夢燈籠第61回
十二
子明は少しやつれているような感じがした。それを不思議に思いつつ、留吉は「元気そうだな」と言って肩を叩いたが、子明の顔に笑みはなく、苦い顔で「カフェーに行きましょう」と言って先に歩き出した。
港の朝は早い。魚介類や野菜を積んだ荷車や、どこに向かうのか、膨大な数の自転車が走り回り、それらが鳴らす警音器の音が耳を圧するほどだ。
路上には露店や新聞売りが店を出し始めていた。そんな中、二人は「氷室(ピンサッ)」と書かれたカフェーに入った。「氷室」とは軽食も取れる喫茶店のことで、「茶食(チャシ)」と呼ばれる朝食がある。
留吉は、小豆(あずき)ミルクとねぎの卵とじにトーストが付いたものを注文したが、子明は何も注文せずに言った。
「実は、辛(つら)い話をせねばなりません」
「辛い話――」
嫌な予感が体中を駆けめぐる。
「はい。とても辛い話――」
そう言うと、子明は俯(うつむ)いた。
「どうした子明、構わないから言ってくれ」
「はい」と答えて顔を上げた子明が、生唾をのみ込むと言った。
「玉齢が亡くなりました」
「えっ」
あまりの衝撃に、言葉が出てこない。
「可哀想に――」と言って子明が嗚咽(おえつ)を漏らし始めたので、料理を運んできた女給が何事かと驚いている。
「いったい――、いったい玉齢の身に何が起こったんだ」
この時は、玉齢が何らかの事故に巻き込まれたと思っていたが、子明の答えは予想もしないものだった。
「襲われたのです」
「誰に――」
「日本人を嫌っている人たちです」
「ということは、反日主義者たちか」
子明がうなずく。
「ま、まさか、俺が原因か」
子明は何も言わない。だが、それが答えなのは明らかだった。
――なんてことだ。
体に震えが走る。絶望が胸底から込み上げてくる。
――玉齢は俺のせいで殺されたのか。
それが実感として迫ってきた時、喩(たと)えようもない悲しみが襲ってきた。
留吉はかろうじて問うた。
「つまり、俺と付き合っていたことに不満を持った輩(やから)に襲われたのか」
ようやく子明が声を絞り出した。
「はい。突然家に押し入られ、どこかに連れていかれ――」
「強姦されたのか」
「そうです。強姦された上、首を絞められ、墓場に捨てられていました」
「犯人は捕まったのか」
子明が首を左右に振る。中国人女性一人が殺されたくらいで、大連の警察が本気で動くはずがない。
「何ということだ」
あまりのことに、運ばれてきた小豆ミルクも茶食にも手が伸びない。
「田舎の両親にも手紙を書き、遺骸を骨にして引き取ってもらいました」
日本語を自在に操る子明も、さすがに「荼毘(だび)に付す」という言葉までは知らないようだ。
「では、墓は大連にないのか」
「墓は遠いところにあります」
せめて墓参りし、花だけでも手向けようと思ったが、それもできないと知り、留吉は胸が張り裂けそうだった。
――俺と出会い、男女の仲になったことが殺された理由か。
確かに玉齢は、留吉の滞在するホテルに警戒心を抱かずに出入りしていた。それを苦々しく思っていたボーイや外で客を待つ車引きの中に、反日勢力につながる者がいたに違いない。
――辛かったろうな。
墓で強姦されながら、玉齢は懸命に抵抗し、留吉に助けを求めたに違いない。それを思うと、罪の意識に苛(さいな)まれる。
「私がいけなかったんです」
子明が悄然(しょうぜん)として言う。
「そんなことはない。彼女を抱いたのは俺だ。すべては俺の責任だ」
留吉の寂しさを紛らわせるために、子明が日本語を話せる玉齢を連れてきたのは事実だ。しかし玉齢と男女の関係を持ったのは留吉の選択なのだ。
「中国人たちの反日感情は激しいものとなっています」
戦火が激しくなるに従い、中国人たちが愛国心を抱くのは当然のことだった。だがそうした中には、まともでない者もいる。その歪(ゆが)んだ感情が玉齢に向けられたのだ。
――もう玉齢とは会えないんだ。
寂しさが波濤(はとう)のように押し寄せてくる。大連に来る楽しみの一つが玉齢との逢瀬だった。もはやそれがないとなると、活気に溢(あふ)れる大連でさえ色あせて見える。
「俺にしてやれるのは、これくらいだ」
財布を取り出した留吉は、最低限の金を残すと、その大半を子明に渡した。
「こんなにいいんですか」
それは中国人の一年間の稼ぎに等しい額だった。
「ああ、銀行には多少の貯えはある。だからご両親に渡してくれ」
「分かりました」
「子明――」
留吉が子明の肩に手を置く。
「君に責任はない。すべて俺が悪いんだ」
「玉齢を守ってやれなくてすいません」
「俺以外の誰も悪くはない。まさか玉齢が襲われるなど想像もつかなかった」
「留吉さんも気をつけて下さい」
「うむ。分かっている」
だが大連や満鉄沿線で、中国人が日本人を殺せば、厳しい捜査が行われる。そのため日本人に手を出すことはないだろう。
――そうか。俺を襲えない腹いせに玉齢を襲ったのか。
反日主義者たちの卑劣さに、留吉は激しい怒りを覚えた。
「留吉さん、玉齢を殺した犯人捜しは、私に任せて下さい。留吉さんは、すべてを忘れて仕事をして下さい」
「ありがとう」
だが子明が警察に何度も訴えたところで、警察はさほどの力を割かないだろう。
その時、汽笛が鳴った。留吉が乗る日本行きの便船の出航が迫っている。
――この船で日本に連れていってやりたかった。
留吉は立ち上がると子明と握手し、船着場に向かった。足元がふらついたが、留吉は自らを叱咤(しった)し、タラップを上った。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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