夢燈籠第55回
六
山王ホテルの周囲はバリケードが張りめぐらされていた。山本にそこまで送ってもらい、バリケードの外に出ると、鎮圧軍の銃口が一斉に向けられた。雪の積もった中、両手を挙げ、「民間人です!」と声を張り上げつつ、覚束ない足取りで鎮圧軍の陣内に入ると、まず荒々しく身体検査をされた。
「貴殿は何者か!」と誰何(すいか)されたので、身分を明かし、解放された趣旨を説明すると、すぐに車に乗せられ、九段会館に連れていかれた。どうやらそこが戒厳司令部らしい。
広い会議室のようなところに案内されると、石原が地図を広げ、部下に次々と指示を飛ばしていた。それが一段落すると、石原が相好を崩した。
「坂田君か。たいへんな目に遭ったな」
「たいへんどころではありませんよ」
「山王ホテルで囚われの身となったと聞いた時は、悪いことをしたと思ったよ。本来なら帝国ホテルに泊まってもらうところを、経費節減の煽(あお)りで山王ホテルにしたからな」
「どうなることかとひやひやしました」
しばらく情勢を歓談した後、留吉が「蹶起趣意書」を提出した。
「それは受け取れない」
「私は構いませんが、なぜですか」
「あいつらと会わないのと同じことだ。これを読めば、あいつらの話を無視できなくなる。しかし読まなければ、粛々(しゅくしゅく)と鎮圧に取り組める」
留吉には、その理屈はよく分からないが、軍隊とはそういうものなのだろうと、自らを納得させた。
「それでは『断固鎮圧』の方針は変わりませんね」
「変わらない。だいいち陛下御自身が『断固鎮圧』を唱えていらっしゃる」
それには誰も逆らえない。
「せめて青年将校たちに会い、話を聞いてもらえませんか」
「今は駄目だ。投降すると決め、武装解除したら会うと伝えてくれ」
石原は取り付く島もなかった。
「分かりました。では、これで失礼します」
「どこに行く」
「山王ホテルです」
石原が意外な顔をする。
「行けば、また拘束されるかもしれないぞ」
「彼らが私を拘束したのは、石原大佐とつながりがあったからです。石原大佐の意志が揺るぎないことを伝えれば、納得するはずです」
「そうか――」と言って、石原が煙草(タバコ)を出して吸い始めた。
「では、投降を促してもらえないか」
「私がですか」
「そうだ。実は今朝、戒厳令の施行が決定され、奉勅(ほうちょく)命令が下達された。もはやあいつらに勝ち目はない。それを伝えてほしいのだ」
「ほかに適任者がいるのでは――」
「皆、あいつらに同情的だ。少しでも甘い顔を見せれば、そこに希望を見出(みいだ)し、奴(やつ)らは一歩も引かないだろう。ここは断固たる態度で投降を促さねばならん」
留吉は正直困惑していた。
「待って下さい。私のような民間人が断固たる態度で投降を命じれば、逆効果ではないでしょうか」
「そんなことはない。とにかく妥協の余地がないことを伝えるのだ」
留吉がため息をつく。
「分かりました。やってみます。しかし結果に責任は負いませんよ」
「もちろんだ」
それで話し合いは終わった。
九段会館を出た留吉は、石原が手配した車に乗って山王ホテルに戻った。
すでに夕方になっていたが、出た時に比べ、山王ホテルには、緊張が漲(みなぎ)っていた。
「山本少尉」
ロビーにいた山本を呼び止めると、留吉は手短に石原からの投降命令を伝えた。
「やはりだめでしたか」
「残念ながら陛下もお怒りです。この場は矛(ほこ)を収めて下さい」
「陛下のお怒りは別の方面からも聞きました。どうやら潮時のようですね」
山本が肩を落とす。
「元気を出して下さい。軍法会議で主義主張を堂々と述べればよいではありませんか」
山本が唇を嚙み締めながら言う。
「われわれは吉田松陰先生の『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』という言葉を信奉し、蹶起しました。しかし昭和維新は実現しませんでした」
「その心意気は誰もが分かっています。しかし陛下の大命には服さねばなりません」
「仰せの通りです。もはやわれらに残された手立てはありません。後は皇国の前途を案ずるのみ」
山本は敬礼すると、留吉に背を向けた。おそらく指揮官や仲間に、石原の意思を伝えに行くのだろう。
――これでよかったのか。
しかし民間人の留吉には、これ以上のことはできない。
留吉は去り行く山本の背に、慣れない動作で敬礼した。
自室の荷物をまとめた留吉は、山王ホテルを出てバリケードに向かった。誰にも咎(とが)められず外に出られた留吉は、そのまま鎮圧部隊に保護された。
この後、ぎりぎりの交渉が続けられたが、石原の「断固鎮圧」の方針は変わらず、戒厳司令部は「攻撃開始は二十九日の九時」と決定した。
一方、反乱軍も決戦の覚悟を決めて、閑院宮邸(かんいんのみや)、陸軍省、参謀本部、首相官邸、山王ホテルなどに兵を集中した。しかし皇軍相討つ愚だけは犯すことができず、しばしの猶予をもらった後の同日午後二時、降伏を決意し、二・二六事件は、ようやく終わりを迎える。
偶然とはいえ、留吉は事件の渦中に放り込まれ、その解決に少なからぬ貢献をした。これにより石原からの信頼は、さらに厚いものになっていった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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