夢燈籠 第33回

第三章 雷雲来たる

 歯車とはよくできたもので、何かの拍子(ひょうし)に一つの歯車が動き出すと、それにつられて多くの歯車が動き出す。やがてそれは巨大な力となっていく。
それは歴史も同じだ。何かの小さなきっかけによって流れができると、やがてそれは誰にも止められないほど大きな潮流となり、多くの人を巻き込んでいく。
 第一次世界大戦が始まったのも、サラエボでの一発の銃弾が原因だった。それによって両陣営併せて死者一千六百万人、戦傷者二千万人以上の大惨禍が巻き起こったのだ。
 サラエボ事件に匹敵するのが張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件だろう。この事件をきっかけとして、日本は抜き差しならない立場に追い込まれていく。むろんこの時の日本人には、その行き着く先がどこなのかは分かっていない。
 一人ひとりの人生も、何かをきっかけにして大きく動き出す。その歯車が動き出してしまえば、誰にも止めようがない。
 坂田留吉(さかたとめきち)の人生も同じだった。何かをきっかけとして小さな変化が起こり、その変化に促されるようにして、さらに大きな変化がやってきた。
 最初のきっかけは、自分の母が妾だったと知ったことだ。それは留吉に家族からの自立を促した。そして留吉は、母を捜す旅に出て大人の世界を垣間見ることになる。
その後、留吉は早稲田大学に入り、ひょんなことから反政府活動組織に近づき、政治の世界を知ることになる。
また恋もした。本来なら理想的な相手だったが、満州で失踪した長兄を捜しに行かねばならないため、悲しい別れを経験することになる。
そして満州に渡った留吉は、得難い経験をすることになる。
 昭和六年(一九三一)十二月、留吉は横浜港に着いた。誰の出迎えもなかったが、帰国を伝えていなかったので当然だった。
 大きな荷物を江ノ島の実家に送るよう手配した留吉は、横浜で一泊した後、船旅の疲れをものともせず、電車とバスを乗り継ぎ、兄のいるサナトリウムを目指した。

 信州諏訪(すわ)にある富士見高原療養所は、以前に行った時と同じように、山々を背景にして静かな佇(たたず)まいを見せていた。
受付で名乗ると、看護婦さんが正治(まさはる)の病室に案内してくれた。看護婦さんの話では、母と姉はいったん江ノ島に戻ったので、入れ違いになったとのことだった。
 クレゾール臭い病室に入ると、正治が横たわっていた。元々色白で優男(やさおとこ)の正治だが、そこに横たわる正治は蠟(ろう)のように白い顔をし、別人のように瘦せ衰えていた。
「兄さん」と声を掛けると、正治が目を開けた。
「まさか留吉か」
 その白い首を曲げ、正治が老人のように疲れ果てた顔を向ける。
「昨日、横浜港に着きました」
「よく帰ってきたな」
 正治が涙ぐむ。これまでにないことだった。
 ――それだけ弱っているのだ。
 常に思慮深く、感情をあらわにすることがなかった正治だが、長い闘病生活が心に変化をもたらしたのだ。
「いろいろありましたが、無事日本に帰り着くことができました」
「慶一(けいいち)兄さんはどうした」
 留吉が経緯を手短に説明する。
「そうか。あちらで元気にしているのだな」
「はい。意気軒昂(いきけんこう)でした。しかし――」
「分かっている。軍部ににらまれているので、簡単には内地に帰ってこられないのだろう」
「そうなのです。でも元気なことが分かってよかったです。状況が変われば帰国もできます」
「状況が変わればな」
 それが望み薄なのは、正治にも分かるのだろう。しかも自由奔放な慶一にとって、満州は日本よりはるかに住みやすい地という気がする。帰国できる条件が整っても、自らの意思で帰国しないことも十分に考えられる。
「慶一兄さんは帰ってこないかもしれないな」
 正治は留吉と同じことを考えていた。
「私には分かりません。ただ手紙さえ出せない状況なので、無事を祈るしかありません」
「慶一兄さんのことだ。白い画布のように何も描かれていない大地の方が、性に合っているだろう」
「私もそう思います。しかしあちらに根を下ろすも帰国するも、慶一兄さん次第です」
「そうだな。慶一兄さんなら、どんな場所でも生きていける」
 太陽と月のように対照的だった慶一と正治だが、そこは兄弟なのだ。その思いを理解できるのだろう。
「正治兄さん、元気になって下さい。そして皆で一緒に慶一兄さんを迎えましょう」
「ああ、それができたらどんなによいか」
「そんな弱気になっては駄目です。正治兄さんには、まだまだやることがあるはずです」
「うむ。やりたいことは山ほどある」
 正治が寂しそうな顔で言う。
「例えば、どんなことですか」
「分からん。ただ漠然と、もっと人生の深淵をのぞいてみたいのだ」
「人生の深淵、ですか」
 留吉にとっては何のことだか分からない。
「そうだ。言葉ではうまく言い表せないが、人は何のために生きるのかとか、幸福とは何かとか、孤独とは何かとかだ」
「哲学ですね」
 正治が笑みを浮かべる。
「そうだ。例えばショーペンハウアーのように、思索を蜘蛛(くも)の糸のように張りめぐらせたい。彼は長命を得たこともあり、思索を巨大な建築物のように築き上げ、偉大な業績を残せた。一方の俺には、本文を書き終わる時間もない」
 ショーペンハウアーは七十二歳で逝去した。その最後に到達した言葉の一つに、「人は、その生涯の最初の四十年間において本文を著述し、続く三十年間において、これに対する注釈を加えていく」がある。つまり最初の四十年で確立した思索を、残る三十年で検証していくのが、人のなすべきことだというのだ。
「そんな弱気なことを言わないで下さい。今の苦境を乗り越えれば、本文どころか注釈まで書けますよ」
「だといいんだがな」
 留吉が話題を変える。
「肺の摘出手術を受けたのですね」
「ああ、受けた。生き延びるためには、それしか方法はなかったからだ」
「父さんや母さんは知っていたのですか」
「薄々な。もちろん医師は両親にも了解を取った。尤(もっと)も父さんは関心もなかったようだが」
「だったら、快方に向かうだけではないですか」
 留吉は何とか正治を元気づけようとした。
「もしも生きながらえても、もう歩くことはできないかもしれない」
「何を言うんですか。正治兄さんには足が二本あります。それで歩けないわけがありません」
「お前はそう言うが、俺はこのサナトリウムで、肺摘手術を受けた人たちを見てきた。みんな痩せさらばえ、人とは思えないような姿になっている」
「そうでしたか。そんなことも知らずにすいませんでした」
 正治は自分の将来に絶望していた。
「そのことはもうよい。それより、これから父さんと母さんを頼む」
「私は三男です、しかも妾の子で――」
「馬鹿野郎。そんなこと言うな。兄弟は兄弟だ」
「ありがとうございます」
 祖父によって幼少時に離れに住まわされたとはいえ、これまで祖父と父を除く家族は、留吉を家族の一員として扱ってくれた。そのことを思い出し、目頭が熱くなった。
「これからは、お前に負担をかけることになるが、しっかり頼むぞ」
「もちろんです。しかし妓楼(ぎろう)は――」
「妓楼は手仕舞いにするんじゃなかったのか」
「しかし父さんは元気です。手持ち無沙汰になってしまうんじゃないでしょうか」
「老後を過ごすだけの金銭的余力はある。しかも妓楼を売った金ができれば、母さんともども生活は安泰だ。帳簿は父さんの部屋の金庫に入れてあるから、これからは、お前が管理しろ」
 正治は坂田家の経理を把握していたので、自信を持ってそう言えるのだろう。
「分かりました。父さんと母さんに不自由はさせません」
「登紀子(ときこ)にも縁談が舞い込んできたので、これで後顧(こうこ)の憂(うれ)いはない」
「えっ、それは初耳です」
「そうか。手紙で知らされなかったのか」
「はい。手紙を読む暇もなかったので、封も切らずにこちらに持ち帰りました」
 帰国が決まってから送られてきた手紙の数々を、留吉は読んでいなかった。
「相手は父さんの知り合いの息子さんだ。前妻と離婚して独り身らしい。登紀子は年も年だし、器量も十人並みだ。それでも相手さんは一度会っただけで気に入ってくれて、とんとん拍子に話が進んだらしい。昔だったら父さんが難癖をつけたかもしれないが、もう関心もないようで、全く障害にはならなかった」
「そうでしたか。それはよかった」
 登紀子は留吉よりも十歳年上なので三十三歳になる。おそらく夫となる人は、少し年上なのだろう。
「これで家は両親とお前だけになる」
「何を仰せですか。正治兄さんはもとより、慶一兄さんだって、そのうち戻ってきます」
「そう思いたいのは分かる。だが慶一兄さんが戻ってこない前提で、すべてを考えるんだ」
 それは尤もなことだった。慶一の意向を慮(おもんぱか)れば、何一つ決断できないからだ。
「その通りですね。慶一兄さんも、きっと向こうで所帯を持つことでしょう。だから正治兄さんだけでも、どうか戻ってきて下さい」
「留吉、俺だって生きたいさ。だけどな、自分の体は自分が一番よく分かっている。万が一――」
 正治が目に涙を浮かべて言う。
「生きながらえることができたら、俺だってうれしい。だが元のように暮らすのは難しい。だから惣領はお前だ。父さんがここに来た時、それを約束させた」
 父もサナトリウムに来たことを、この時、留吉は初めて知った。
「当面、私が坂田家を継ぎますが、兄さんたちが戻れば、話は違います」
「とにかくお前に様々な判断を委ねねばならない。父さんには、もう無理だからだ」
「年老いたとはいえ、父さんは元気です。まだまだ家父長として頑張っていただかないと――」
「そうか。何も知らないのだな」
「知らないって、何をですか」
 正治が眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せる。
「実はな、父さんは少しおかしいんだ」
「おかしいって、何がですか」
「物忘れがひどくなり、怒りっぽくなってきた」
 留吉は父の善四郎(ぜんしろう)が四十二歳の時にできた子だった。つまり善四郎は今年六十五歳になる。まだまだ老け込む年でもないが、様々な面での衰えが隠せなくなってきたのだろう。
「まさか――、ぼけてきたのですか」
「そこまでは分からんが、母さんも苦労しているらしい」
「病院には行ったのですか」
「本人が頑(かたく)なに拒否しているらしい。施設に入れられると思い込んでいるのだろう」
「分かりました。父さんのことは江ノ島に帰ってから考えます」
「江ノ島か。懐かしいな」
「体調がよくなれば戻れますよ」
 しかし正治は、別のことを考えているようだ。
「俺にとってもお前にとっても、あの狭い世界がすべてだったな」
「今思えば狭い世界ですが、子供の頃は広く感じました」
 人の感覚は成長に従って変わっていく。
「覚えているか。慶一兄さんと三人で、幾度となく浜で魚介類を焼いたな」
「はい。焚火(たきび)でサザエや蛸(たこ)を焼いて食べましたね」
「あの頃は、命の大切さなんて意識したことはなかった。命なんてあって当たり前のものだったし、人生なんていつまでも続くものだと思っていた。だがな、健康を失って初めて分かった」
 正治は一息つくと、涙声で言った。
「天から授かった時間には限りがある。留吉、それを忘れるな」
「はっ、はい」
「俺が言いたいのは、それだけだ。いつまでも元気でな」
 そこまで話すと、正治は体の力が抜けたようにベッドに体を沈ませ、瞑目(めいもく)した。
 その姿から、正治が疲労してきていると感じた留吉は、今日はいったん引き揚げるが、江ノ島に戻って母と姉を連れて戻ると告げた。だが正治は、ただうなずくだけで目を開けることはなかった。
 病室を出た留吉が、担当医に病状を聞くと、もう一ヶ月も持たないという。
 翌日、江ノ島に戻った留吉は、母と姉にそのことを話し、父を交えた四人で、数日後に諏訪に向かうことになった。
 だが正治の訃報は、留吉たちが江ノ島を出発する前に届いた。
 坂田正治、享年二十六――。
 遺骸を引き取り、留吉が中心となって葬儀を執り行った。父は、ただ茫然と棺(ひつぎ)の中の正治を見つめているだけだった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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