夢燈籠第41回

その後、中原は毎日のようにやってきて、留吉に詩や文学について語ってくれた。それは何かを教えるというより、自分の考えをまとめるために一方的に話している気がした。面白いのは、中原は留吉に関心を示さず、「これについて、どう思う」といった問い掛けが一切ないのだ。
 留吉としては、それでも構わないので、中原に付いて回った。
 七月、中原は豊多摩(とよたま)郡高井戸(たかいど)町中高井戸に引っ越していった。それを手伝ったのは留吉だったが、中原は礼の一つも言わず、当然のような顔をしていた。
というのもこの頃、中原は高田博厚(たかたひろあつ)という彫刻家と親しくなり、高田のアトリエの近くに引っ越したいと言い張り、高田が一軒家を探してくれたのだ。高田は中原の塑像(そぞう)まで作り、高田が教鞭(きょうべん)を執る中央大学に編入させてやった。
 実は高田のアトリエには、長谷川泰子が頻繁に顔を出しており、彼女に会いたいというのが中原の目的だった。だが中原は泰子の前に出ると、激しい口調で面罵するので、いつも言い争いになった。
 
 九月のある日、中原が塑像のモデルになっていると、泰子がやってきた。この時、留吉は初めて泰子を見たが、中原と小林が取り合いになるのもうなずけるほどの美人だった。
だが泰子は中原の顔を見ると、汚物でも見るように顔をしかめて出ていこうとした。
 中原は泰子を呼び止めた。
「どこに行く」
「私の勝手でしょ」
「それはそうだが、何も挨拶なしでここを去るとは、高田さんに失礼ではないか」
「高田さん、せっかく来たのですが失礼します」
 高田が口を挟む。
「まあ、二人とも喧嘩(けんか)はほどほどにしなさい。人というのは出会いと別れだ。それを承知で付き合ったのだから、別れた後も仲よくすべきだ」
 中原が謝る。
「その通りですね。申し訳ありません」
 だがその謝罪は、泰子に対して「ざまあみろ」という意図があったのは間違いなく、泰子は口惜しそうにしながら、「用事を思い出したので失礼します」と言って出ていった。
 その後ろ姿を茫然(ぼうぜん)と眺めていると、中原が言った。
「留吉、泰子の後を追いかけて真意を確かめてくれないか」
「えっ、真意って」
「俺とよりを戻す気があるかどうかだ」
 ――あの様子ではないでしょう。
 そう答えようとした留吉が口ごもる。
「こういう時に頼りになるのが、友というものではないか」
「分かりました。やってみます」
 そう言ってアトリエを後にすると、泰子の後ろ姿が目に入った。
「長谷川さん」と声をかけると、泰子が振り向いた。
「あら、中原にこき使われている方ね」
 ――まあ、どっちもどっちだ。
 その皮肉の利いた一言で、泰子が留吉によい印象を持っていないのが分かった。
「そうです。確かに振り回されています」
「やはりね。あいつといると、男も女も振り回されて最後は疲弊し、精神を病むのよ」
「えっ」
「だから、悪いことは言わない。すぐに距離を置きなさい」
「でも――」
「あいつの詩の魅力に取りつかれたのね」
 留吉がうなずく。
「仕方ないわね。そう言って何人もが中原に惹かれ、そして去っていったわ」
「でも、あの才能を何とか世に出してあげたいんです」
 泰子がため息をつく。
「仕方ないわね。ここで立ち話も何だから、高円寺の駅前のカフェーでも入りましょう」
 そう言うと、泰子はあてがあるのか、どんどん先に歩いていく。
 泰子が入ったのは「カフェーフクヤ」という喫茶店だった。
 泰子がアイスコーヒーを注文したので、留吉も同じものにした。
「中原というのは大きな子供なの。だから、まず相手を馬鹿にして自分が上位だと分からせる。それで支配者になったら、こき使う。いつも同じパターンだわ。でもね、中原は自分に自信がなく、臆病なことこの上ないの。彼の中でフィジック(肉体)と思想が一体化していないからそうなるのよ」
「フィジックと思想、ですか」
「そう。彼は無意識に思想を前面に押し出すわ。もしかすると、しっかり勉強していたら一流の思想家になっていたかもしれない。でも彼は詩人。おそらく日本で随一の象徴派詩人だわ」
「つまりボードレール、ヴェルレーヌ、ランボーに匹敵すると――」
「おそらくね。でも彼は強すぎる自我のおかげで、その才能を持て余している。ランボーも同じだった。だからランボーは詩を捨て、アフリカとの間で貿易を行う商人になった。でも中原にその度胸はないわ。あいつには詩を捨てたら何も残らないからね」
 泰子がうまそうにアイスコーヒーをすする。
「で、中原との生活に疲れた長谷川さんは、小林秀雄さんの元に逃れたのですね」
「そうね」と言って泰子が笑う。
「あれも理屈っぽくてつまらない男だわ」
「小林秀雄がつまらないと――」
 すでにこの頃、小林は一家を成すほどの評論家となっていた。
「あなたは知らないの。女にとって世間の名声なんてものは、何の価値もないのよ。私が何を思い、何を求めているかを知り、それを先回りして用意しておくのが男の価値よ」
「では、小林さんとは」
「とっくに別れたわ」
 小林と泰子の同棲は大正十四年(一九二五)十一月から昭和三年(一九二八)五月まで続いたが、最後は小林が堪(た)えられなくなり、泰子の前から姿を消したことで終わりを迎えた。これを聞いた中原は手を叩(たた)いて喜んだが、泰子が中原の元に戻ることはなかった。
「では、中原とよりを戻す気はないのですか」
 泰子が高らかに笑う。
「何を言ってるの。もう子供の面倒を見るのはうんざりよ」
「でも中原は、泰子さんのことを『ファム・ファタール』だと言っていましたが」
「私が、あの男の『ファム・ファタール』だって。いい加減にしてほしいわ。私は、ただのつまらない女よ。たまたま中原と縁があって男と女の関係になったけど、それだけのこと」
「つまり中原の元へ戻す気はないのですね」
「ないわ。金輪際(こんりんざい)ね」
 それは中原にとって死刑宣告に等しいものだった。
「分かりました。そう伝えます」
「あんたもさあ」
 泰子が艶(つや)っぽい声を出す。
「あの男に関わっていてはだめだよ」
「ありがとうございます。気をつけます」
「何を言っても聞きゃしないようね。みんなそう。それで最後に心身共に疲弊して中原と距離を取るの」
「つまり中原というのは、純粋な詩想と悪魔のような人間性が同居しているのですね」
「まあね。すぐに気がつくわ」
 ――もう分かっているんだがな。
 それでも留吉は中原と距離を置けないでいた。
 そこで泰子と別れ、高田のアトリエに戻ると、中原が「待っていた」とばかりに問うてきた。
「どうだった」
「全く戻る気はありませんね」
「そうか。だろうと思った」
 中原は落胆もせずに、高田と塑像について語り合っていた。
 それを見て留吉は、天才という代物の扱いにくさを感じた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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