夢燈籠第17回


 昭和四年(一九二九)になり、留吉の身辺も慌ただしくなってきた。
 三月、卒業式が終わり、岩井壮司らと一杯飲んだ後、下宿に戻って荷物をまとめていると、突然の来訪者があった。
「よろしいですか」
「あっ、春子さん」
「お久しぶりです」
「うん。久しぶりだね。見ての通り、明日の朝、この下宿を後にすることになった」
 春子が、部屋に入りたがっているのは明らかだった。
「まあ、入れよ」
 立ち話も何なので留吉は春子を招き入れた。ただでさえ狭い部屋が荷物でさらに狭くなっている。それでもわずかな空間を見つけ、二人は対座した。距離が近づいたからか、春子が突然抱きついてきた。
「これでお別れなんですか」
「ああ、うん」
「そんな――」
 春子が嗚咽を漏らす。
「春ちゃんには、もっとふさわしい人が現れる。俺なんかつまらん男さ」
「私にとっては、かけがえのない方です」
「ありがとう。でも君はまだ女学生だ。満州に連れていくわけにはいかない」
 留吉とて春子のことは憎からず思っている。だが結婚するとなると、春子に対する責任が生じる。それで後ろ髪を引かれ、慶一の捜索に深く踏み込めないことがあってはならない。
「私は待っています」
「いつ帰国できるか分からない。そういう仕事なんだ」
「でも、私は待っていたいんです」
「ありがとう。気持ちだけで十分だ」
「やめて」と言うと、春子が唇を重ねてきた。留吉がそれに応える。
 ――駄目だ。
 このままでは、春子の気持ちを弄ぶことになる。だが抑え難い衝動が湧き上がってきた。
 ――いけない!
 理性と欲情の狭間(はざま)で留吉は逡巡(しゅんじゅん)していた。その時、春子は留吉の手を取り、自分の胸に当てた。
「いいのかい」
「いいんです」
 その後は一気呵成(いっきかせい)だった。

 事が終わり、二人は黙って雨音を聞いていた。 
春子は処女だった。
――なんてことをしてしまったんだ。
衝動を抑えられなかった自分を、留吉は恥じた。
「雨が降ってきたみたいです」
「ああ、いつも雨は降っている」
「それは、どういう意味ですか」
「意味なんてないさ。でも人生は雨ばかりじゃない」
「私たちの間のことを言っているのですか」
「いや」と答えて、留吉は春子の頬にキスした。
「人には出会いもあれば別れもある」
「私たちの関係がこれで終わりということですか」
 ――何と答えるべきか。
 期待を持たせるべきではないのは分かる。だが留吉にも離れ難い思いが芽生えていた。
「分からない」
「では聞き方を変えます。私に待っていてほしいですか」
 ここで「待っていてくれ」と言えば、大きな重荷を背負うことになる。
「いや、待たなくていい」
「何て冷たいの」
 留吉の胸で春子は泣いていた。
「俺は満州に行く。だから君の人生に責任を持てないんだ」
「どうして一緒に連れていってくれないの」
「そこには、深い事情があるんだ」
 春子に兄のことを語るわけにはいかない。
「どんな事情なんですか」
「聞かないでくれ」
「ひどい。ひどいわ」
「申し訳ない。今は黙って雨音を聞いていよう」
 しばらく泣いた後、春子が言った。
「これでさよならなんですね」
「そうだ。すまない」
「いいんです。一生の宝物になるような思い出ができました」
「そう言ってくれるか」
 図らずも留吉も声を詰まらせた。
「私のことを好いてくれていたんですね」
「もちろんだ。できることなら一緒になりたい。でもできないんだ」
「どうして、どうしてなの!」
 春子が留吉の胸を叩く。それに留吉は、どうしてよいか分からない。
「突然雨音が聞こえたら、遠い地で俺が君のことを思い出していると思ってくれ」
「雨音なんて聞きたくない!」
「お願いだ。俺を困らせないでくれ」
 留吉の胸で泣く春子を抱き締めながら、留吉にとっても、春子とのことが、掛け替えのない思い出になるという予感がしていた。
 ――それでも前に進まなければならない。
 雨音が激しくなる中、春子は突然立ち上がると身づくろいをした。
「ありがとうございました」
「春ちゃん、幸せになってくれ」
「留吉さんもね」
 軽く左手を挙げてわずかに笑みを浮かべると、春子は出ていった。それが春子の姿を見た最後となった。
 後年、同じ時期に同じ下宿にいた後輩とばったり出会った折、留吉が問わずとも、後輩は春子のその後を話してくれた。それによると、春子は女子英学塾を出た後、新潟の医者に嫁いだとのことだった。
 その時、留吉は手を伸ばせば触れられた女性が、大陸よりも遠いところに行ってしまったことを覚(さと)った。
 留吉の青春が瞬く間に過ぎ去っていった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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