夢燈籠第48回

十三

 新京ヤマトホテルに引き揚げてきた留吉がフロントから鍵を受け取ろうとすると、メモを渡された。
 ――「玉齢さんとバーにいる。小林」だと、こっちは飯も食べていないんだぞ。
 小林の調子のよさに呆れながらバーに入ると、二人が笑顔で迎えてくれた。
いつの間にか、玉齢は欧米人が着るようなハイウエストなベルトに大きめの襟のドレスに着替え、優美な白い指でマティーニのグラスを持っている。慎ましさの中にもビジネスウーマンらしさが漂っていた。
「仲がよさそうで結構なことですな」
「なんだ、妬いているのか」
「そんなことはありません」
 玉齢が首をかしげる。
「妬いてるって、どういう意味ですか」
 小林が丁寧に教えてやると、玉齢は「また一つ、日本語覚えました」と言って喜んでいる。
 留吉がウオッカの水割りを注文すると、ロシア人の女給が不愛想にうなずいて去っていった。
 小林がにやりとしながら問う。
「それで石原さんは何だって」
 小林は留吉が石原に呼び出されたことを知らないはずだが、おそらく玉齢から聞いたのだろう。
「いや、別に話すほどのことでもありませんよ」
「何か密命を託されたな」
「えっ、どうして分かるんですか」
「あの人が君だけを呼び出したんだ。何かを託されたんだろう」
「小林さんは何でもお見通しだな。これはオフレコですよ」
「分かった。天地神明に誓って誰にも言わない」
 ――あてにならないな。
 そうは思いつつも、石原から口止めされたわけでもないので、留吉は顛末(てんまつ)を語った。
「そうか。君は、石原中佐からそれほど信頼されているんだな」
「誰もやり手がいないんからですよ」
「しかし資源ビジネスというのは、大もうけできる上に面白いぞ」
「石油を発見できたらでしょう」
「それはそうさ。だがしがない新聞記者をやっていても、嫁さんの一人も食わせられない。僕が若かったら、その話に乗るけどな」
 小林が、いかにも羨ましそうに言う。
 ――確かにその通りだ。
 いくつかの運命の変転によって、留吉は新聞記者になったが、元からやりたかった仕事ではない。では何をやりたかったのかと言うと、とくに何を仕事にしようと思ったことはない。
「いいかい、よく聞けよ」
 小林がスコッチウイスキーを片手に語る。
「人生は一度きりだ。こんなことを言っても、たいていの人は、『そうですね』と答えて、右の耳から左の耳だ。だが人生には、そこら中にチャンスが転がっているわけではない。若いと、チャンスを逃しても、また別のチャンスがすぐにやってくると思う。だがチャンスなんてものは、なかなかやってこない。そうこうしているうちに年を取ってしまい、チャンスがめぐってきても、それを摑むことができなくなる。分かるかい玉齢」
 玉齢が大きく目を見開いてうなずく。
「つまりチャンスは空中ブランコと同じなんだ。タイミングよく摑まなければ二度とチャンスは来ない。摑み損ねてしまえば奈落の底に落下するのさ」
 小林が身振り手振りを交えて語るので、玉齢にも分かるようだ。
「若いと、いつまでも同じ状態が続くと思うだろう。だが人は年を取る。家庭を持って子供でもいたら、チャンスと思っても飛びつけない」
 ようやく留吉のウオッカが来たが、注文と違ってダブルのストレートだ。しかし文句を言っても始まらないので、それを喉に流し込むと、一瞬にして気分がよくなった。
「つまり小林さんは、この話に乗れと仰せなのですね」
「まあ、そこまでは言わんさ。君の人生は君が決めろ。ただし僕だったら、これほどのチャンスは逃さないけどな」
 確かに飛ぶ鳥を落とすほどの勢いの関東軍の石原参謀が、人も金も出してくれる巨大プロジェクトだ。成功すれば利権の一部ぐらいは手にできるだろう。
 ――やってみるか。
 肚(はら)は固まりつつあった。だが帝都日日新聞をやめる手続きやら、又吉(またよし)家を引き払はねばならないので、どのみち一度は帰国はせねばならない。
「小林さん、ありがとうございます」
「いいってことよ。若いっていいな」
 スコッチ片手に小林が中空を見ている。自分の若い頃に思いを馳せているのだろう。
「そろそろ私は部屋に戻ります」
 会話が途切れたので、そう玉齢が言うと、小林が追随する。
「そうだな。そろそろお開きとしよう」
「そうしましょう。でも私は夕食を食べていないので――」
 玉齢が如才なく言う。
「お弁当を部屋に届けさせます」
「ああ、そうしてくれるか。ありがとう」
 玉齢は美しいだけでなく気が利く女性だということも分かってきた。
 小林が得意げに言う。
「さて、ここのお代は私が持つよ」
「いいんですか」
「ああ、予算はもらっている」
 伝票を手にすると、小林が席を立った。

 部屋に戻って窓から新京の夜景を眺めていると、ノックの音が聞こえた。
 ボーイが弁当を届けにきてくれたと思い込んだ留吉が、「はい」と言いつつドアを開けると、弁当を手にして立っていたのは玉齢だった。
「あ、ありがとう」
 弁当を受け取ろうとすると、玉齢はそれを手渡さず部屋の中に入ってきた。
「お茶を淹(い)れます」
「すまないね」
 弁当を食べ終わったが、玉齢は隣に座ったまま自分の部屋に戻ろうとしない。
「どうしたんだい」
 そう問うても玉齢は俯(うつむ)いたまま何も答えない。
 ――あっ、そういうことか
 玉齢は、郭子明から何かを命じられているに違いない。
「子明から何か言われてきたのかい」
 玉齢は何も答えなかったが、それが答えだった。
「そうか。あいつは変な気の利かせ方をする男だからな」
 その言葉に玉齢は少し笑ったが、その瞳は濡(ぬ)れていた。
「そんな辛いことはしなくていいんだ。自分の部屋に戻りなさい」
「えっ、よろしいんですか」
「ああ、君が泣くほど辛いことを、どうして僕ができる」
「私がきれいじゃないからですか」
「それは違う。君は美しい。でも僕は――」
 玉齢の涙を見ていると、万感の思いが込み上げてきた。
「見ず知らの他人であっても、意にそぐわない辛い思いをさせることが嫌なんだ。実は僕の母は――」
 留吉が実母の話をすると、玉齢が驚いた顔をして問うてきた。
「坂田さんは、よい家の出だと思っていました」
「そんなことはない。確かに実家は裕福だったが、母は――」
 そこまで言うと、胸に迫るような思いが込み上げてきた。
「坂田さんのお母さんは立派です。だから泣かないで」
 いつの間にか立場が逆転していた。
 玉齢が悲しげな顔で言う。
「私は貧しい農家の出でした。十二で大連の貿易商人に売られ、そこで日本語も学ばせてもらいました。でも、そこのご主人の妾にされました」
「もういいんだ。話さなくてよい」
「いいえ、聞いて下さい。そんな私を見た子明さんが可哀想に思い、私を買ってくれました。でも子明さんは私に手を出さず、仕事を教えてくれました」
 ――奴はそんな男だ。
 子明は「彼女は別にいます」と言っていたので、手をだすことなどできないのだろう。
「でも今回の旅に、子明さんは一緒に行けないので、私を通訳として付けました。その時、坂田さんの接待を命じられました」
 ――それも子明らしいな。
 中国人は仁義に厚い。かつて行を共にした留吉に報いられるのは、それしかないと思ったに違いない。
 ――馬鹿な奴だ。
 だが実母の境遇が違ったものだったら、留吉は玉齢を抱いたかもしれない。
 ――男とはそういうものだ。
 かつて留吉は八重樫春子と長谷川泰子を抱いた。だがその時とは状況が違う。春子も泰子も積極的だったからだ。
「坂田さん」と玉齢が思いつめたように言う。
「私を抱いて下さい」
「よせよ」
「私、今までは嫌でした。でも坂田さんの話を聞いて、抱かれたいと思いました」
 一瞬、「本当かい」と言おうと思ったが、自制心がそれを押しとどめた。
「今夜はやめておこう。いつか――」
「いつか――」
「そんな日が来るかもしれない」
「ということは、やはり石原中佐の話を受けるのですね」
「ああ、そのつもりだ」
 玉齢が立ち上がると、留吉の前にひざまずいた。
「その時は私を通訳で雇って下さい」
「分かったよ。約束する」
「よかった」
 玉齢の頬を涙が伝った。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー