夢燈籠第35回
安田銀行は丁寧に接してくれたが、書類に不備はなく、警察と裁判所に行くよう指示された。警察に行き、借金をした当事者の行方を尋ねたが、警察でも把握のしようがなく、また事件でもないのに捜すのは困難だという。
翌日、裁判所にも行ったが、相談窓口ではけんもほろろの対応で、差し押さえ期限が迫っていることを繰り返し伝えられるだけだった。役所の常で、こうした場合には紋切口調で対応するよう指導されているのだろう。
その後、父の妓楼で経理を担当していた者に相談し、一緒に顧問弁護士の許に行ったが、書類を入念に調べた弁護士は、首を左右に振るばかりだった。
その日は遅くなったので、横浜の旅館に宿を取った。経理係は妓楼の空き部屋に泊まっていくよう勧めたが、それを丁重に断り、近くの安宿で一夜を過ごした。
ところがその夜、登紀子から電話があり、善四郎がいないと伝えられた。すでに電車の走っていない時間だったので、留吉は翌朝に戻ることにし、近所の人たちに捜索を依頼するよう伝えた。江ノ島は狭いだけあり、隣組の結束が固く、何かあった時には全面的に協力してくれる。
まんじりともしない一夜が明け、始発電車で江ノ島に戻った留吉は捜索に参加したが、善四郎の行方は杳(よう)として知れなかった。午前中には警察や地元の消防団もやってきて、捜索範囲を広げてくれた。
善四郎が失踪してから三日目の朝を迎えたが、そこに一報が入った。
茅ヶ崎の漁船が男性の遺骸を引き上げたという。早速、三人は車を呼んで茅ヶ崎に向かったが、そこで対面したのは、変わり果てた善四郎だった。
遺書はなかったが、警察は自殺と断定した。
結局、善四郎は死に、残ったのは借金だけだった。
その後、弁護士を雇って法廷闘争に持ち込もうとしたが、安田銀行の方でも同情したのか、示談という形で借金の軽減案を提示してくれた。おかげでいさのために、わずかばかりの財産を残すことができた。だが、江ノ島の家屋敷を手放さねばならないことに変わりはない。
いさと登紀子と片づけをし、兄たちの本も、『月に吠える』を除いたすべての本を処分した。やってきた古本屋に足元を見られたのか、二束三文にしかならなかったが、それでも当面の生活費の足しになるので文句の一つも言わなかった。
経理係の紹介で横浜に転居先も決まったが、手狭なので困っていたところ、登紀子の嫁ぎ先から、結婚前だが登紀子を受け容(い)れてくれると申し出てくれた。これでいさと二人暮らしになる。
いよいよ家を後にするという時、留吉は家の中を見て回った。家族そろって食事をしていた食堂、父の書斎、慶一と正治の部屋、そしてぬいと過ごした離れ。そこかしこに思い出が刻まれていた。
離れの庭にある燈籠(とうろう)も、これまでと変わらず、そこに立っていた。
――今まで見守ってくれてありがとう。
その燈籠に手を掛け、留吉は礼を言った。燈籠は、いつも一家の足元を照らし続けてくれたからだ。
「出ていくのか」
「ああ、出ていく」
「ここを取られたようだな」
「うむ。残念だが仕方がない」
「そうか。では、お別れだな」
「お別れだ。今まで、うちの一家を見守ってくれてありがとう」
「俺はここにいて、お前らの足元を照らしていただけだ。礼には及ばぬ」
「分かっている。これからは――」
留吉は自分に言い聞かせるように言った。
「俺を守ってくれるものも、行き先を照らしてくれるものもない。一人で世間という大海に漕ぎ出すだけだ」
「そうだな。たいへんだが頑張れ。どうせ変わらないものなど何もないのだ」
――変わらないものなど何もない、か。
留吉は最後に燈籠の笠を撫でると、その場を後にした。燈籠はもう何も言わなかった。
図らずも「弁天楼(べんてんろう)」を手放す形になってしまったが、留吉は、いつかここを去る時が来ると分かっていた。それが、こういう形になっただけなのだ。
留吉は末っ子の上に妾の子でもあるので、財産分与など期待できない。それを思えば、何ら思い残すものはなかった。ただ懐かしいわが家に、もう戻ることができないことだけが寂しかった。
最後に江ノ島神社に詣でると、近所の人たちが総出でついてきてくれた。下に待たせてある車まで荷物を運んでくれる人もいた。小さい子らは留吉の周囲にまとわりつき、「次はいつ来る」などと言っている。
江ノ島神社の階段を降り、車のある場所まで来た留吉は、いさを先に乗せると、皆に頭を下げた。
「祖父の庄三郎(しょうざぶろう)、父の善四郎、そして私まで、三代にわたってお世話になりました。残念ながら、私たちは島を去ることになりましたが、皆さんのご厚意は生涯忘れません。いつの日か再び会えるのを楽しみにしています」
皆に一礼した留吉は、島を見上げた。
――さらば、わが故郷!
車に乗り込もうとする留吉に、「頑張れ」「負けるな」という声援が飛ぶ。目頭が熱くなってきたが、それを皆に見せまいと車に乗った。
「母さん、よろしいですね」
「はい。もう行きましょう」
母は、留吉よりも早く気持ちを切り替えていたようだ。
車が江ノ島大橋を渡っていく。
――いつか戻ってくることもあるだろう。だがその時は、島の人間ではなく外部の者としてだ。
留吉は二度と背後を振り返らなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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