夢燈籠第10回
九
大正十三年(一九二四)年の夏、留吉は片道切符を握り締め、福岡県の筑豊(ちくほう)に向かった。
筑豊とは、かつての筑前(ちくぜん)国と豊前(ぶぜん)国の頭文字を取った通称で、当初は漠然と福岡県の中央部を指しており、炭鉱を中心産業とした一種の経済圏のことだった。いわば湘南が神奈川県南部の海岸のある地域全体の総称というのと同じだ。それでも昭和になってから、福岡県が飯塚(いいづか)市を中心としたいくつかの市町村を筑豊と定義したことで、筑豊と呼ばれる地域が明確になった。
東京でさえ親と一緒に数回しか行ったことのない留吉にとって、九州はあまりに遠かった。どれだけ汽車に乗っていれば着くのかと思うくらい長い道のりだった。京都、大阪、神戸辺りまでは、車窓から風景を見ていることもできたが、そこから先は同じような田園風景が続くだけなので飽きてしまった。できるだけ荷物を軽くしたかったので、本も持っていない。時折、話し掛けてくる人もいたが、留吉が不安と心細さから緊張しているためか、話が弾むことはなかった。それでも乗り合わせた人たちは皆親切で、切り干しの芋やら羊羹(ようかん)をもらうこともあった。
懐(ふところ)は暖かかったので、途中の駅でやってくる駅弁の立ち売りから弁当と茶を買い、腹が減ることはなかったが、用足しに行く時も席の確保を隣の人に依頼し、盗難に遭わないように荷物を背負っていかねばならず、それがめんどうだった。
機関車はもうもうと黒煙を上げながら、岡山、広島、山口と過ぎ、ようやく下関に達した。ここで下車し、船で対岸の門司(もじ)港に渡った留吉は、そこで鹿児島本線に乗り換えた。
だが、どこで降りればよいのかは分からない。車掌からもらった路線図には、添田(そえだ)線、勝田(かつた)線、上山田(かみやまだ)線といった石炭輸送に使われる分岐線も描かれていたので、そちらの終点を目指そうかとも思ったが、あてが外れてしまえば時間を浪費してしまう。それゆえ鹿児島本線と筑豊本線の乗換駅となる折尾(おりお)という駅で降りることにした。
汽車を降りると、自分の体におびただしい煤(すす)が付いていることに気づいた。その煤を手で払うと、瞬く間に手が真っ黒になった。蒸気機関車の場合、冬場は煤が入るので車窓を閉め切っているが、夏場は暑くて堪えられないので車窓を開けるのが普通で、そこから容赦なく黒煙と煤が入ってくる。しかも九州は関東とは比べものにならないくらい蒸し暑く、改札を出る頃には、額から垂れる汗が目に入り、シャツが背中に張り付いていた。
――なんて暑さだ。
手拭いで顔を拭きながら、校舎のような形をした駅舎を出ると、駅前広場に人が溢れていた。その大半は立派な体格の大人の男たちで、居並ぶ屋台を囲み、飲み食いしながら談笑している。考えてみたら今日は日曜日だった。一日三交代で昼夜分かたぬ労働環境の炭鉱でも、さすがに日曜は仕事が休みとなるのだろう。
大声で笑い合う男たちの間を縫うように歩き、駅前から少し遠ざかったところで、今後の方針を立てようと考えていると、駅前の電柱や商店の壁に、ところせましと「坑内作業員募集」と書かれたポスターが貼ってあるのに気づいた。それらのポスターの多くは、清潔そうな作業着を着てキャップランプ付きのヘルメットをかぶった青年が、白い歯を出して笑っているものだった。
その時、背後から肩を叩(たた)かれた。
「兄ちゃん、仕事を探しているのかい」
振り向くと小太りで背の低い男が微笑んでいた。黄色い歯をせり出すようにして笑っていた。彫りの深い顔は黒く焼け、無精髭(ぶしょうひげ)が顔中に広がっている。関東の飯場では見られない亜熱帯系の顔をした男だ。
「どうした兄ちゃん、日本語が分からんか」
「いや、分かります」
「ああ、よかった。最近は半島から出稼ぎでやってくる者もおるで、もしかするとそっちの手合いかと思った」
男は、「手合い」という外国人労働者を蔑視するような言葉を使った。
「いいえ、日本人ですから言葉は分かります」
「それなら話は早い。うちの山は労働条件が一番よいので有名だ。経験は不問で、道具も貸し出す。あそこに車を待たせてあるんで一緒に来なよ」
男は一方的にそう言うと、留吉の名前も聞かずに腕を取った。視線の先には、泥だらけの四トントラックが止めてある。そのまがまがしい姿を見ると、腰が引けた。
「待って下さい。違うんです」
「何だい。訳ありかい。ここではみんな訳ありさ。でも働けば、みんな仲間だ。前科もんだって差別はしない」
「いいえ、違うんです。僕は――」
留吉がやっと事情を話す。
「そいつはたいへんだな」
「心当たりはありませんか」
「さあ、知らないね。女はたくさんいるんでね」
「そ、そうなんですか」
母がここにたむろしているような男たちに抱かれているかと思うと、暗澹(あんたん)たる気持ちになる。
「わしはこちらに来て一年くらいなので、そのことはよく分からない。でもうちの親方なら、ここの暮らしは長いんで知っているかもな」
「では、親方に会わせて下さい」
「いいよ。これも乗り掛かった船だ。あのトラックに乗って待っていなよ」
結局、トラックの荷台に乗せられることには変わりはなかった。しかしこの地に何の伝手(つて)もない留吉は、藁(わら)にもすがるような思いで、石炭片が転がる荷台に座った。
そこにはすでに二人の男がいたが、留吉が挨拶しても会釈(えしゃく)を返すだけで、それぞれ別の方角を向いている。どちらの顔も憂鬱(ゆううつ)そうに見えるのは、これから就く仕事が過酷なものだと知っているからだろう。
しばらくすると、そのうちの一人が問うてきた。
「兄ちゃん、煙草(タバコ)を持っているかい」
「いいえ。吸わないので持っていません」
留吉が首を左右に振ると、男は関心をなくしたようにそっぽを向いた。
やがて追加で二名ほど乗せると、先ほどの小柄な男が運転席に座った。どうやら男は、関東の飯場にもいる手配師と呼ばれる仕事に従事しているらしい。
その場から逃げるように急発進したトラックが、ぬかるんだ凸凹道を走り始めた。あまりに乱暴な運転に気分が悪くなる。だがトラックは容赦なく、はるかかなたに見える三角形の山を目指した。どうやらそれが「ボタ山」と呼ばれる鉱山らしい。
やがて町並みがまばらになり、大きな川(遠賀[おんが]川)を渡ると、トラックは川の上流に向かって走り始めた。先ほどより道は平坦なので吐き気は収まってきたが、駅から離れることで不安になってきた。ほかの男たちは、あまりにうるさいエンジン音に会話する気も起こらないらしく、周囲の景色を見るともなくなく見ている。
――こんな山奥に母がいるはずがない。
だがトラックを止めてくれと言い出す勇気はない。
河原には、無限に続くかと思えるほど薄(すすき)が密生し、その穂が風に揺れている。よく見ると、その周囲に飛んでいるのはトンボのようだ。
――もうそんな季節か。停学期間を過ぎて学校に行かないと退学にされてしまう。
だが留吉には、開き直りにも似た気持ちも湧いてきていた。
――どうとでもなれだ。
それが成長だと知るのは、もっと後になってからだった。
小高い丘の上に出た時、小さな駅が見えた。そこの駅名板には、平仮名で「こたけ」と書かれていた。たとえ炭鉱鉄道の小さな駅でも、汽車が通っていると知り、少し安心した。
やがてトラックは「ボタ山」の麓に着き、いくつもの棟割(むねわり)長屋が立ち並ぶ一帯を通り抜けると、急に止まった。そこには、「明治赤池炭鉱鯰田一坑(めいじあかいけたんこうなまずたいちこう)」という看板が掛かっていた。門衛所のような小さなボックスもあり、当直らしき老人が、ぼんやりとこちらを見ている。
――とんだところに来てしまった。
トラックに乗って、かれこれ二時間ほどかかっているので、折尾駅に徒歩で戻るのは並大抵のことではない。
――鯰田というのは、どこなのだろう。
今の自分がどこにいるのかさえ分からない。
「おう、来たか!」
飯場らしきバラックの中から、親方と思(おぼ)しき人物が出てきた。
「はっ、五人連れてきました」
先ほどの小柄な男が親方に走り寄る。
「五人か。まあまあだな。後で経理から歩合をもらえ」
「へい」と答えると、男はトラックに乗り込もうとする。それを見た留吉は慌てた。
「待って下さい」
「何だよ」
「僕は、ここで働きたいわけじゃないんです」
「分かってるよ。だが俺は、次の汽車が着く前に駅に戻らねばならない。だから詳しいことはあの人に聞きな」
そう言うと小男はトラックに乗り込み、元来た道を引き返していった。
トラックが残していった土埃(つちぼこり)が晴れると、親方がおいでおいでをしている。すでに同乗者たちは、飯場の中に招き入れられたらしい。
それでもその場に立ちすくんでいると、親方の怒号が聞こえた。
「何をやっているんだ。早くこっちに来い!」
弾かれたように親方の許に走り寄ると、親方が優しげな顔で問うた。
「今日の夜から働くんだな」
「いいえ、違うんです。実は――」
留吉は必死に事情を説明した。
「なんだ、そういうことか」
「はい。何か知っていたら教えて下さい」
「関東から来た娼婦か――、心当たりはないな」
「どうか知り合いの方にも聞いて下さい」
「そうだな。母を訪ねて三千里か。今時泣かせるじゃないか。分かったよ」
「ありがとうございます」
留吉は何度も頭を下げた。
「だが、お前のために誰かに話を聞きに行くほど俺も暇じゃない。ここに来る親方衆や炭鉱のお偉いさんに尋ねてみるが、堂々と教えてくれるような話じゃない。分かるな」
「は、はい。それはもちろん――」
「だから、うまく話を運べたらということになる」
「それで結構です」
「そうかい。それなら待っていなよ」
「どこで待てばよろしいですか」
親方が乱杭歯をせり出すようにして笑う。
「ここに決まってるじゃないか。折尾の駅前の旅館にでも居て、知らせろっていうのかい」
「いや、そういう意味ではありませんが――」
「だったらここにいなよ。ちょうど人手不足なんだ」
「待って下さい。ここで皆さんと一緒に働くのですか」
「そうだよ。ただ飯は食わせられない」
親方の顔が次第に厳しくなる。
「それは分かりますが、僕には雑用の仕事くらいしかできません」
「だろうな。だが雑用や賄い方に空きはない」
「ということは――」
「炭鉱に入ってもらう」
「待って下さい。それは困ります」
「どうして困る!」
親方が凄んだので、留吉は数歩後ずさった。
「僕はここに働きに来たんじゃありません」
多額の金を持っていることがばれれば、身ぐるみ剝がされるだろう。つまり「滞在費を払います」とは、口が裂けても言えないのだ。
「分かったよ。どこへでも行っちまえ」
「でも、ここからどこに行けばよいのですか」
すでに日は陰ってきており、広場は慌ただしい雰囲気に包まれ始めている。
「俺の知ったことじゃない。お前は自主的にトラックに乗ってきたのだろう」
「は、はい」
言われてみればその通りなので、抗弁のしようもない。
「俺のいる会社は、明治赤池炭鉱という大きな会社の下請けだ。給金も出すし、三度の飯や寝る場所もある。怪我をしても治療してくれる。ここは、そんなに悪いところじゃねえ」
「しかし――」
「なあ」と言いながら、親方が留吉の側(そば)に来ると、肩に手を回した。
「さっきの運転手がどんどん人を連れてくる。それで人がいっぱいになれば、駅まで送り返してやる。それまでの辛抱だ」
「でも僕は、母を捜しに来たんです」
「そいつは分かっている。だから知り合いをあたってやると言っているだろう。それで行き先が分ったら、ここを出ていけばいいじゃないか」
一瞬、野宿しながら折尾駅まで戻ることも考えたが、道順さえ定かでないのに戻りようがない。
「分かりました。そうさせていただきます」
「よし、そうと決まれば話は早い。飯をたらふく食ったら山に入れ」
「えっ、山に入れって、もう夜じゃないですか」
「ここは三交代だ」
「僕は炭鉱の仕事の経験がありません」
「誰でも最初は経験がない。先輩たちに指導するよう伝えておくので心配するな」
もはや道は一つしかなかった。
「分かりました」
「よし、いい子だ」
結局、炭鉱夫として働くことになってしまったが、停学期間が終わってからすぐに登校しないと、自動的に退学にされてしまうので気が気でない。
――これが運命なのか。
それを心配する反面、留吉は運命に身を任せてもよいと思うようになっていた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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