療体験録」という手記を要約すると、「私の神経衰弱は子供が急に亡くなる前後、三昼夜眠れず、また死後の弔い事に忙殺されたことに起因し、しかも妻は臨月で看病もできない上、自分が世間知らずだったため、何もかもが負担になってきたため」としている。
退院した中原は、療養のため鎌倉へ転居することにした。市ヶ谷の家には、文也の思い出が染み込んでいるというのが理由だった。
泰子が運命を呪うような口調で言う。
「その頃の中原は、まだ前を向いていた。文也の思い出を断ち切り、自ら新たな人生に踏み出そうとしていたのよ。それで二月末に鎌倉に移っていった」
それからは、中垣と東京で新居を構える泰子とも疎遠になったという。
「中原は少し元気になると、鎌倉に住む文士たちの許を訪れていたというわ」
「小林さんたちだね」
鎌倉には小林秀雄をはじめ旧友がいた。しかし小林によると、中原は食欲に異常を来しており、異常に大食になっていたという。
そうした異常性とは裏腹に、中原はこの頃、『ランボオ詩集』と呼ばれる訳詩集と、自らの詩集『在りし日の歌』の編集に力を入れていた。まさに蠟燭(ろうそく)が最後の力を振り絞って炎を発するかのような仕事ぶりだった。
しかし九月二十六日、小林秀雄に『在りし日の歌』の清書(最終)原稿を託した時、中原は黄ばんだ顔をしており、生気がなかったという。
倒れる二日前の十月四日、中原は尋ねた先の友人に帰郷の決意を告げた後、「頭痛がひどい上に乱視の気があるのか、電信柱が二つ見える」と述べている。そしてその二日後の六日、中原は激しい頭痛を訴え、鎌倉養生院に担ぎ込まれた。入院時の診断は「結核性脳腫瘍」だった。
一気呵成(いっきかせい)にしゃべると、泰子はため息をついて、灰皿で煙草をもみ消した。灰皿の底には薄く水が敷いてあるらしく、「ジュッ」という音がした。
「坂田さん、中原の顔を見ていく」
「もちろんだ」
「回復の見込みはないし、意識もないわよ」
「構わない。お別れがしたいんだ」
「分かったわ。少し待って」と言いつつ、病室の前まで来た泰子は、そこに佇(たたず)む数人に頭を下げた後、一人病室に入っていった。
しばらくして、病室のドアから半身を出した泰子が手招きした。
中に入ると、母親のフクらしき初老の女性と妻の孝子らしき女性が、中原の横たわる左右に座り、フクは中原の右手をさすり、孝子は悲しげな眼差しで中原を見ていた。
「失礼します」と言って留吉が入ると、泰子が「友人の坂田さんです」と紹介した。二人は青ざめた顔を少し向けて頭を軽く下げた。多くの人が出たり入ったりを繰り返しているので、挨拶するのにも疲れている様子だった。
中原の顔を見た留吉は啞然とした。中原の眼球は異様に膨れ上がり、完全には瞼(まぶた)を閉じられないようだった。そのため半眼を開けて、ちょうど来訪者を見つめるようになっている。おそらく脳腫瘍が膨らみ、内部から眼球を圧迫しているのだろう。
その時、中原が何かをうわ言のように言うと、フクの指を自らの人差し指と中指で挟み、自分の口に持っていこうとした。煙草だと思っているらしい。
「中原さん、坂田です」
そう言ったところで分かりはしないと思いつつも、留吉は頭を下げた。
「ああ、そうか。ああ、そうか。」
中原のうわ言が言葉になった。
「Je Voyage――」
「中原さん、何か言いましたか」
泰子が小声で耳打ちする。
「多分、『俺は旅する』と、フランス語で言ったと思う」
『ランボオ詩集』を完成させたばかりなので、中原の脳裏にはフランス語が渦巻いているのだろう。
「中原は、心の中で旅をしているのか」
「そうかもしれないわ。あなたの顔を見て、旅人のイメージが湧いたのかもね」
中原は留吉の顔を見ようでもなく見ていた。
――もっと長く生きられたら、どれだけ素晴らしい詩を残せたか。
それを思うと、中原の無念が胸に迫ってくる。
「いや、これでいいんだ」
中原がそう言った気がした。
はっとして中原を見ると、瞳を半ば開けて、こちらを見ていた。その唇は何かを言おうと、かすかに動いているが、言葉にはならない。もしかすると留吉の隣に泰子が立っているので、罵詈雑言(ばりぞうごん)を並べているのかもしれない。
――それが中原中也だ。
死が近づいているからといって、中原は中原であり、聖人になどなれるわけがない。
――中原は、中原中也という人生を存分に生きた。何の悔いがあろうか。
泰子が小声で囁(ささや)く。
「もういいでしょう」
「ああ、失礼する」
別れの言葉を述べようかと思ったが、家族の前で死を前提とした言葉を述べるわけにはいかない。
留吉は大きく息を吸うと言った。
「中原さん、ありがとうございました。これでお暇申し上げます」
フクと孝子が戸惑(とまど)ったように会釈する。
病室を出ると、泰子が問うてきた。
「中原に何のお礼をしたの」
「ほかに言うべき言葉が見つからなかったんだ」
「そうなの」
泰子はそれ以上聞いてこなかった。
養生院の一階まで来ると、泰子が言った。
「通夜とお葬式の知らせは、どこにすればいい」
「俺は文士でも文壇関係者でもないから、やめておくよ」
「どうして。そうじゃない人も大勢来ると思うわ」
「いいんだ。これで別れた方が、中原と俺の関係には似つかわしい」
留吉は財布を取り出した。横浜の銀行で金を下ろしてきたので、随分と膨らんでいる。その札束の大半を摑むと、泰子の手に握らせた。
「香典代わりだ。これで少しでも立派な葬式を出してくれ」
香典は、通夜、葬儀、告別式といった一連の葬式で遺族が受け取る。そのため葬式は遺族の資金で賄わねばならない。しかし事前に渡しておけば、少しでも立派な葬式を出せると思ったのだ。
「こんなにいいの」
「ああ、いいさ。俺の名は出さないでくれ。君の名で渡すんだ」
「どうして」
「君は、そうしてやりたいだろう」
「すみません」
泰子が丁寧に頭を下げた。泰子は中原の家族に金銭的支援ができないことが、残念でならないに違いない。考えてみれば、泰子と中原の家族は奇妙な関係だ。本来なら泰子の来訪さえ断ることができるのに、母のフクも妻の孝子も、泰子を信頼しているように見える。
――そうか。中原は、女に世話を焼かせるために生まれてきたような男だからな。
それは女性だけにとどまらない。留吉も含め、誰もが中原を憎むと同時に愛していた。それが中原という詩人の不思議だった。
「そうだ。さっきの質問の答えを思い出した」
「何のこと」
「何であの時、中原に『ありがとうございました』と言ったかだ」
泰子が不思議そうな顔で留吉を見つめる。
「中原は、文学という俺の生きる世界とは全く異質の世界を見せてくれた。そのお礼を言いたかったんだ。それと――」
留吉は少し笑みを浮かべると言った。
「君と出会えたことにお礼したのさ」
泰子が少女のように頬を赤らめる。
「坂田さん――、あんた、いい男になったね」
「君もいい女になった」
留吉が差し出した手を泰子が握る。
「もうこれで会うこともないだろう」
「そうね。もう、あんたの家に転がり込んだりしないわ」
二人は笑い合うと、手を離した。
留吉は片手をあげて別れを告げ、二度と振り返らなかった。
この瞬間、留吉の若き日々は終わりを告げた。
留吉が一人、駅まで続く段葛を歩いていると、途次に石燈籠(いしどうろう)があった。行きは日が落ちていなかったので気づかなかったが、夜になって灯が入れられたので、気づいたのだろう。
一瞬、それが江ノ島の家にあった石燈籠かと思い、留吉はどきりとした。しかしその石燈籠は最近になって置かれたらしく、御影(みかげ)石らしき輝きをまだ保っていた。
――俺の大切な人たちは、みんな行っちまった。
留吉が心中で語り掛けると、かつての中原のように、石燈籠が横柄に答えた。
『それが人生というものだ』
『君に人生を説かれたくはない』
『では、勝手にしろ』
『済まなかった。俺はどうしたらいい』
しばし沈黙の後、石燈籠が答えた。
『やはり勝手に生きればよい』
『それしかないんだな』
『そうだ。運命に翻弄されるも、運命を自ら切り開くも、自分次第ということさ』
それで石燈籠は口を閉ざした。
――そうだな。俺はもう運命に流されない。自分で人生を切り開くんだ。
その時、口をついて言葉が出た。
ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
留吉は中原の『骨』を口ずさんでいた。なぜか『朝の歌』でも『汚れっちまつた悲しみに』でもなく、口から出てきたのは『骨』だった。そのとぼけた感じが、なぜか死を前にした中原には似つかわしい気がしたのだ。
この翌日の二十二日、中原は死を迎える。最終的には「結核性脳膜炎」と診断されたが、友人たちの証言から、随分前から脳に変調を来していたことが明らかなので、「脳腫瘍」が妥当と思われる。その夜、通夜が行われ、翌二十三日、葬儀が行われた。
そして二十四日、中原は荼毘に付され、告別式が行われた。その席で挨拶に立った葬儀委員長の小林秀雄は、「本日は、中原のためにおいでいただいて、たいへんありがとうございました」と言ったきり、感極まって言葉が続かなかったという。
小林だけでなく、参列者の誰にも万感迫る思いがあったのだろう。それだけ中原という男の存在は大きかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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