夢燈籠第39回

 昭和八年は、世界でも不穏な動きが相次いでいた。一月にはヒトラーがドイツの首相に就任し、事実上ナチスの独裁政権が樹立される。二月にはプロレタリア作家の小林多喜二(こばやしたきじ)が、築地署で拷問の末に殺された。
 また軍部の暴走も過熱し、関東軍が中国大陸の熱河(ねっか)省に侵攻したことで、リットン調査団が満州に派遣され、リットン報告書をまとめる。これは日本に全く不利な報告となり、国際連盟が対日満州撤退勧告案を可決する。しかし松岡洋右(まつおかようすけ)代表は国際連盟への決別を宣言し、その場から退場した。そして三月には、日本が国際連盟から正式に脱退する。同年十月にはドイツも脱退し、両国は国際社会から孤立の道を歩み始める。
 留吉は満州にも行ったことがあり、石原莞爾(いしはらかんじ)とも知己ということで、帝都日日新聞の陸軍省担当となり、連日陸軍省に行き、関係者から今後の方策など、様々な話を聞こうとしたが、どれも機密扱いとのことで、特ダネ記事を得るのは容易なことではなかった。
 留吉が仕事をしていると、文化部長の草野心平(くさのしんぺい)が、珍しく留吉の所属する政治部に顔を出した。
「草野部長」と声を掛けると、草野は「ああ、新人さんか」と応じた。
 留吉が近づいていくと、草野が「何か用かね」と問うてきた。
「中原中也という詩人をご存じですか」
 草野の顔がほころぶ。
「ご存じも何も友人だよ」
「えっ、それは本当ですか」
「ああ、ごく親しい友だ。その中原がどうした」
 留吉が先日の顚(てんまつ)末を語る。
「そうだったのか。翌日は来なかったか」
「とくに来た形跡はなかったですね」
 来たかもしれないが、留吉も帰宅は八時を過ぎるので、不在なので帰ったのかもしれない。
「君が文学に詳しくないと知り、興味をなくしたのかもしれない」
「それはあり得ますね。で、その中原というのは、たいした詩人なんですか」
 草野が苦笑しながら言う。
「僕など足元にも及ばない天才だよ」
「ええっ、それは本当ですか」
 草野は詩人として一家を成していた。それが天才だと言うのだから尋常ではない。
「まあ、詩というものに優劣はない。だが、文字だけで人の心を打つのは容易ではない」
「もちろんです。草野さんの詩も素晴らしいと思います」
 留吉は草野の詩を読んだことがある。
「ありがとう。だが天才と職人の違いは明白だ。天才は誰の真似でもない言葉が溢れ出てくる。『朝の歌』を知っているか」
「知りません」
 留吉がそう答えると、草野は朗々と吟じた。

天井に 朱(あか)きいろで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
 空は今日 はなだ色らし
倦(うと)んじてし 人のこころを
 諫(いさ)めする なにものもなし

樹脂の香に朝は悩まし
 うしなひし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空
 土手づたひ 消えてゆくかな
うつくしき さまざまの夢

 留吉が息をのむ。
「確かにイメージが広がりますね」
「そうだ。天才にとって言葉など意味をなさない。中原は『天井に』の後を一字空けているる。その理由が分かるか」
「分かりません」
「彼は時間の経過を表したかったんだ。つまり朝目覚めて、ぼんやり天井を見つめていると、次第に覚醒してきた。すると窓のカーテンか木製の雨戸の隙間から、天井に『朱きいろ』の光が差しているのに気づいた。それを見て美しいなと思っていると、昔の軍楽が頭の中で聞こえてきた。おそらく本格的なものではなく、子供の頃に聞いた薬売りのラッパが奏でるような、調子っ外れのものだろう。そうしていると、自分に視点が向かう。『今の私には手にするものが何もない』、つまり今日一日することは何もないということだろう」
 その後、草野は第二連以下の詩の解釈も教えてくれた。
「詩というのは面白いものですね」
「そうさ。詩の面白さを詩人だけのものとしておくのは、実にもったいない。君も書いたらどうだ」
「私なんて――」
「いやいや、詩なんてものはたいそうなものじゃない。自分の心の内を吐露するだけだ。私は中原の私家版の詩集をいくつか持っているので、一冊進呈しよう」
「私なんかに――」
「構わないよ。何冊も持っていても仕方がない。後で誰かに届けさせる」
「ありがとうございます」
 その時、誰かが草野を呼びに来た。
「おっと、こんなところで油を売っている場合じゃなかった。もうすぐ校了なんだ。そうだ、四月二十九日は中原の誕生日だ。誕生会をやるから、君も来ないか」
「だって私は一度しか会ったことがありませんし、ご迷惑ではありませんか」
 草野が大笑いする。
「それは中原を知らないからだ。一人でも多くいると、あいつは喜ぶ」
「分かりました。よろしくお願いします」
「よし、では四月二十九日は一緒に退社しよう」
 草野はそう言うと、政治部から去っていった。
 翌日、草野から詩集が届けられた。留吉は中原の詩集『山羊の歌』を貪るように何度も読み、その溢れるような感情の奔流に圧倒された。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー