夢燈籠第15回
四
慶一の行方は杳(よう)として摑めなかった。善四郎は毎日のように陸軍省に電話をかけ、また何度か足を運んだが、陸軍省も情報を摑んでおらず、「満州軍からは捜索中と聞いています」の一点張りだった。
父は政治家に伝手があるので相手をしてくれているが、何の伝手もない者だったら、けんもほろろにあしらわれたに違いない。この時代、それだけ軍部は増長し、国民に対して強圧的だった。
夏休みも終わり、留吉は早稲田に戻ることになった。善四郎に「すべてをわしに任せ、お前らは仕事や学業に専心してくれ」と言われたので、従わざるを得なかった。
正治は「何かあったら駆けつけます」と両親に告げ、先に仕事に戻っていた。
慶一のことで浮かない気分だったが、再び学生生活が始まると、勉強するのが楽しかった。そんな中、一つの事件が起こる。
下宿から近い場所に早稲田水稲荷(みずいなり)神社という古社がある。そこでは、九月九日の重陽(ちょうよう)の節句に例大祭が行われる。この年は九日が日曜日なので、常の年より盛り上がっていた。
前日の土曜、八重樫春子(やえがしはるこ)が下宿にやってきた。いつものように挨拶を交わすと、「明日のお祭りに一緒に行きませんか」と誘われた。断る理由もないので、留吉は「いいよ」と答えた。この時は、下宿の連中も一緒に行くものだと思っていた。
日曜日の夕方、二人は浴衣(ゆかた)に着替えて祭りに出掛けた。気づいたら二人だったので戸惑(とまど)ったが、今更断るわけにはいかない。
神社の周囲には様々な露店が店を広げていた。いつもは閑散としている参道が、それだけで別の世界のように見える。
すでに日は陰り、露店にはランプが灯(とも)っていた。それがまた美しさを際立たせている。
参道には、ゴム風船、ヨーヨー、けん玉、ビー玉、めんこ、面などの玩具を売る店から、バナナの叩き売り、金魚すくい、しんこ細工、かるめ焼き、飴細工(あめざいく)といった店が軒を連ねている。
その時、町内を練り歩いてきたと思(おぼ)しき神輿(みこし)が帰ってきた。もうゴールとなる神社は近いので、「わっしょい、わっしょい」という掛け声にも熱が籠もる。
「神輿は威勢がよくていいな」
「江ノ島にも、こうしたお祭りはあるんですか」
「ああ、七月にあるよ。江ノ島で最大の祭りは、天王(てんのう)祭と呼ばれる八坂神社の例大祭になる。下之宮を出た神輿が参道を下り、弁天橋際から海に入って小動(こゆるぎ)神社まで渡御(とぎょ)するんだ。神輿を担ぐ者たちは頭まで波をかぶり、それでも掛け声を合わせながら進むという勇壮な祭りさ」
「留吉さんは、その神輿を担いだことがあるの」
「そういえばなかったな。いつかは担ぎたい」
「留吉さんが担げるの」
「こいつ!」
二人は和気あいあいとしながら神社に詣でた。
神社の裏手には高田富士と呼ばれる人工の小山がある。そこは小さな庭園となっていて腰掛けもあるので、どちらが言うでもなく、二人はそこに向かった。境内の賑やかさとは裏腹に、そこは人気もなく閑散としていた。
「ここに来たのは初めてです」
春子が高田富士を見つめながら言う。
「僕もだ。東京の名所の一つなので来られてよかった」
そう言いながら留吉が木製のベンチに腰掛けると、春子が一瞬躊躇(ちゅうちょ)した。
「気づかなくてごめん」
留吉がハンケチを置くと、春子は「でも――」と言って座ろうとしない。
「ハンケチのことは気にせず座れよ」
「申し訳ありません」
ベンチが小さいので、二人は肩が触れ合うようにして座った。
「留吉さんは、来年卒業したら何をするのですか」
「そろそろ考えておかないとね」
「うそ。考えているんでしょう」
「ああ、実は新聞記者になりたいんだ」
留吉は大手新聞の記者になり、満州への赴任を希望するつもりでいた。働きながら慶一を捜そうというのだ。
「それは素晴らしいわ。留吉さんが書く記事なら面白いこと請け合いですね」
「それは分からない。実は満州に行きたいんだ」
「えっ」と言って春子が啞然(あぜん)とする。
「満州で長兄が消息を絶ったんだ。すぐにでも飛んでいきたいが、大学中退では向こうで仕事が見つけにくい。だからあと半年辛抱してから新聞社に就職しようと思っている」
留吉は正直に満州に渡りたい理由を話した。
「でも満州なんて――」
――春子さんは、まさか俺と一緒になるつもりでいたのか。
そのことは薄々気づいていた。そうでもなければ、女性の方から祭りに誘ってくるなどあり得ないからだ。
「先のことは分からない。兄さんが見つかったという知らせが届けば、新聞社に就職したとしても、満州赴任などを希望しない」
「そうよね」
春子はほっとしたようだ。
「春子さんはどんな人生を歩みたい」
「私は女ですから、結婚して子供を産んで、旦那さんを支えていくだけです」
「それでいいのかい」
「うちは貧乏だから大学にも行かせてもらえそうにないし、それ以外何ができるというのです」
留吉は愚問を悔いた。
「それだって立派な生き方だ。男は家庭をしっかり守ってくれる妻がいてこそ、社会で活躍できる」
「でも私だって、世の中の役に立ちたいと思う時があります。津田梅子(つだうめこ)さんのように」
「梅子さんのことを知っているのかい」
「はい。明治維新間もない頃、官費留学生として満六歳で米国に渡った方ですよね。帰国後は女子英学塾(後の津田塾大学)を作りました」
「よく知っているな。その通りだ。春ちゃんも梅子さんのようになりたいのかい」
少しはにかんだような口調で春子が答える。
「はい。たった一度の人生ですから、自分の持てる力を試したいと思う時があります」
「そうか。今からでも遅くはない。何事もあきらめないことが肝心だ」
「でも、うちは父が厳しいから無理なんです。だから社会で飛躍する方の妻となり、その方を支えていきたいんです」
その言葉は、心の底から自己実現を願っているのではなく、父親のせいにして運命を受容するつもりでいるような気がした。日本では、「女性は男性に従うもの」という風潮があり、致し方ないことなのだが。
「それも大事なことだ」
「私は、旦那様にどこまでもついていきます」
それが、一緒に満州に行く覚悟があるという意思表示なのは明らかだった。
――だからといって連れていけるか。
満州には、何があるか分からない。たとえ結婚したとしても、他人(ひと)様の娘を連れていけるようなところではない。
二人の間に気まずい沈黙が漂う。もう秋も近いのか、コオロギらしき虫の声が沈黙をいっそう深いものにする。
「留吉さん」と言いつつ、春子が顔を留吉の肩に載せた。
「春子さん、いいのかい」
「うん」
留吉は震える手で春子の肩を摑むと接吻した。
胸底から何か得体の知れないものが込み上げてくる。思わず胸をまさぐろうとしたが、春子は身をよじってそれを拒んだ。
「やめて」
「すまなかった」
「うん、いいの。でもここでは――」
「そうだね。もう遅いから帰ろう」
留吉が立ち上がると、春子もうなずいてそれに従った。
――これでよかったのか。
留吉には当面結婚する気などない。だが春子にはある。接吻したことで後ろめたさが湧いてきた。
賑やかな場所に出ると、現実に立ち帰ったような気がした。春子の顔を見ると、もう笑みが浮かんでいる。
「留吉さん、あれを買って」
春子が指差す先には、しんこ細工の屋台があった。しんこ細工とは、白米を臼(うす)で引いて粉にし、それを水でこねて蒸したものを、少量の砂糖を付けながら動物などの形にこねていく菓子のことだ。
「いいよ。どれがいい」
「これ」と言って春子が指差したのは鶏(とり)だった。
「なんで鶏がいいの」
「可愛いから」
留吉は犬にした。二人はそれを食べながら帰途に就いた。その時の春子の屈託のない笑顔が、いつまでも留吉の脳裏に焼き付いていた。
――この笑顔を、どうやって満州で守っていけるというのだ。
留吉には、そんな無責任なことはできない。
――今夜のことは真夏の世の夢にしよう。
留吉は、その夜のことをシェイクスピアの戯曲のタイトルになぞらえた。
人生という大海に漕(こ)ぎ出すだけでも、若者にはたいへんな重荷なのだ。新妻を連れて大陸に渡るなど、まさに真夏の夜の夢以外の何物でもなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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