夢燈籠 第26回


十五

 奉天から長春までは長い列車の旅になる。留吉は南満州鉄道の終着駅に向かうことに胸躍らせていたが、それもすぐに失望に変わった。列車から見える風景は一面の荒れ野か、わずかばかりの耕作地ばかりで、人の姿さえ見えるのはまれだった。
 ちなみに長春から先、すなわち北方のハルビン、チチハル、ハイラル、そしてソ連国境の満州里(まんしゅうり)に行くには、ソ連が経営する東清鉄道に乗り換えねばならず、さらに満州里でシベリア鉄道に乗り換えればモスクワに至る。
 また中国が経営する吉林までの支線的位置づけの吉長線も、長春から出ており、まさに長春は満州の交通の結節点だった。
鉄嶺(てつれい)、四平街(しへいがい)、公主嶺(こうしゅれい)といった主要な駅を経つつ、二日の車中泊の後、留吉たちはようやく長春に着いた。鉄嶺、四平街、公主嶺といった大きな町には、大連や奉天のように多くの人が行き来し、生活臭がしていた。だが満州人も、移住してきたであろう中国人も、なぜか薄汚い衣類をまとっている気がした。それは大連や奉天との経済格差にほかならなかった。
 急いで長春行き列車の切符を取ったので、寝台が取れず二等だった。若いので何とかなると思ったが、さすがに列車の中で二泊もすると、心身共に疲労する。
ようやく長春に着いた時は、これからの取材のことや兄を探すことなどどうでもよくなり、ただただホテルのベッドで眠りたかった。
 金にうるさい郭子明でさえ、「自分で払うので、帰りは寝台にして下さい」とまで言っていた。
 長い列車の旅から解放され、這いずるようにして列車を降りると、留吉は驚かされた。大連や奉天と違って、駅構内には人の姿がまばらで、大豆などの穀物の袋ばかりが積み上げられていた。
考えてみれば、長春は中国東北部の農産物集積地で、年間で大豆百万石(十八トン)、雑穀五十万石(九トン)、また木材や畜産品が長春を経由し、ソ連、中国各地、そして朝鮮半島へと運ばれていた。それゆえ長春駅は、旅客駅というよりも貨物駅だった。

 駅構内を抜けると、突然視界が開けた。青く澄んだ空の下、広い街路が延びている。
――ここが長春か。
 長春は、これまで見てきた大連や奉天と違っていた。ただただ広漠としており、町を歩いている人の数が少ない。しかも内陸部で風が強く、すでに寒気さえ感じる。
 ――こんなところに人は集まらない。
 だが満州庁は、ここ長春に満州の首都を築こうとしているらしい。
――大連や奉天に溢れるほどいた人々は、どこに行ったのだ。
だが考えてみれば、人が食べられる場所に集まるのは当然のことだった。ここ長春の開発は進んでおらず、人が集まってくるのはこれからなのだろう。
遠くを眺めると、大地は延々と続き、はるか遠くに見える山嶺は、幻のように霞んでいる。
 ――これが大陸か。
 留吉は、初めて大陸の広さを知った。だがその広漠さこそ、人を惹きつけてやまないものなのだろう。
 ――大陸浪人たちは、これだけ広い場所だからこそ、自分の居場所がある気がするのかもしれない。
 大陸浪人には、それを隠れ蓑にして政治活動をしている者もいるが、彼らの大半は放浪癖のある自由人で、単に自らの知らない地を歩き回りたいという思いから大陸に渡ってくるという。
 ――大陸浪人になるというのはどうだろう。
 この広い大地を舞台にして、縦横無尽に活躍してみたいという気持ちにもなったが、それではぬいの「一廉(ひとかど)の者になってほしい」という願いを裏切ることになる。
 ――自分の身の振り方は、兄さんを探し出してからだ。
 留吉は、この広い大地のどこかで、慶一が息をひそめていると確信した。
「子明、この地に人はいるのか」
「元々何もない場所で、人もいませんでした」
「こんなところに人が集まるのか」
 郭子明は笑って手を広げるだけだった。
 その昔、長春は蒙古族の放牧地にすぎなかった。だが次第に漢民族が入植し、開墾によって農地が増え、大豆の栽培によって多くの民を養えるようになった。
 流暢(りゅうちょう)な日本語で郭子明が語る。
「昔から満州の中心は奉天と決まっていました。奉天には清朝の太祖ヌルハチと太宗のホンタイジ親子の墓があります」
 太宗とは、太祖に準ずる皇帝の称号になる。
「どうやら日本は、満州に新たな国家を建国し、その中心をここに置くらしい」
 満州国の正式な建国は昭和七年(一九三二)三月一日だが、この頃から、建国の噂は広まっていた。それゆえ板垣征四郎高級参謀とその部下の石原莞爾作戦参謀が長春の視察に来ており、また阿片特売人の朱春山も新たな市場の拠点作りに来ているのだ。
 ――これからの世界は、ここを中心に回る。
 次第に、それは確信に近いものに変わっていった。
 郭子明が訳知り顔で言う。
「本来なら、奉天こそ満州の首都にふさわしいのですが、奉天には張作霖派の残党が多く残り、復仇心に燃えているので、全く新たな首都を築くには長春がよいと思います」
 すでに長春の人口は十万人を超え、新たなチャンスを求めて中国人、日本人、朝鮮人が押し寄せてきていた。それゆえそれぞれの町が形成され、日本人街には宿屋から日用品を扱う店まで軒を連ねていた。もちろん日本人の大半は軍人か満鉄関係者で、大商人や売春婦はまだ来ていないようだ。
「さて、どうしますか」
「まずは仕事だ」
 留吉は郭子明を伴い、板垣と石原がいるという長春ヤマトホテルに向かった。

 ヤマトホテルは満鉄が経営する高級ホテルチェーンで、旅順、大連、奉天、長春など十カ所以上の主要駅に設けられた。これには、満鉄を利用する西洋人旅客が快適に過ごせる高級ホテルを設けることで、沿線の経済活動を活発化させようという狙いがあった。
 留吉と郭子明はヤマトホテルのフロントで板垣と石原がチェックインしていることを確認すると、ロビーに陣取り、どちらかの姿が見えるのを待った。
 ホテル側は迷惑そうな顔をしていたが、満州日報には満鉄の資本も入っており、同じグループ会社なので、「出ていってくれ」とは言えないようだ。だが郭子明は明らかに満州人と分かるので、致し方なくホテルの外で待つよう命じた。郭子明も居心地が悪かったのか、喜んで外に出ていった。
 郭子明と雑談もできなくなったので、ロビーに置いてある日本国内の新聞に手を伸ばした。
 ――広陵(こうりょう)は負けたか。
 半年以上前の記事だが、春の選抜中学野球で、広陵中学が兵庫の第一神港商業に一対三で敗れたと書いてあった。今は野球にさほど興味のない留吉だが、慶一が甲子園大会のラジオ中継を聞いていたので、子供の頃は好きだった。
 ――懐かしいな。
 実家の居間にあるソファーに寝そべり、ラジオに聴き入るランニング姿の慶一の姿を、今でも思い出す。そのおかっぱ頭の前髪が汗で額に張り付いていたので、記憶に残るその姿は夏の甲子園大会のものだろう。ラジオを聴きながら、慶一は野球のルールを懸命に教えてくれた。その半分も理解できなかったが、それでも近くにいるだけで留吉は楽しかった。
 ――会いたいな。
 無性に慶一に会いたくなった。
 その時だった。回転ドアを押すように開けて郭子明が入ってきた。留吉と視線が合うと、郭子明はうなずいた。
 ――来たか。
 留吉は立ち上がると、入口付近まで歩き、出迎えようとした。近づいてきた郭子明が、耳元で「石原さんです」と呟いた。
 その男は颯爽(さっそう)と回転ドアから入ってきた。参謀付の武官らしき将校二人と下士官二人を従えている。
「失礼します。満州日報の坂田と申しますが――」
 早速、石原を遮るように武官が立ちはだかる。
「近づくな!」
 武官が留吉の胸を突く。どうやら石原は、張学良派か国民党軍の暗殺を警戒しているようだ。気づくと下士官二人は背後に回り、郭子明の腕を取っている。こうした際のフォーメーションができているとしか思えないほどの素早さだ。
「私は――」と再び名乗りながら名刺を差し出すと、武官が石原に取り次いでくれた。
「坂田留吉、満州日報の記者か。となると米野や臼五の部下になるのか」
「そうです。こちらに田中少佐の紹介状もあります」
 留吉は奉天を出る際に、田中隆吉に紹介状を書いてもらっていた。
 それを読んだ石原が問う。
「俺に何が聞きたい」
「まあ、いろいろと」
 留吉が笑みを浮かべたので、石原も緊張を解いたようだ。
「後ろの中国人は誰だ」
「通訳です」
「私に通訳は要らんだろう」
「はい。私が土地の言葉に不慣れなもので、連れてきているだけです」
「分かった。通訳は帰せ。一時間後に君一人で部屋に来い」
 最後に鋭い視線で周囲を見回すと、石原は四人の部下を引き連れ、階段を上っていった。
 その後ろ姿を見つめつつ、郭子明が言う。
「何をされるかと、ひやひやしましたよ」
「すまなかったな。よし、私が石原さんの談話を取っている間に、ガイドを捜しておいてくれるか」
「やってみます」
 そう言い残すと、郭子明はぶらりと外に出ていった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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