夢燈籠第49回
十四
大連から日本行きの船に乗ったのは、年末も押し迫った十二月二十九日のことだった。
新聞社は一月六日から始まるので、留吉は挨拶回りや荷造りで、昭和十年の正月を過ごすことにした。
又吉健吉に居候(いそうろう)になった礼を言い、満州に渡航することを告げると、健吉はとくに驚かず、「そうか」とだけ言った。
引き留めてもらえないことが少し寂しかったが、その理由を問えないでいると、健吉が封筒を手渡してくれた。
「ブラジルの登紀子姉さんからだ。わしにも別に手紙が届いたので、内容は分かる」
慌てて開封すると、時候のあいさつの後すぐに、継母のいさが病で亡くなったと書かれていた。
「お母さんが亡くなったんですね」
「ああ、ブラジルに渡ったことが原因とは思いたくないが、あれは姉さんの選択だった。きっと悔いはないだろう」
幼い頃から、いさと一緒に育った健吉にも万感の思いがあるのだろう。涙を見せまいとしていたが、その瞳は真っ赤になっていた。
「わしは姉さんから、お前のことを頼まれていた。だからもし姉さんが生きていたら、満州に生活の拠点を移すということには反対した。だが姉さんも死んだ今、お前を縛っておくものは何もなくなった。好きにするがよい」
「ありがとうございます」
留吉の脳裏に、在りし日の江ノ島の家が浮かんだ。父は難しい顔で新聞を読み、いさが登紀子に包丁の使い方などを教えながら食事を作っている。その周囲を、慶一と正治が走り回っていた。
――時の流れは残酷だな。
その時は、そんな状態が半永久的に続くと思っていた。だが知らぬ間に、すべては二度と取り戻せない過去になっていた。
「留吉、何があっても音を上げるなよ」
「は、はい」
「わしが言えることは、それだけだ。もうこれでお別れかもしれんな」
「そんなことはありません。日本に戻ってきた時には必ず顔を出します」
「うん、そうしてくれ」
健吉が母屋の方に戻っていく。その後ろ姿には、かつて海軍大尉の制服を着て意気揚々と江ノ島にやってきた頃の面影はなかった。
――時の流れとは残酷なものだな。
やがて留吉にも老いが訪れるだろう。だがその前にやっておかねばならないことがある。
留吉は荷造りに精を出した。
夜になり、飯でも食おうと出かけようとしていると、玄関の戸が開く音がした。
「いるか」
その声を聞いた時、留吉はどっと疲れが出た。
「いますよ」と声をかけて玄関に行くと、案に相違せず、中原が子供用かと思われる小さな靴を脱いでいるところだった。
「よかった。ちょうど昨日、山口から出てきたところなんだ」
「私も数日前に満州から戻ったばかりです」
「ああ、そうだったのか。ということはグッド・タイミングだな」
中原は勝手に上がると、荷造りの終わった部屋を見回して問うた。
「引っ越すのか」
「ええ、まあ」
「どこに」
「満州です」
「こいつは驚いた」
中原が芝居じみた仕草(しぐさ)で驚きを表す。
「あちらで事業をやります」
「たいしたものだ。一介の新聞記者が社長様になるのか」
「一介というのは余計です。それにしても、酒を持ってくるなんて珍しいじゃないですか」
中原が手にしたサントリーオールドを、ちゃぶ台の上に置く。
「ああ、ここのところ羽振りがいいんでね」
「ということは、詩集が売れているんですね」
「まあな」と照れ臭そうに言いながら、中原が二つの茶碗にウイスキーを注(つ)ぐ。
「満州にいたのなら知らなくても仕方がない。俺は以前の俺とは違う」
留吉はくすりとしてしまった。
「何が可笑(おか)しい」
「中原さんは中原さんです。何も変わりはしませんよ」
「そりゃそうだ。だがな、昨年末に出した詩集の『山羊の歌』が大評判でな。様々な版元から、詩から論文まで寄稿の依頼が次々と舞い込んできた。それで今日は、ランボオの韻文詩を訳すという仕事を引き受けてきた」
仕事が増えて金回りがよくなったのか、中原は上機嫌だった。
「それはよかったですね」
「そうだ。子供もできた」
「ええっ、中原さんに子供ですか」
「ああ、まだ赤子だから故郷の湯田(ゆだ)に置いてきた」
「そうだったんですね。おめでとうございます」
二人は茶碗を合わせた。
これほど毒のない中原を見たのは初めてだった。これまでの灰汁(あく)の強さの反動ゆえか、留吉はたまらなく中原が好きになった。
「互いの前途を祝して」
再び二人は茶碗で乾杯した。
そんなことが繰り返され、したたかに酔った中原が真夜中頃、「そろそろ帰る」と言い出した。
「泊っていってもいいんですよ」
「いや、版元がせっかくホテルを取ってくれたんで帰るよ」
「そうですか。残念だな」
「ああ、またゆっくり飲めることもあるだろう」
そう言うと、中原はソフト帽をかぶり、釣鐘マントを羽織ると、覚束(おぼつか)ない足取りで玄関を出ていった。
「満州から帰ったら連絡します」
留吉の言葉に、中原は右手を挙げて応えた。
だがこれが中原に会う最後になるとは、留吉は思ってもいなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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