夢燈籠第57回
八
七月、石原が来満するというので、呼び出しを受けた留吉は新京に向かった。
かつて放牧地にすぎなかった新京は、今では人口三十万の都市に成長していた。将来的には三百万都市を目指しているので、ようやく十分の一に達した程度だが、それでも様々な物を売る店が立ち並び、人の行き来は多くなり、自動車の数も目立って増えている。
まだ日本人は少ないが、満州人、中国人、ロシア人と思(おぼ)しき人々が、新たな可能性を求めて新京に集まってきていた。というのも新京は満鉄のみならず、ロシアの東清(とうしん)鉄道と中国の吉長(きっちょう)鉄道も乗り入れており、国際都市の観を呈し始めていたからだ。
新京の関東軍司令部は城郭建築を模した佇(たたず)まいだからか、ひときわ目立っていた。自動車で乗りつけると、かつて訪れた時とは比較にならないほどの数の将兵が出たり入ったりしていた。
受付で名乗ると、当番兵が石原の部屋まで案内してくれた。
互いに時候の挨拶を済ませると、早速、石原が切り出した。
「その節はたいへんだったな」
「二・二六事件の時のことですね。あれで『皇軍相討つ』ことになったら、私の命だってどうなっていたか分かりません」
「しかし君の働きによって、奴らは旗を降ろした」
それが留吉だけの働きではないのは明らかだが、石原との間で双方の橋渡し役を果たしたことは、今でも留吉の誇りになっている。
「私などは、たいした働きはしていませんが、東京が戦禍をこうむらずに済んだのは幸いでした」
「その通りだ。われらの敵は外にいる」
「できれば敵など作りたくはないのですがね」
留吉は平和主義者というわけではないが、軍人ではないので、何事も仕事が円滑に進むことを好む。それゆえ戦争だけは避けたい。
「尤(もっとも)もなことだ。われわれは戦争をしないために軍備を増強し、十分な資源を持とうとしている」
「果たして列強と戦える軍備を持ち、継戦能力を保証する資源を持つことが、平和を維持できることにつながるのでしょうか」
石原が膝を叩く。
「その通りだ。人は武器を持てば使いたくなる。だが、それを使わないようにしていくのも軍人の役割だ」
「それを石原大佐ならできると――」
「それは俺の地位次第だ」
――となれば危険なのは間違いない。
満州事変の原因を作ったのは石原だが、石原によれば、それは満州に限られたことで、ほかの地域で、列強や中国と戦う愚だけは犯さないことが肝要だという。いわば陸軍内では鳩派になる。何事も強硬姿勢が好まれる風潮なので、石原の立場は危ういものになっていた。
「ということは、石原さんの地位を盤石(ばんじゃく)にするためにも、石油を掘り当てねばなりませんね」
「そう言ってくれると助かる。それでジャライノールは相変わらずか」
「残念ながら、まだ確実な油兆はありません。しかし松沢教授は有望だと言い張り、満州石油の連中と対立しています」
「だろうな。日石から来た連中は早く帰国したがるので困る。奴らには国家の危機というものが分かっていない」
それは事実だった。油田を探す理由は、彼らにも分かっているはずだ。しかしそれが国家の死命を決することと結び付かないので、必死さが足りないと留吉も感じていた。
「それで松沢さんの言うことは本当なのか」
「私は専門家ではないので、何とも言えません」
「だろうな」と言いつつ、石原が煙草を吸い始める。
「この前は、ジャライノールは年内までと言ったが、九月いっぱいでチームを阜新に移したい」
「えっ、期限を前倒しするのですか」
「そうだ。われわれには時間がない」
英米との関係が緊張を孕(はら)んだものになりつつあるのは、留吉にも分かる。石原はそれを言いたいのだろう。
「松沢教授には何と言うのですか」
石原が苦い顔をする。
「それは君の仕事だ。下手(へた)に『軍の命令です』などと言えばへそを曲げる。阜新でも前向きに働いてもらわねばならない人だ。何とかうまく言いくるめてくれ」
「また私が説得ですか」
石原が高笑いする。
「青年将校を説得するよりましだろう」
「それはそうですが――」
「阜新はかなり有望だ。今なら東大の連中も来ていない。来てからでは手柄を横取りされるとでも言っておけ」
松沢は京都大の教授なので、東大の教授たちにはライバル心がある。
「そうですね。今なら阜新は松沢さんの縄張りですからね」
「そこを強調してジャライノールを見切らせるのがよい。満州石油の日本人たちも、奉天や大連に近いところであれば、やる気を出してくれるだろう」
「そうですね。あの連中は喜ぶと思います」
「よし、それで行こう。ジャライノールのチームは九月末には阜新に移動してもらう。十月から三カ月は準備期間だ。君らは三カ月の休暇を内地で満喫し、正月明けから阜新で本格的調査の開始だ」
「分かりました」と言って席を立つと、石原が心配そうに問うてきた。
「山王ホテルは閉まったままだ。滞在は帝国ホテルでいいか」
「これからは、しばしば帰国することもあるので、どこかにアパートを借ります」
「それでよいのか。陸軍用の宿舎もあるが――」
「いや、それは結構です。私は一民間人です」
「そうか。では、家賃の分くらいは給金を上げてやる」
「それは助かります」
煙草を揉み消した石原は立ち上がると、一言だけ言った。
「俺の身とて安泰ではない。いつ何時(なんどき)、計画が打ち切られても食べていけるようにしておけ」
「どういう意味です」
石原が真顔で言った。
「俺は今まで自分の才覚なら、出世は思いのままだと思ってきた。だが仕事に才覚を使っている間に、政治工作ばかりやっている輩に足をすくわれることにもなりかねん」
「つまり政治的な駆け引きで劣勢にあるのですか」
「まあな。二・二六事件で青年将校たちが銃殺刑となった。自業自得だが、俺が銃殺刑を勧めたなどという噂を流布し、俺の失脚を狙っている輩がいる」
三権分立で司法は独立しているので、石原が裁判官たちに銃殺刑を勧めることなどできない。しかし噂を流せば、信じる者もいるのが世の中なのだ。
「輩とは、もしかするとあの方ですか」
「そうさ。東条上等兵だ」
石原が高笑いする。石原は東条のことを「上等兵」と呼んでいた。石原は常々、「東条さんは上等兵なら務まるな」と言っていた。だが有能な者の常で、無能者の政治力を侮り、次第に味方を失いつつあった。しかも二・二六事件での「断固鎮圧」方針に批判的な軍人は多く、裁判によって青年将校たちが死刑にされるに及び、その怒りと恨みは石原に向けられるようになった。
「石原さん、頼みますよ」
「ああ、何とかするしかない。俺が失脚すれば、満州での油田採掘は水泡に帰す。一方の東条はしきりに南方の油田を狙っている。それだって国家のためというより、俺の顔を潰すためだ」
確かに南方の油田は魅力だが、それに手を出すことは英米仏を怒らせることにつながり、それが英米仏との戦争を誘発しかねない。それだけは何としても阻止してもらわねばならない。
石原が留吉の肩に手を置く。
「松沢さんはのめり込むタイプだ。一方の満州石油の連中はやる気がない。だが油田の採掘には、双方の力が必要だ。君がかすがいの役割を果たしてくれ」
「分かりました。できる限りのことはやらせてもらいます」
「頼りにしているぞ」
石原が寂しげな笑みを浮かべた。
その後、九月まで粘ったがジャライノールでの油兆はわずかだった。地下六百から七百メートルには膨大な原油が眠っているのかもしれないが、それを汲み出して運ぶとなると、コスト割れする可能性が高かった。
九月末という期限を与えられた松沢は、必死に探索を行ったが、遂に白旗を上げた。これにより人材と設備は阜新に回されることになった。
留吉は松沢を励ますようにして満鉄に乗せたが、松沢は酒を飲んでは何事か呟いているばかりだった。ジャライノールの放棄は、松沢自身の信用を失うことにつながっていたからだろう。
十月初旬、大連でジャライノールの採掘チームは、いったん解散となった。年明けの再会を約して、留吉は皆を見送った。留吉だけが残ったのは、正月明けに阜新に滞在するための物資の調達などの仕事があったからだ。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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