夢燈籠第20回
九
中国東北部に広がる満州は、清(しん)朝時代に東三省(とうさんしょう)と呼ばれた奉天、吉林(きつりん)、黒龍江(こくりゅうこう)の三省を指す。この東三省には多くの民族が住んでおり、漢民族とは異なる国家、文化、社会を形作っていたことから、漢民族からは北方民族と総称されていた。
中でも女真(じょしん)族が打ち立てた清朝は漢民族を支配下に置き、大陸統一を果たした。彼ら女真族は自分たちを満州族と呼び、それが地域の名として定着していった。
日本が広大な満州全域をわがものにしようという野心を抱いたのは、朝鮮支配をめぐって清朝と対立した日清戦争以降で、この戦いで南満州を占領してからだった。この時、遼東(りょうとう)半島をも占拠した日本だったが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって遼東半島を返還せざるを得なくなる。つまり日清戦争で日本が得たのは、朝鮮半島、台湾、澎湖(ぼうこ)諸島の割譲だけだった。
ところがその後、ロシアは遼東半島を清国から強引に租借(そしゃく)し、一大軍事基地を築くと、義和団(ぎわだん)事件をきっかけとして満州全域に軍を展開し、実質的に満州全土を占領した。
これでは日本の朝鮮支配が危機に陥る。その結果、勃発したのが日露戦争だった。この戦いはロシア国内が混乱していたこともあり、日本が勝利した。
これによって日本が得たのが、遼東半島南端の関東州と東清鉄道の一部だった。当初、関東州と鉄道の保護を目的として駐屯させていた部隊が、後に肥大化して関東軍になっていく。
そして関東軍は満州事変を起こし、満州国を樹立していくことになるが、その過程で起きたのが張作霖爆殺事件だった。
大連埠頭(だいれんふとう)で船を下りた乗客は桟橋(さんばし)を渡り、バルコニーと呼ばれる桟橋を経て埠頭待合所に入っていく。待合所には整然と柱が立てられ、その下部には柱を取り囲むように円形の椅子(いす)が設けられている。そこでは雑多な人々が思い思いの姿で乗客を待っていた。
乗客は待合所を通過して外に出る仕組みになっている。そこで迎えの人々と再会するのだ。そこかしこで出迎えの人々との喜びの声が聞こえてくる。
待合所には、乗船券販売所はもとより、売店、和洋中の食堂、理髪店、玉突きなどの球戯室までそろっており、喩(たと)えようもないほど賑やかだ。新聞売りの少年たちが客を呼ぶ声の中、留吉は人の波に押されるように外を目指した。
――ここが大連か。
大連は留吉にとって初めて訪れる外地になる。
待合所の出入口は半円形の屋根が懸けられており、その前には円筒形の柱が六本整然と並んでいた。その丸形の階段を下りると、乗合自動車の運転手や車夫らしき者たちが殺到してきた。まだ乗合自動車は少なく、大半は小型馬車(マーチョ)や洋車(ヤンチョ)と呼ばれる人力車になる。
だが彼らの言葉は、留吉には通じない。中にはおかしな発音の日本語で「どこに行きますか」「安いよ」という言葉も聞こえてくる。
留吉が戸惑っていると、運転手や車夫の向こうで、白色のパナマ帽が振られているのが目に入った。丸眼鏡を掛け、白一色の亜麻(あま)のスーツを着たその人物は、帽子で「こっち、こっち」と合図している。留吉が自分のことかどうか分からないでいると、「坂田君、こっちだ」という声が聞こえた。
右手で拝むようにして運転手らをかき分けた留吉は、ようやくパナマ帽の男の許にたどり着いた。
「坂田君だね」
「はい。坂田留吉です」
「迎えを仰せつかった満州日報編集の小林金吾(こばやしきんご)です」
小林と名乗った男は、新人の留吉に対しても丁寧語だ。
「よ、よろしくお願いします」
自分などに迎えが来るとは思ってもみなかった留吉は、戸惑いながら小林の差し出す右手を強く握った。
「おっ、こんなに握力があるなら、ここでもやっていけますよ」
小林はそう言うと、「満州日報」と車の横腹に大書された社用車に留吉を乗せた。運転手は現地の人のようで一言も話さない。二人は後部座席に座った。
「聞くまでもないことですが、外地は初めてですね」
「そうなんです。だから不安で仕方がありません」
「ご心配には及びません。うちに入った唯一の新人なので、皆で丁寧に指導しますよ」
――俺が唯一の新人だったのか。
そういえば「満州日報」は新人の募集広告を出していなかった。つまり父が伝手(つて)を使って押し込んでくれたのだ。
「そうだったんですね。皆さんの迷惑にならないよう頑張ります」
その間も車は猛スピードで広い道を走り抜けていく。歩行者や牛車が道路を横断してくるが、道を譲るなどということはせず、クラクションを鳴らして蹴散らすように進んでいく。
――これが満州なのだ。
歩行者に対しても思いやりを持つ日本の運転手たちとは、その精神風土が違うのだ。
道行く人の大半は辮髪(べんぱつ)を結った現地人だが、明らかに日本人と分かる姿をした紳士淑女も散見される。
「随分と日本人が多いのですね」
「そうなんです。満州全土で百万人を超えたとも言われています」
在満邦人は後のピーク時には百五十五万人を数えた。
広い街路の両側には、アカシアらしき木が整然と植えられ、ちょうど開花の季節で甘酸っぱい匂いが立ち込めている。
舗装作業をしているのか、スチームボイラーの転圧車がアスファルトを固めている。その煙をもろともせずに、自転車に乗った現地の人たちが、辮髪を風になびかせて走りすぎていく。
やがて車は、環状交差点(多心放射線状道路)のようになっている場所に入った。
「ここが大連の中心とも言える大広場(中山広場)です」
小林によると、この広場はロシアの占領下にあった時代、パリに倣った都市計画によって造られたもので、この広場を囲むようにヤマトホテル、市役所、警察、横浜正金銀行、朝鮮銀行、中国銀行、英国領事館、関東逓信(ていしん)局といった建物があるというが、どれがどれだか、留吉にはさっぱり分からない。
車は環状交差点でもスピードを落とさず走るので、遠心力で体が傾く。運転手が気を利かせたらしく、あえて環状交差点を一回転半ほどすると、標識に魯迅路と書かれた幅広い道路に入った。
「あれが南満州鉄道の本社です」
小林が指差すのに気づいたのか、運転手が少しスピードを落とした。
「立派な建物ですね」
「元々はロシアの学校だったんですよ。だからほかの建築物に比べて地味なんです」
言われてみればそんな気もする。兄の正治に少しでも欧州の建築様式について聞いておけばよかったと、留吉は後悔した。
やがて魯迅路を通り過ぎた車は右左折を繰り返し、四階建ての建物の前で停まった。
「ここが満州日報の本社です」
満鉄本社の近くなのは分かったが、魯迅路に出る道はよく分からない。
――まあ、なんとかなるさ。
不安なことが多すぎて、開き直りにも近い気持ちが湧いてきた。
「ここは日本人の事務所や住宅が多くある場所で、七七街と呼ばれています。私のアパルトメントはあちらにあります」
小林が瀟洒(しょうしゃ)な洋館を指差した。
「ロシアの下士官たちが住んでいたアパルトメントなんですが、あそこに四世帯も入っています」
笑いながらそう言うと、小林は運転手にぞんざいな口調で「車は裏に停めろ」と命じ、留吉を促して四階に上がった。
四階にある「満州日報」編輯部で待っていたのは、葉巻をくわえた巨漢だった。
「局長、坂田君を連れてきました」
靴を履いたままの足を机の上に投げ出して新聞を読んでいた巨漢は、眼鏡をずらして留吉を見ると、まず言った。
「随分ハンサムじゃないか」
留吉はしばしばハンサムと言われるが、若いだけで、自分ではそれほどでもないと知っていた。
「初めまして。坂田留吉です」
「編輯局長の米野豊實(よねのとよみ)だ」
「よろしくお願いします」
留吉が差し出した手を軽く握ると、米野が受話器を持って誰かと話している男を顎で指し示した。
「あれが臼五亀雄(うすごかめお)編輯長。君の直接の上司になる」
留吉が頭を下げると、臼五も目礼を返してきた。臼五は米野と違って細面で眼光が鋭く、博徒か渡世人の趣(おもむき)がある。どうやら中国語で激しいやりとりをしているらしく、留吉は少し怖くなった。
「心配するな。あれでも臼五君は九州帝大卒だ。そうは見えないだろうがね」
米野と小林がそろって笑う。
「さて、坂田君」
「はっ、はい」
「君は殊勝にも陸軍付記者を希望していると聞いた」
「えっ、誰にですか」
「東京の山崎社長からだ。違うのかね」
この時の満州日報の社長は山崎武になる。
「ああ、いや、はい。陸軍付を希望しました」
もちろん父の善四郎が、山崎にそう言って入社させたに違いない。
「よかった。陸軍付は、なり手がいなくて困っていたんだ」
「どうしてですか」
「決まっているだろう。何でも機密だと言い張って、ろくに情報を寄越さない。とくにわれわれは目の敵にされている」
――そうだったのか。
どうやら兄の慶一の行方を捜すのは、容易なことではなさそうだ。
「でも、話の分かる御仁もいる」
この時になって、ようやく米野が対面の座席を勧めた。
「まあ、座ってくれ。小林君はもういいぞ」
「はい。後はよろしく」と言い、小林が自席に戻っていった。
「実は明日の夜、陸軍のある方を接待することになっている。そこで、いろいろ聞き出そうと思ってな。君も末席に加えたい」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
「張作霖爆殺事件を知っているだろう」
突然、最大の関心事に至ったので、留吉は戸惑った。むろん兄のことは伏せてある。
「もちろんです」
「その事件の調査をしている少佐だ。彼から事実を聞き出そうと思ってね」
「でも、報道できるんですか」
「満州の事件をうちが報道できないでどうする」
「それもそうですね」
「つまりだ」
もったいをつけるように米野が言う。
「新聞社の陸軍付という役割は、いつ何時、憲兵に連れていかれて尋問されるか分からない仕事だ。それでもよいな」
「望むところです」
「ははは、望むところはよかったな。君なら憲兵もたじたじだな」
ここまで来て、「嫌です」などと言うわけにはいかない。だが留吉は、この仕事が容易なものではないと覚悟した。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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