夢燈籠第65回
十六
東京に戻った留吉が陸軍省に石原を訪ねたところ、石原は入院しているという。
早速、病院に電話すると、容体は安定しているので面談可能だという。それを聞いた留吉は、円タクで新宿区戸山町の東京第一陸軍病院に向かった。
「失礼します」と言って留吉がノックすると、個室の中から「誰だ」という声が聞こえた。
「満州で石油を掘っている軍属の坂田です」
「ああ、君か。入りたまえ」
病室に入ると、浴衣姿の石原はベッドに横たわり、新聞を読んでいた。その顔色を見ると普段とさほど変わらず、病が深刻なものではないと分かった。
花束と虎屋の芋羊羹(いもようかん)を石原の傍らに置くと、石原が相好を崩した。
「俺が甘党で、そいつが好物だと覚えていたのか」
「はい。もちろんです」
石原は酒が飲めないからか、甘いものに目がない。山本五十六(いそろく)も全く同じなので、同時代を生きる陸・海軍のキーマン二人が、奇(く)しくも下戸(げこ)で甘党ということになる。
「石原さんは、どこが悪いのですか。まさか――」
「仮病とでも言いたいのか」
石原が高笑いする。
「いえ、ここでは仮病は通じないと聞いていますから」
陸軍病院は主に陸軍軍人のための病院だが、それもあってか、検査してたいしたことがないと、追い出されると聞いたことがある。
「実は血尿が出たんだ。以前から膀胱(ぼうこう)内に乳頭腫ができやすい体質でね。今回もそれのようだ」
「そうだったんですね。深刻な病でなくて安心しました」
「ありがとう。だが予断は許さない」
後にその心配はあたり、石原は膀胱癌(がん)で死去することになる。
「それで今日は、お願いがあって参りました」
「東崗営子で原油の鉱脈にぶち当たったんだってな」
「よくご存じで」
すでに石原は、その話を聞き及んでいた。
「俺は陸軍の石原だよ。陸軍がかかわっていることなら、誰よりも早耳だ」
「そうでしたね」
石原が留吉の持ってきた花束を弄びつつ言う。
「だがな、その陸軍のすべてに、俺の力が及ぶわけではない」
「どうやら、そのようですね」
「知っての通り、上等兵がこそこそ動いているようだ」
上等兵とは東條英機のことだ。この頃、東條は陸軍大臣の板垣征四郎の下で陸軍次官を務めていた。
「だからといって東崗営子の石油は、国家の利益に直結することです。いかに東條さんとて、無視することはできないでしょう」
「それはそうだ。しかしな、世の中には大局に立てない人間がいる。その典型が東條というわけだ」
「やはり、陸軍内の駆け引きは続いているのですね」
石原が傍らの急須に手を伸ばそうとしたので、留吉が代わりにお茶を淹(い)れてやった。
「まあ、俺の負けだろうがね」
茶をすすりながら石原が笑う。
「勝敗はどうでもよいのです。それより東崗営子の石油は国家に資するところ大です。これで南方へ進出する必要もなくなりました 」
「それは違う。これで俺が正しかったことが証明されれば、東條の立場はどうなる」
「待って下さい。いくら大局観のない東條さんとはいえ、陸軍次官ですよ。自分の立場よりも、国家の存亡を重視するでしょう」
「分かっていないな」
石原が顎で虎屋の芋羊羹を切るように指示したので、留吉はいくつか切ると、楊枝(ようじ)に差して手渡した。
「うまい」と言って石原が茶と共に芋羊羹を飲み下す。
「いいか。満州で石油が出たことで、俺と東條の立場は逆転するかもしれない。だが東條が南方進出をやめるとなると、奴の出世はここまでだ」
「待って下さい。そこまで腐っているのですか」
「残念だが、そこまで腐っている。考えてもみろ。東條が陸軍大臣の座を占めれば、奴の取り巻きも出世する。だから奴らは何としても南方に進出したいのだ」
石原が不快そうに眉根を寄せる。
「しかし、目の前にある原油を、あたら無駄にするのですか」
「君も知っての通り、原油を精製して石油にする施設、いわゆる製油所がなければ役に立たない。それを造るには、どれくらいの期間がかかる」
「松沢教授の計画書によると、二年から遅くとも二年半です」
「で、費用は」
「ざっと五十億円です」
「そこだよ」
石原が再び茶をすすると続けた。
「君も知っての通り、日本は製油所ごと石油がほしいんだ」
「ということは、やはり南方の油田地帯を押さえに行くのですね」
「東條は、そのつもりだろうね」
「しかし、そんなことをすれば英米蘭仏豪は一斉に制裁措置を取ります。下手(へた)をすると戦争になります」
「それは東條も承知さ。だが東條は、世界を相手に戦争になっても構わないと思っている」
留吉は石原の言葉が信じられない。
「そんな馬鹿な。日独伊三国防共協定があるにしても、その他の列強を相手にしたら勝てるはずがありません」
昭和八年(一九三三)に国際連盟を脱退した日本は、国際的な孤立を防ぐために、当初はドイツと二国で、その後、イタリアも加え、昭和十二年(一九三七)、日独伊三国防共協定を締結した。
「そうだよ。そうした常識が通じなくなっているのが、今の日本政府だ」
石原が無念そうにため息をつく。
「では、列強相手に戦争も辞さないということですね」
「そうだ。南方の資源地帯を製油所ごと占領すれば、勝てると踏んでいるのかもしれない」
「では、石原さんはこれからどうなるのですか」
「俺か――」
石原が虎屋の芋羊羹をもう一切れ、口に放り込むと言った。
「陸軍軍人の俺は店じまいさ。病が癒えたら、どこかに左遷されるだろう。そこから東條の手並みを拝見させてもらう。そしてそのうち予備役に編入されて消えていく」
「しかし石原さんの見込み通りだった東崗営子石油は、どうするのです」
「おそらく閉鎖だろうな。しかしこれも運命だ。仏様は日本に鉄槌(てっつい)を下そうとしているに違いない」
石原は熱心な日蓮(にちれん)宗信者だ。
「石原さんは、それでよいのですか」
「俺のキャリアのことを言っているのか」
「そうです。これで予備役に編入されれば、残る人生をどうするのです」
「心配してくれてありがとう。だが俺にも退役後の構想はある」
「失礼しました」
「いずれ教えてやろう。そうだ、俺の仕事を手伝わないか」
留吉は笑みを浮かべて首を左右に振った。
「私にも進みたい道があります」
そんな道などないのだが、留吉は運命に従うのではなく、これからは運命に抗(あらが)う、ないしは運命を操ってやろうと思っていた。ここで石原の秘書のような立場に就いてしまえば、運命に従うことになる。
「そうか。どうやら俺は君を見くびっていたようだな」
石原が留吉の言葉を肯定するようにうなずく。
「俺が、いつまで陸軍にいられるかは分からない。君はよく働いてくれた。せめて俺の顔が利くうちに、何か依頼があれば言ってくれ」
「日本石油への就職とかですか」
「そういうことだ」
「それは結構です。私は一人でやっていきます」
「そうか、分かった。でも何か望みがあれば、遠慮はするな」
「ありがとうございます」
一礼して石原の病室を出ると、今後のことが思いやられた。
――「東崗営子採掘試験場」が閉鎖されることにでもなれば、皆はがっかりするだろうな。
とくに松沢の落胆は想像を絶するものになるだろう。
――こうなったら開き直るしかない。
留吉は覚悟を決めた。
この直後に行われた重慶(じゅうけい)爆撃の制裁措置として、アメリカはさらに厳しい制裁を日本に課してくる。同年十二月、航空用ガソリンの製造設備を禁輸したことを皮切りに、昭和十六年(一九四一)八月の石油の全面禁輸まで、日本の困る様々な資源を禁輸し、日本の体力を奪おうとしてきた。
当時の日本の石油海外依存度は九十二パーセント、アメリカからの輸入が八十一パーセントに上った。つまり日本の石油輸入量の四分の三は、アメリカに依存していたのだ。しかもアメリカは日本の七百四十倍の原油を生産していた。また石油製品の精製能力でも五十二倍の開きがあった。それだけでなく高性能ガソリンのオクタン価でも日米には開きがあり、量だけでなく質の面でも、日本はアメリカに後れを取っていた。そのほかにも無資源国の日本は、重要物資の大半を海外に依存しており、制裁が続けば、日本は戦わずして白旗を掲げるしかなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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