夢燈籠第62回
十三
何ともやりきれない気持ちを抱いて帰郷した留吉は、横浜港に着くと、誰かから連絡が入っていないか確かめるために、又吉健吉に電話した。留守が多いので、下宿先に電話は引いていない。そのため伝言は健吉にするよう、友人や知己に頼んでいた。
健吉は留吉の声を聞いて安心したように喜ぶと、連絡メモらしきものを見ながら、次々と読み上げていった。
「次は――、ああ、女の人からだな」
「誰ですか」
「長谷川――、泰子と書いてある」
――いったい何の用だ。
泰子について悪い印象は持っていないが、留吉にとって、泰子はすでに過去の人だった。
「で、その長谷川さんの連絡先か何かはもらっていますか」
「ああ、もらっている。そうか、あの時の女だな!」
「そうです。しかし悪い人間ではありません」
「何を言っている。こんな女は切った方がよい。どうせ金の無心か何かだろう」
「そうかもしれませんが、ほかにも彼女に連なる人間関係があるんです」
「あのマントを羽織っていた小男か」
又吉は中原のことを言っているに違いない。
「はい、そうです」
「あれもやめた方がよい。わしは海軍時代に人相見の兵曹と知り合い、人相の見方を教わった。それで言うと――」
「すいません。電話代が――」
「ああ、そうか」
それでも又吉は、渋々ながら泰子の連絡先を教えてくれた。
その番号に電話すると、「はい、鎌倉養生院です」という女性の声が聞こえてきた。
――えっ、泰子は病院にいるのか。
それを問うまでもなく「長谷川泰子さんをお願いします」と言うと、すでに話が通っているのか、「お待ち下さい」と答えた女性は席を立ったようだ。
三分ほど待たされると、懐かしい声が聞こえてきた。
「坂田さんね」
「そうだ。久しぶり」
「ええ、久しぶりね。で、用件だけど、中原がたいへんなことになっているのよ」
「また暴れて、どこかに留置でもされているのか」
「いいえ」
泰子の口調はやけに深刻だった。
「どうした」
「実は死にそうなのよ」
「何だって」
予想もしなかった泰子の言葉に、留吉は慄然とした。
「詳しいことは会って話すわ」
「で、どこに行けばいい」
中原の家は市ヶ谷にあったが、最初に電話口に出た女性は、確か鎌倉と言っていた。
「中原は鎌倉に引っ越したの。だから鎌倉養生院に来て」
「どこにある」
「鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かって五分ほど歩くとあるわ。円タクに乗る必要もないわ」
「分かった。荷物を預けたらすぐ行く」
電話口の向こうで泰子が嗚咽を漏らす。
「あいつ、どうしてこんなことに」
「おい、どうした。中原はそんなに悪いのか」
「そうなのよ。ああ、中原が可哀想」
それで電話は切れた。おそらく投入した硬貨が尽きたのだろう。
留吉は横須賀線に乗ると鎌倉を目指した。
鎌倉養生院は鎌倉駅から徒歩で五分ほどだった。電信広告があったので、それをたどっていったので迷うことはなかった。
すでに日は暮れかかっており、段葛(だんかずら)には、橙(だいだい)色の夕日が差していた。
段葛を鶴岡八幡宮に向かって歩き、途中で右に曲がると養生院はすぐだった。
受付で中原の病室を聞くと、看護婦の一人が緊張の面持ちで三階の病室まで案内してくれた。
病室のドアは閉まっていたが、廊下には数人の男たちが行き来していた。和服姿の者は著名な文士かもしれない。背広姿の者は出版関係者だろう。しかし留吉は顔を知らないので、軽く頭を下げる程度のことしかできない。
しばらく待っていると、泰子が病室から出てきた。
「やす――、いや、長谷川さん」
「あっ、坂田さん、早かったわね」
「ああ、すっ飛んできた。中原はどうだい」
泰子が首を左右に振る。
「それは、どういう意味だ」
「いいから、こっちに来て」
三階のロビーらしき場所まで行くと、泰子が椅子に腰掛けるよう促した。留吉が座ると、泰子は近くの窓を少し開け、煙草を吸い始めた。灰皿が置いてあるので、ここは吸っていい場所なのだろう。
「いったい中原はどうしたんだ。まさか喧嘩でもして――」
「違うのよ。あれからいろいろあったのよ」
「あれからって」
「中原に最後に会ったのはいつ」
「確か、昭和十年の正月だ」
それから二年と十カ月近くが経(た)っている。
「じゃ、そこから話すわ」
泰子は煙を吐くと話し始めた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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