夢燈籠第37回
「お前には言わなかったけど、お前を離れに住まわせたのは、祖父様でも父さんでもない。私なんだよ」
「そうだったんですか」
その言葉は留吉の心を抉(えぐ)った。
「あの頃は、私もまだ女を捨てられなかった。だから口惜しくてね。だから父さんに頼んで、憎い女の忘れ形見のお前を、母屋に入れたくなかったんだ」
留吉は息をのんだ。祖父の庄三郎も父の善四郎も、確かに狷介固陋(けんかいころう)な一面はあったが、性格はざっくばらんで細かいことは気にしなかった。それを思えば、留吉を離れに住まわせたのが、いさの差し金だというのはうなずける。
――だが、今更それを恨んでどうなる。
留吉が笑みを浮かべて言った。
「もう、いいんです。過去は過去です」
「そうかい。こんな私を許してくれるのかい」
「当たり前じゃないですか。私も母さんの子なんですから」
登紀子の嗚咽が聞こえる。登紀子にも様々な葛藤があったのだろう。
しばし沈黙の後、武男が再び問う。
「本当の気持ちは、どうなんです」
「私はね――」
いさの顔に笑みが浮かぶ。
「これまで新しいことに自分から踏み出すことはなかった。すべて誰かの意向に沿って生きてきた。だから最後くらい、自分で決めたいんです」
武男がもう一度言う。
「われわれは大歓迎です。どうしますか」
「お母さん、一緒に行きましょう」
いさが小さくうなずくと言った。
「迷惑でなければ連れてっておくれ」
「母さん――、うれしい」
登紀子はいさの肩を抱き、頬ずりした。
「留吉さん、私は新天地で新しい人生を始めるつもりです。おそらくさほど長くは生きられないでしょうが、ここで寂しく朽ち果てるよりも、希望が持てる気がします」
「よかった!」
武男が感極まったかのように涙を拭く。
「母さん、これからもずっと一緒よ」
留吉が威儀を正すと言った。
「義母さん、これまでお世話になりました。お礼を言っても言い足りませんが、父さんの墓だけはしっかり守ります」
「それだけが気になっていたんだけど、お前がしっかり者だから安心だよ」
いさの顔に笑みが広がる。
武男が四つの酒盃(しゅはい)に酒を注(つ)ぐ。
「これで話は決まった。では、祝杯を挙げましょう」
四人が盃(さかずき)を掲げた。
この一カ月半後の三月、三人はブラジルに向けて出発することになった。横浜港まで見送りに行った留吉は、いさと登紀子と別れを惜しんだが、船が出発を告げる汽笛を鳴らしたので、二人の背を押すようにして送り出した。
「母さん、ありがとう」
「こちらこそ、すまなかったね」
これが最後だと思い、留吉はいさの肩を抱いた。懐かしい匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
「姉さんも、今までありがとうございました」
「何を言うの。また会えるわよ」
「そうですね。必ず――」
武男は渡し板に足が掛かっても、「留吉さん、あちらでお待ちしています」と言ってくれた。多少山っ気はあるにしても、登紀子はよき伴侶(はんりょ)にめぐり合えたと思った。
いったん船内に消えた三人がデッキに顔を出すと、留吉は紙テープを投げた。いくつかはあらぬ方角に飛んでしまったが、一つだけ武男がうまくキャッチした。武男はその一本の紙テープを二人に渡してくれた。
周囲には人も多く、互いに聞こえないのは分かっていても、大きな声を上げて懸命に手を振った。
いさと登紀子は涙ぐんでいたが、いつまでも紙テープを握っていた。だが船が動き出し、紙テープがちぎれた瞬間、留吉は家族との絆(きずな)が断ち切られたことを実感した。それでも留吉は、船が見えなくなるまで手を振り続けた。
――これで天涯孤独の身か。
だが留吉の胸中には、逆に爽(さわ)やかな風が吹きすぎていた。
――別れは終わりではない。新たな扉を開くきっかけなのだ。
留吉は自分にそう言い聞かせると、ちぎれた紙テープを離した。その瞬間、何かが終わり、何かが始まる予感がした。
昭和七年は、日本にとって激動の時代の始まりだった。
一月、第一次上海事変が勃発する。日本人托鉢(たくはつ)僧が襲撃されたことに端を発した日本軍と中国軍の衝突は大激戦となり、日本側にも大きな損害が出た。
この時、上海公使館附陸軍武官補だった田中隆吉(たなかりゅうきち)少佐は、板垣征四郎(いたがきせいしろう)高級参謀(大佐)から「諸外国の注意を満州からそらしてくれ」と依頼され、中国人を雇って襲わせたと、戦後になって証言している。その真偽のほどは定かではないが、その狙いは的中し、一時的に諸外国の関心は上海に向けられた。
その間隙を縫うようにして三月、関東軍の後ろ盾により、満州国が建国される。これをきっかけにして日本は、いよいよ大陸の泥沼に足を取られていくことになる。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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