夢燈籠第7回


 大地震の後処理も一段落した大正十三年(一九二四)一月、皇太子の裕仁(ひろひと)親王が久邇宮良子(くにのみやながこ)女王と結婚し、日本全国が前年とは一転した明るい雰囲気に包まれていた。
 留吉たちも寄宿舎を改造した仮校舎に通い始め、徐々に日常を取り戻しつつあった。
 六月、仮校舎が完成し、生徒たちは新たな気持ちで学業に励み始めていた。
 そんなある日のことだった。
 いつものように学校の授業が終わり、帰途に就くと、通学路に顔見知りの生徒たち数人がたむろしていた。その中には、皆から嫌われている井口昇平(いぐちしょうへい)もいる。
「おい、坂田、聞いたぞ」
 無視して通り過ぎようとすると、昇平が唐突に声を掛けてきた。何のことか分からないのでやり過ごそうとしたが、昇平が「お前の噂を聞いたぞ」と繰り返したので、立ち止まって問い返した。
「何の噂だ」
「お前の出生の秘密さ」
「えっ」
 突然、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
「横浜にいる親戚の叔父さんが事情通でね。いろいろ情報が入ってくるらしい。それで先日、酔っぱらった時、『お前の学校に坂田っていうのがいるだろう』って言うんだ。それで『います』と答えたところ、お前の出生の秘密を話してくれたのさ」
「何のことだか分からないが、単なる噂話だ。取るに足らん」
「そうかい。それなら学校中に広めてもいいんだな」
「何だと」
「やっぱりそうか」
「何だか分からんが、知っていることがあったら言ってみろ」
「いいのかい。ここにいる連中には、まだ話していないんだぜ」
 ――しまった。
 意表を突かれたせいで、留吉は手も足も出なくなっていた。
「坂田から許可が下りた。皆聞いてくれ。実はな――」
「待て」
「ほう、待ってほしいということは、やはり出生の秘密は真実なんだな」
「いや、そんなものはない」
「では、いいだろう。実はな――」
 留吉は衝動的に昇平の胸ぐらを掴んだ。
「何だよ」
「二人で話さないか」
「嫌なこった。こいつは犬の子も同然だ。噛みつかれるかもしれんからな」
 昇平が勝ち誇ったように笑うと、留吉の手を振り払った。
 ――犬の子だと。
 後頭部を殴られたような衝撃の後に、沸々と怒りが湧き上がってきた。
「この野郎!」
 つい手が出てしまった。
「うわっ」と言いつつ、昇平が大げさに転がる。
「みんな、今坂田が殴ったのを見ただろう」
 起き上がりつつ、昇平が唇の端に付いた血を拭う。
「はっきり見たぞ」
「暴力はご法度(はっと)だ」
「これで退校だな」
 取り巻きが囃(はや)し立てる。
 留吉は、その場に茫然と立ち尽くすしかなかった。
「この話を広めるのをやめてやろうと思ったが、殴られたんだから堪忍(かんにん)ならない。実はな、こいつの母親は妾どころか商売女なんだ」
 取り巻きが驚かないところを見ると、すでに昇平は告げていたようだ。
「そ、そんなことはない」
 慌てて否定したが、説得力がないのは歴然だった。
「いや、真実だ。こいつの親父が自分の店の商売女に手を付けて産ませたのが、坂田留吉君というわけさ」
 口惜しくて涙が止め処なく流れてきた。
 ――母だって好きで商売女をやっていたわけではない。
 だが、それを言ってはおしまいだ。
 そこに教師の一人が駆けつけてきた。知らぬ間に取り巻きの一人が呼びに行ったらしい。
「何をやっている」
 昇平が泣きそうな声で言う。
「先生、坂田君に殴られました」
「何だと。坂田、それは本当か!」
「は、はい」
「暴力を振るえば退校だぞ」
 成績優秀で品行方正な部類に入る留吉だ。その留吉が暴力を振るったなど、教師も信じられないのだろう。
「知っています」
「どうして殴ったんだ」
 留吉が口ごもっていると、昇平が言った。
「僕のことを『態度がでかい。生意気だ』と言って、坂田君は殴りました。なあ、みんな」
 昇平の言葉にうなずく者もいたが、巻き込まれたくないのか、半分くらいは沈黙を守っている。
「そうなのか、坂田!」
 ――ここで真実を告げれば、学校中に知れわたる。
 そうなれば、家族にも迷惑が掛かる。
「その通りです」
「分かった。今日のところは帰れ。数日中に家の人に来てもらうことになる。その日まで家で謹慎していろ」
 留吉は一刻も早くその場から離れたかった。それゆえ教師に一礼すると駆け出した。怒りとも口惜しさともつかない得体の知れない感情が、胸底からとぐろを巻くように湧き上がってきた。
 ――自分ではどうすることもできない十字架を、俺は背負わされているんだ。
 それは一生、留吉に付いて回ることになる。

 家に帰った留吉は、洗いざらい父に語った。だが父は、自分の過失であるにもかかわらず激怒し、「級友を殴るなど言語道断だ!」と言って留吉の頰に平手を見舞った。
 その数日後、学校から呼び出しがあり、父の善四郎と継母のいさを伴って学校に向かった。出がけに正治が出てきて、「何を言われても謝るんだぞ」と忠告してくれた。
 一方、善四郎は不愉快を絵に描いたような顔で、祖父の遺品のパナマ帽をかぶり、ステッキを持って先に歩いていった。母のいさもその背後に付き従ったので、留吉はその後をついていく形になり、一切口を利かなかった。
 校庭を行く三人は注目を集めた。ちらりと校舎の方を見ると、多くの顔がこちらに向いている。どこかの教室から「黒板を見ろ!」という教師の怒鳴り声も聞こえてきた。
 刺すような視線が辛かった。その中に、井口昇平の冷ややかな視線があるのは間違いない。
 ふだんは全く用のない受付で、善四郎が来校を告げると、女性事務員が校長室に案内してくれた。煙草(タバコ)の臭いが充満した校長室には、校長と教頭が固い顔つきで待っていた。
坂田一家の来訪が告げられるまで、二人は煙草を吸っていたのだろう。天井には紫煙がたゆたっている。
善四郎はにこにこしながら、「いやいや、この度は愚息がご迷惑をおかけしました」と言いながら名刺を出している。
 やがてソファーを勧められて座ると、お茶が出された。見るからに薄くて熱いお茶だ。留吉の前にも茶碗が置かれたが、もちろん手を付ける気にはならない。
 やがて事件のあらましが教頭の口から語られた。もちろんすべては昇平の言い分だったが、留吉は口を挟まないでいた。
 教頭が語り終わると、校長が言った。
「子供さんの間のことは、私にもよく分かりません。ただ『態度がでかい。生意気だ』と言って殴ったというのは、ちと不可解です。どうだ、坂田君、井口君の言っていることは本当かい」
 ――この場で、それを問うてくるのか。
 だが父の前で、真実を告げるわけにはいかない。むろん善四郎は黙っているが、腹の中では「言うなよ」と思っているに違いない。
 気まずい沈黙に堪えられなくなったのか、校長が咳払いすると言った。
「これまで坂田君は問題を起こしたこともなく成績も優秀でした。しかし校則では、暴力を振るった生徒は退校と決まっています。殴られた井口君に何らかの落ち度があれば別ですが――」
 どうやら校長たちは井口の説明に不信を抱き、真実を知りたがっているようだ。
「どうだ、坂田君、殴った理由を教えてくれないか」
 ふだんとは全く違った優しい声音で、校長が語り掛けてきた。
 ――いっそのこと真実を言ってしまおうか。
「実は――」
 留吉が口を開こうとした時、善四郎が口を挟んできた。
「いやいや、子供の間のことですから理由などないも同然です。どうでしょう。この場で留吉に謝罪させますので、それで矛(ほこ)を収めていただけませんか」
「そうですね」と答えつつ教頭に目配せすると、教頭がうなずいた。
「分かりました。当該生徒の井口君を連れてきますから、坂田君が謝罪することで一件落着といたします」
「ありがとうございます」
 善四郎がひときわ大きな声で礼を言うと、いさが仕方なさそうに頭を下げた。
 ――これが大人の世界なのだ。
 善四郎は自分の恥部を知られたくないがために、うまい落としどころを見つけたと言える。当然、留吉が謝ると思っているのだろう。
 ――父さんにとっては、俺が弱みであり恥部なのだ。
 それを思うと、情けなさで居たたまれなくなる。
 教頭が昇平を連れて戻るまで、善四郎と校長は他愛(たわい)のない政治の話に花を咲かせていた。
 やがて教頭が昇平を連れて戻ってきた。昇平はいつになく殊勝な態度で、留吉の両親がいるのに気圧(けお)されたのか、ドアのところにとどまってもじもじしている。
 ――しょせん、この程度の奴なのだ。
 それを思うと、昇平の罠(わな)にはまった自分が情けなくなる。
「こちらが井口昇平君です」
 校長が紹介すると、昇平が消え入らんばかりに恐縮して頭を下げた。教頭は背後から昇平の腕を摑み、前に押し出した。
教頭が「井口君には、こちらに来る道すがら事情を話しました」と言うと、校長が「そうか」と言って留吉に向き直った。
「坂田君、君が井口君を殴った事実だけはいかんともし難い。大人の世界では暴力を振るったら相応の処罰を受ける。だがここは校内だ。幸いにして井口君もご両親も、すべてを私に一任している。あえて理由は詮索しないが、井口君に謝罪するんだ」
 ――ここは謝罪して終わらせるしかない。
 大人の世界の嫌らしさには辟易(へきえき)する。だが留吉が日常を取り戻すには謝罪しかないのだ。
 留吉が立ち上がると、昇平と目が合った。その時、昇平の口の端が少し開いた気がした。
 ――こいつ、今笑ったのか。
 胸底から怒りが込み上げてきた。
――先ほどの殊勝な態度も演技だったのか。
大人たちも、昇平の掌の上で踊らされていたのだ。
昇平は無表情で留吉に視線を据えている。
 校長が促す。
「さあ、坂田君」
 それでも留吉が沈黙していると、善四郎が苛立(いらだ)ったように言う。
「留吉、校長先生も謝罪だけで水に流すと仰せだ。しかも殴ったのはお前の方で、井口君は殴り返さなかったというではないか。悪いのはお前だ。殴ったことを詫(わ)びるのだ」
 いさまで口を挟む。
「留吉さん、ここは聞き分けなさい。この生徒さんに暴力を振るったという事実は変わらないのです」
 ――その通りだ。
 いさにまで言われて、留吉の心は軟化しかかったが、眼前に立つ昇平の心の内が分かるだけに、素直には謝れない。
「謝らなければ何も始まらないな」
 校長がぶつぶつと文句を言った。自分の顔が潰されるかもしれないと思い、次第に不機嫌になってきたのだ。
 校長が留吉に問う。
「では、暴力を振るった相応の理由があるのだろうね」
 昇平の口の端がまた緩んだ。その顔には「言えるもんなら言ってみろ」と書かれている。
 留吉が沈黙していると、善四郎が言った。
「留吉、理由など自分でも説明できないのだろう。とにかく井口君に謝罪するのだ」
 ――ここで謝ってしまえば、俺も事なかれ主義の大人になるだけだ。
 だからといって真実を告げない限り、悪いのは留吉になる。
「仕方ありませんな」
 遂に校長が匙(さじ)を投げた。
「当校の校則に則(のっと)って処分させていただきます」
「いや、お待ち下さい」
 善四郎が校長の前で手を広げたので、校長はなおさら不機嫌になったようだ。
「坂田さん、私だって暴力を振るった者を謝罪で許すなどという前例を作りたくはないんです。これまで二、三の例はありますが、前任者たちは迷わず退校処分にしてきました。私だけが甘い顔をするわけにはいきません」
「いや、しかし――」
 いさが再び口を開く。
「留吉さん、あなたの気持ちは分かります。しかしあなたが謝罪しないことで、あなたの人生は変わります。それでもよいのですね」
 その一言は胸を抉った。
 ――このまま退校処分になれば、おそらく家を放り出され、どこかで丁稚(でっち)でもしなければならなくなる。それで人生は終わる。だが謝罪すれば大学に行って様々な可能性が広がる。
 だがそれは敗北を意味する。そんな負け犬に、輝かしい人生が待っているとは思えない。
「留吉さん、自分の未来を閉ざしてはいけません。あなたの将来には――」
 いさの目には涙が浮かんでいた。
「われわれ家族のほかにも期待している人がいるはずです」
 それが実母なのは明らかだった。
 ――万事休したのだ。
 留吉は大きく息を吸うと言った。
「殴ったことは謝罪します。井口君、申し訳ありませんでした」
「それでよい」
 善四郎がため息を漏らすのが聞こえた。自分の恥部を暴かれずに済んだからだ。
「井口君、これでよいな」と校長が確かめると、昇平が「はい」とだけ答えた。その顔には、明らかに落胆の色が広がっていた。
「しかし坂田さん、お宅の息子さんが素直に謝らなかったことに、私は納得がいきません」
「ど、どうしてですか。先ほど仰せになったこととは違いますが」
「坂田君は素直に謝らず、ここまでこじれさせたのです。退校にはしませんが、停学三カ月とさせていただきます」
「しかしそれでは――」
 なおも反論しようとする善四郎を抑えるように、いさが言った。
「それで結構です」
「しかしお前、留吉の学業が遅れるぞ」
「それは何とかします」
 校長が咳払いすると言った。
「学業のことは家族で論じて下さい。それでは夏休みも含めて停学三カ月。実質的には一カ月半です。それでよろしいですね」
「ありがとうございます」と答え、いさが立ち上がった。
 校長が目配せすると、教頭が昇平を連れて外に出ていった。
 善四郎は憤然としつつも、「では、これで」と言ってパナマ帽をかぶった。すでに校長は自分の席の方に戻り、皆に背を向けて校庭を見ている。
「失礼します」と言って三人が出ていこうとした時、校長から声が掛かった。
「坂田君、これは君の負けではない」
 三人が茫然としていると、校長が続けた。
「井口君は問題を抱えている。そのくらいのことは、われわれも把握している。彼がどのような大人になるか、われわれも心配だ。それゆえ君が殴った理由は分からないが、君の気持ちはよく分かる。今回のように、大人の世界では、いかに理不尽でも折れねばならない時がある。それを君はわきまえた。これを糧にして立派な大人になってくれ」
 その言葉を聞いた時、嫌な気分のすべてが一掃された。
 ――校長だって馬鹿ではないのだ。
 くだらない大人の象徴のように思っていた校長は、一廉(ひとかど)の教育者だった。
「あ、ありがとうございました」
 留吉は涙を堪(こら)えて校長室を後にした。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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