夢燈籠 第38回
四
昭和八年(一九三三)、 二十五歳の留吉にとって、初めての一人暮らしが始まった。すでに善四郎の妓楼も取り上げられ、債権債務もすべて整理したので、横浜に住む意味はなくなっていた。一軒家も広すぎる上、借家なので家賃も馬鹿にならない。そこで千駄ヶ谷(せんだがや)辺りでアパートを探すことにした。
なぜ千駄ヶ谷なのかと言うと、いさの弟で予備役海軍大尉の又吉健吉(またよしけんきち)が、浦賀(うらが)から千駄ヶ谷に引っ越し、さかんに留吉を呼んでいたからだ。健吉は江田島(えたじま)で教官をしていたが、この頃には完全に予備役となり、悠々自適の生活を送っていた。
――義母(かあ)さんから頼まれたんだな。
健吉が留吉を気に掛けるのは、いさに頼まれてのことだと分かる。だが留吉も懐が心許ない折でもあり、家賃が安ければ行ってもよいと思った。健吉が電話で、さかんに「来い」というので、恐る恐る家賃を聞いてみると、「要(い)らん」とのことだった。
そうした次第で、健吉の家に居候させてもらうことになった留吉は、軽トラックを借りて家財道具を積み込むと、一路千駄ヶ谷を目指した。
初めての東京生活に胸が躍ったが、千駄ヶ谷周辺は田畑か空き地ばかりで、忘れた頃に住宅がポツンと立っているような状態で、都会とはほど遠かった。それでも健吉の家は庭もある立派なもので、離れもあるので助かった。しかもその離れは裏口が玄関代わりになっており、健吉の家族と顔を合わせなくても一日を過ごせる理想的なものだった。
千駄ヶ谷での生活は楽しいものだった。休みの日には健吉の高校生の息子と釣りに出掛けたり、健吉の用事を引き受けて都心に買い物に行ったりした。
帝都日日新聞のある芝公園までは、都電やバスを乗り継いで一時間ほどなので、通勤もさほど苦にならない。
五月のある日のことだった。仕事から戻り、いつものように又吉家の裏口から離れの中に入ると、玄関口に見慣れない下駄が転がっている。
――泥棒(どろぼう)か。
考えてみれば、裏口は施錠もしていないし、離れの鍵ももらってはいない。泥棒が入ろうと思えば簡単に入れるのだが、ろくな家財道具もないので、とくに心配もしていなかった。
――不用心だったな。
抜き足差し足で廊下を歩いていくと、居間に大の字になって寝ている男がいる。傍(かたわら)らには黒いソフト帽が放り出され、黒い釣鐘マントが脱ぎ捨ててある。顔は童顔で小柄なので、強盗や泥棒には見えない。だいいち入った家で寝てしまう泥棒はいない。
――こいつは誰だ。
泥棒ではないようなので少し安堵(あんど)したが、見知らぬ男が勝手に上がり込んで寝ているとなると、気持ちのよいことではない。警察を呼ぼうかとも思ったが、このまま大人しく退散してくれればよいので、男を揺り起こすことにした。
「お兄さん、起きて下さい」
いくら揺り動かしても、男は「うーん」と唸って起きようとしない。近づくと酒臭い。
――仕方ないな。
流しに行ってコップに水を注いだ留吉は、男の頬にそれを注いだ。
「冷たい! 何しやがるんだ!」
男は目を覚ますと、左右を見回した。
「ここはどこだ」
「ここはどこだって、他人(ひと)の家に勝手に上がり込んで何を言っているんですか」
「他人の家だと。ここは俺が住んでいる離れだぞ」
「はあ」
一瞬、自分が家を間違ったかと思ったが、そんなことはないと、すぐに思い返した。
「ここには、私が住んでいます」
「えっ、どうしてだ。お前は隅田(すみだ)さんではないのか」
「隅田さん――」
「そうだ。大家の隅田さんでは――。そうか、それにしては若いな」
「冗談はやめて下さい。もしかして家を間違えたのですか」
「あっ」と言って、男が周囲を見回す。
「どうやらそのようだ。この辺りは同じような家が多いからな」
「分かりました。では、出ていってもらえますね」
「ああ、もちろん出ていく。だがこれも何かの縁だ。そこにある酒を一杯飲ませろ」
その男が指差す先には、サントリーの角瓶が置かれていた。健吉が持ってきた転居祝いの残りだ。
「そいつは少し図々しいんじゃありませんか」
「そうかな」
男が頭をかく。その仕草には少年らしさが残っており、留吉は苦笑してしまった。
「分かりました。一杯だけですよ」
「ああ、一杯でいい」
欠けた茶碗にウイスキーを注(つ)ぐと、男がうまそうに飲み干した。
「これでよろしいですね」
「もう一杯」
「しかし――」
「必ず帰るから心配するな」
「約束ですよ」
そう言いながらも、留吉は男の得も言われぬ魅力に惹かれていった。
「ああ、うまい」
「で、ご自宅はどこですか」
「千駄ヶ谷八七四の隅田方だ。ついこの前、引っ越してきたばかりだ」
「あっ、近いですね」
近所に住んでいるとなると、無下にもできない。
「そうなのかい。俺も割としっかりしているな」
どうやら男は自宅に帰り着けなくても、近くまで帰ってこられたことで満足しているらしい。
「あっ、あれは何だ」
そう言うと、男が四つん這いになって部屋の隅まで進み、そこに積んであった本を手にした。
「萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)か――。まさか君が読むのか」
「はい。まだ読み始めたばかりですが、惹かれますね」
「そうか――」
男はページをめくりながら字を追っている。
「あなたも詩が好きなのですか」
「えっ、俺が朔太郎を好きかって」
「そうです。好きなんでしょう」
男は本を閉じると、机の上に放り出した。
「冗談じゃない。こんなのは、ただの文字の羅列だ」
「ええっ、そうなんですか」
「君は何も分かっちゃいないな。詩というのは上品な言葉を並べて、それっぽい雰囲気を出すことじゃない。心の奥底にある血の塊(かたまり)を吐き出すものだ」
「血の塊を――」
「そうだ。何かつまみはないか」
近くにあるのは、明日の朝食べようと思って買っておいた食パンだけだ。
「これをどうぞ」
包丁はないので登山ナイフを渡すと、男は小器用にパンを切った。
「ほれ」
「ほれって、僕のパンですよ」
「遠慮せず食べろ」
男は呂律(ろれつ)が回らなくなってきていた。気づくと勝手にウイスキーを茶碗に注いでいる。
致し方なく食パンを口に入れると、男もむしゃむしゃと食べ始めた。
「何も食っていないから、こんなものでもうまいな」などと言いつつ、男は再び萩原朔太郎の『月に吠える』を手にする。
「この男は売文家だ。その辺に立っている娼婦と変わらぬ。だから形而上学(けいしじょうがく)的アピローチができていない」
「アプローチですよ」
「ああ、そうか。君は英語もできるんだな」
「少しですが――」
どうやら男は腰を据えてしまったようだ。
「あの――」
「何だね」
「帰らないのですか」
「帰らないとまずいかね」
男は寂しそうな顔をする。
「私にも勤めがありますから」
「ああ、そうか。仕事は何をやっている」
「新聞記者です」
「新聞記者か。それで、どうして朔太郎を読んでいる」
「たまたまです」
男が本を置くと立ち上がった。
「そうか。明日は平日か。今日はここまでとしよう。また来る」
「また来るって――」
「隅田さんちはどこだ」
「私も新参者で分かりません」
「では、探すか」
ソフト帽と釣鐘マントを手にした男は、覚束(おぼつか)ない足取りで玄関に向かった。そこで何とか下駄(げた)を履くと振り向いた。
「君の名は何という」
「坂田留吉ですが」
「ああ、末っ子か」
「そういうことになります」
「じゃ、またな」
玄関から男を押し出すようにして留吉が戸を閉めようとすると、男が言った。
「こいつは失敬。俺の方は名乗っていなかったな」
「ああ、はい」
留吉にとってはどうでもよいことだが、男は名乗りたいようだった。
「私の名は――」
室内の光に照らされ、男の顔が引き締まる。
「中原中也(なかはらちゅうや)。詩人をやっている」
「分かりました。お休みなさい」
男はふらふらしながらも、裏口から出ていった。
ため息を一つつくと、留吉は中原が明け放したまま行ってしまった裏口の木戸を締めた。
その時、中原はまさに闇の中に溶け込もうとしていた。高らかに何かを吟じているので、どこかで犬が激しく吠えている。
――中原中也か。
留吉は苦笑を漏らすと、家の中に戻っていった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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