夢燈籠第54回

二月二十三日の夜半から、東京では三十年ぶりと言われる大雪が降り始めた。ホテル生活も長くなったので、二十五日は三越に出掛け、衣類などを買ってきた。帰りは円タクを拾ったので、苦にはならなかったが、雪は深々と降り積もっていた。
山王ホテルの一室に戻った留吉は風呂に入り、そのまま寝てしまった。
翌朝の八時頃、外が随分と騒がしいと思い、ベッドから起きた留吉が窓の下を見下ろすと、多くの兵が行き来している。
――演習か。
しかし演習にしては、これほど宮城に近い場所で行うのもおかしい。それでも「そういうこともあるのかな」と思い静観していると、慌ただしく階段を駆け上がる音が聞こえてきた。
――何事だ。
続いて激しくドアをノックする音が響いた。
「開けて下さい!」
「どなたですか」
「陸軍です」
 ――すわ、戦争か。
 だが、これほど宮城に近い都心に敵が迫っているとは思えない。
「今開けます」と答えたものの、どうしようか迷っていると、「早く開けて下さい」という声が聞こえた。
 なぜか胸騒ぎがしたので、時間を稼ごうと思い、「着替え中です」と答えると、次の瞬間、ドアを蹴破られた。
 そこには、陸軍の三八式歩兵銃を肩に掛けた伍長が立っていた。
「何事ですか!」
「緊急事態です。ここから出ていって下さい」
「何を言うんです。私は石原大佐から、ここに逗留するよう命じられているのです」
「あなたは軍属ですか」
「まあ、そのようなものです」
 軍属とは軍人ではないが、軍隊に勤務する者のことだ。
「では、お待ち下さい」
 伍長が背後にいた若い二等兵に命じる。
「おい、ここで見張っていろ」
 そう言い残すと、伍長は足早に階下に降りていった。
 二等兵は緊張の面持ちで、銃を構えようとしている。
「待ってくれ。私は武器を持っていない。銃を下ろしてくれ」
 相手は年端も行かないような二等兵だ。銃など構えられたら、何があるか分からない。
「うるさい!」
 二等兵が構える銃口は震えていた。
 ――冗談ではない。
 二等兵の緊張から、どうやらたいへんなことが進行していると察せられた。
 ――ここは逆に威圧した方がよい。
 そう思った留吉は、毅然(きぜん)とした態度で言い放った。
「今聞いた通り、私は石原大佐の命により、ここに逗留している。私をどうこうしようとすれば、石原大佐が黙っていないぞ」
「それがどうした!」
 ――ということは、これは革命か!
 石原が体制方だとしたら、ここにいる連中は反体制派になる。
 やがてどやどやと、階段を駆け上る複数の足音が聞こえてきた。
「失礼します!」と言って部屋に入ってきたのは、少尉の肩章を付けた者だった。その少尉は眼鏡を掛け、理知的な顔をしていたので、留吉は少し安心した。
「ご無礼の段、お許し下さい」
「いいえ。それより何の騒ぎですか」
「今から、このホテルを接収します」
「接収って――、どういうことです」
「氏名と石原大佐との関係をお聞かせ下さい」
 留吉が手短に応える。
「それで、あなたは誰ですか」
「はっ、申し遅れました。私は歩兵第一旅団の山本又と申します」
「歩兵第一旅団が、ここで何をしようというのです」
「それをご説明する時間はありません。それより石原大佐のお知り合いなら、ここから解放するわけにはいきません」
 ――しまった。
 この時になり、留吉は石原の名を出したことを悔やんだ。
「では、私をどうするというのですか」
「ひとまず、身柄をお預かりさせていただきます」
「待って下さい。石原大佐に連絡いただけますか」
 山本が難しい顔をする。
「つまりあなた方は、石原大佐の敵にあたるのですか」
「帝国陸軍に敵味方はありません」
「それなら石原大佐に連絡することは可能でしょう」
「しばしお待ち下さい。私も上の指示で動いています」
 ――もしかすると、これは大規模な反乱なのか。
 ようやく留吉も、一大事が起こりつつあると気づいた。
「あなた方は反乱を起こしたのですか」
「それについてはお答えしかねます」
「分かりました。では、私をどうするというのです」
「ひとまず、このまま、ここにいていただけますか」
 山本が有無を言わさぬ口調で言う。
「致し方ありません」
「食事は運ばせます」
 山本は先ほどの二等兵に、留吉を見張るよう命じると階下に行ってしまった。
 留吉が窓の外を見ると、バリケードのようなものができ始めていた。その周囲では、兵士が走り回り、装甲車も行き来している。
 ――どうやら長い一日になりそうだな。
 留吉は白い息と共にため息をついた。

拘束されて二日目の翌二十七日、どうとでもなれという気持ちになって寝ていると、「昼飯です」という声が聞こえた。
「よいしょ」と声に出して起き上がると、山本少尉も来ていた。
「ご相伴ですか」
「そういうわけではありませんが」
 山本は困惑しているようだった。
 それに構わず、留吉は運ばれてきた料理のクローシュを取り上げた。
「ローストビーフですか。大好物です。まだ料理人を人質に取っているのですか」
「いいえ。材料はこちらのホテルのものですが、これは、わが隊の炊事兵が作ったものです」
「ということは、私以外は解放したのですね」
「はい。支配人は残るというので、まだいますが――」
「立派な心掛けだ。ここは城と同じですからね。出て行けと言われて出ていくような城主では困ります」
 留吉は開き直ったかのように語り続けたが、山本が雑談をしに来たわけではないのは、その青白い顔つきから分かる。
「こいつはうまい」
 留吉が当てつけのように舌鼓を打つ。
「よかったです」
「それはそうと、私が囚われの身となっている理由をお聞かせ願えませんか」
「そうですね。失礼しました」
 山本が山王ホテルを取り巻く状況を語り始めた。その話は驚愕(きょうがく)に値するものだった。
 二月二十六日早暁、陸軍皇道派の青年将校たちは昭和維新を目指して蹶起した。参加したのは歩兵第一・第三連隊、近衛歩兵第三連隊などの精鋭約一千五百で、総理大臣官邸、大蔵大臣官邸、陸軍大臣官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁、政府関係者の私邸などを占拠した。山王ホテルが接収されたのは、反乱軍の司令部とするためで、対峙(たいじ)が長引いた際に交代制で休みを取るという目的もあった。
 反乱の趣旨は、元老、大臣、財閥、政党、軍首脳部らが結託して私利私欲に走り、天皇の判断を曇(くも)らせていることで、これらの奸臣軍賊(かんしんぐんぞく)を取り除き、昭和維新を断行し、天皇統帥を絶対とする国体を築くことにあった。
陸軍軍人でも、「奸臣軍賊」の汚名を着せられた者が数名いた。その中に石原も入っているというのだ。
「私を人質にすれば、石原大佐が譲歩してくると思ったのですね」
「まあ、そういうことです」
「あの方はマキャベリストだ。いざとなれば『お国のため』という大義を持ち出し、私なんて切り捨てますよ」
 山本が困惑する。
「私には分かりませんが、上からの指示なので拘束させていただきました」
 おそらく山本の報告を聞いた大尉か中尉が、「とりあえず確保しておけ」とでも命じたのだろう。
「だいいち、こんなことがうまくいくと思っているのですか」
「うまくいきます。現に陸軍省や参謀本部を中心にした三宅坂一帯を制圧しています」
「それは奇襲が成功しただけです。各地にいる軍隊が駆けつけてくれば、瞬く間にも揉み潰されてしまいますよ。海軍だって黙ってはいないでしょう」
 この時、海軍は陸軍が何と言おうが「断固鎮圧」の方針だった。というのも襲撃された岡田啓介(おかだけいすけ)首相(当初は死亡したと思われていた)、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)侍従長、斎藤実(さいとうまこと)内大臣の三人の天皇側近は、いずれも政治家に転じる前は海軍大将だったからだ。これは全くの偶然だったが、海軍としては、この反乱は海軍の政治力を奪う暴挙という捉え方をしていた。
 山本は真剣そのものだった。
「状況の厳しさは、われわれにも分かっています。しかし昭和維新の趣旨が天聴に達すれば、必ずや天皇陛下は、われらの行動を認めてくれます」
「私には分かりませんが、股肱(ここう)の重臣たちを殺された陛下が、あなた方の要求をのむとは思えません」
 ようやく食事を終えた留吉は、ナプキンで口元を拭いながら、ふと気づいた。
「私にそんな話をしに来たということは、何か依頼の筋でもあるのですか」
「実は、そうなのです」
「私に何ができるというのです」
「参謀本部の作戦課長の石原大佐が『断固鎮圧』の方針を崩さず、そのために風向きが変わりそうなのです」
 二十七日の午前まで、反乱軍にとって事態の進行は順調だった。陸軍大臣告示も戒厳(かいげん)司令官軍令も反乱軍に同情的で、クーデターは成功するかに見えた。しかし石原を中心とした参謀本部の強硬姿勢が次第に陸軍内部に広がり、「皇軍相討つ」ことさえ辞さない雰囲気が醸成されつつあった。
「まさか、私に石原大佐を説得しろとでも言うのですか」
「まことにもって心苦しいのですが、以前から石原大佐は、われら皇道派を目の敵にしており、全く対話のルートがないのです。そのため、われわれが『お会いしたい』と申し上げても、『会う必要なし』の一点張りなのです」
「待って下さい。私は一民間人です」
「それは分かっています。それでも石原大佐に、『維新を断行すること、これがため建国の精神を明徴にし、国民生活を安定せしめる』という、われわれの蹶起の意図をお伝えいただきたいのです」
 実は、石原を動かしたところでどうにもならない事態が進行していた。つまり天皇の怒りが凄まじく、近衛師団を自ら率いて討伐するとまで言っていた。そのため驚いた重臣たちは、枢密院(すうみついん)会議を夜中に開き、二十七日の早朝、戒厳令施行が決定されていた。
「意図をお伝えすることならできますが――」
「もちろん『蹶起趣意書』をお持ちいただきます」
「しかし私は陸軍将校ではありません。説得まではできませんよ」
「それで結構です。まずは石原大佐に、われわれと会うことだけでも勧めていただけませんか」
「分かりました。それで、ここから出していただけるなら引き受けましょう」
それでようやく話がついた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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