夢燈籠第53回

 すべてを引き払って日本を後にしたため、帰国してもホテルに泊まるしかない。それで安ホテルを探そうと思ったが、その前に石原に帰国報告しようと、参謀本部に電話すると、石原の秘書がホテルを手配してくれた。場所は山王ホテルで、来年の二月いっぱいまで予約してくれた。
 石原の許に行くと言ったが、石原は多忙なので、正月明けまで会えないという。そのため年末から年始にかけて暇を持て余すことになった。国会図書館も年末年始は閉まっているので、鉱物や地層について学ぶことができない。「神田の古本屋でも回ってみるか」と思ったが、たいていの古本屋は図書館同様、年末年始は閉まっている。
 ――こいつは参ったな。
 そんな次第なので、年末から正月にかけて、ホテルで寝て暮らすことにしたが、ほとんどの知人に自分の所在を知らせていないので、何か連絡が入っているかもしれない。それで前にいた帝都日日新聞に電話を入れてみると、郵便物がたくさん来ているという。それで頭を下げて送ってもらうことにした。
 二日後、その小包が届いたので開けてみると、中に小さな絵葉書があった。
 ――岩井(いわい)からか。
 それは中学・高校時代の親友の岩井壮司(そうじ)からのものだった。
 ――久々に会わないか、だと。
 電話番号が書かれていたので勤務先に電話してみると、すぐに岩井が出た。
 昭和十一年(一九三六)の正月が明けた十四日、二人は新橋の「末げん」で会うことにした。

「ここの鶏鍋はうまいんだぞ」
 岩井が得意げに言う。
「それよりも、まず乾杯だ」
 二人は再会を祝して盃を掲げた。
「われわれも今年で二十九か」
「時の流れは速いものだな」
「こうして年を取っていくんだな」
 二人はしんみりしてしまった。
「それで岩井、仕事の方はどうだ」
「ぼちぼちだよ。弁護士の資格は取れたものの、師匠の事務所を出たら食べていけない」
 岩井は金井啓二(かないけいじ)法律事務所というところに勤めており、金井のことを師匠と呼んでいた。
「そうか。士族もたいへんなんだな」
 士族とは旧来のものではなく、弁護士や税理士といった資格を持つ者のことを言う。
「そんなお前はどうだ」
 留吉が近況を語る。
「おいおい、中原中也と知り合いなのか」
「そうなんだ。でも、よく中原を知っているな。あいつは無名の詩人じゃないのか」
 どうやら岩井は、大陸や油田発掘よりも中原に興味があるようだ。
「何を言っている。文壇注目の新進気鋭の詩人じゃないか」
 詩集『山羊(やぎ)の歌』が大好評だった中原は、この頃から「文学界」や「四季」といった文壇の有力誌に詩を発表し始めているという。
 ――そうか。中原もいよいよ表舞台に登場か。
 中原の得意げな顔が目に浮かぶ。
「草野さんも、『いつか中原は世に出る』と言っていた」
 前菜をつまみながら留吉が言うと、岩井が息をのむような顔をした。
「草野さんて、草野心平か」
「そうだよ。前の新聞社で一緒だったんだ」
「お前の文壇人脈は凄いものだな」
「自分から探した人脈ではない。中原は家に転がり込んできただけだし、草野さんは入った新聞社にいただけだ」
「それでも凄いな。とくに中原と飲み友だちというのには驚いた」
 岩井によると、昨年すなわち昭和十年の中原の活躍は目覚ましく、とくに『山羊の歌』は、文壇を震撼(しんかん)させたと言っても過言ではないという。
「よせやい。中原はただのわがまま坊主だ」
 留吉には、長谷川泰子の絡んだ苦い思い出がある。
「元来、詩人というのはそういうものだ。詩人が社会生活に適応し、にこにこ笑って生きていてどうする」
「草野さんは、そんな感じだけどな」
「それは新聞社に勤めているからだろう」
「草野さんの詩を読んだことはあるのか」
「ない」
「俺もだ」
 二人は笑い合った。
 その時、鶏鍋が運ばれてきたので、岩井が蘊蓄を述べた。
「ここの鶏ガラスープは門外不出の秘伝だそうだ」
「おう、これは確かにうまいな」
「中華料理ばかり食べている胃には、こうしたものがありがたいだろう」
「本当にそうだな」
 大陸でも中華料理ばかり食べていたわけではないが、内地にいると、そういう印象なのだろう。
「それで坂田は、石原さんとも親しいんだって」
「そうだよ。あの方は、これからの陸軍を背負って立つ立派な人物だ」
「よからぬ噂も聞くがな」
「どんな噂だ。まさか芸者と――」
「あの人は、そっちの方はしっかりしている。よからぬ噂というのは、陸軍での確執さ」
「何を言っているんだ。昨年の八月に作戦本部の作戦課長になったばかりだぞ。作戦課長といえば、陸軍の花形ではないか」
 石原の地位が揺らいでいるなどという話を、留吉は知らなかった。
「それはそうなんだが、石原さんの四期上に東條英機(とうじょうひでき)というのがいてね。板垣征四郎中将が中心になって組織した一夕会(いっせきかい)で、石原さんと一緒なのだが、去年の会合で派手にやったらしい」
 一夕会とは、佐官級の若手幕僚将校らによる非公式組織で、陸軍士官学校の十四期生から二十五期生を中心に結成されていた。板垣は十六期、東條は十七期、石原は二十一期になる。
「四期も上の人と喧嘩したのか。石原さんらしいな」
「そうなんだ。一夕会は満蒙問題をどうするかを話し合う集まりなので、いつも酒を飲んで激論を戦わせているらしい。石原さんは板垣さんに可愛がられているだろう。それでつい東條さんを批判したらしいのだ。軍隊というのは上下関係が厳しい。それで『表に出ろ!』となったんだが、腕力は明らかに石原さんの方が上だ。東條さんが殴ろうとしたら、その腕を取って背後に回してしまったんだ」
「何だって。あの人はそんなことをしたのか」
「それでその場にいた板垣さんも激怒し、石原さんを内地に呼び戻したらしい」
 板垣としては、東條に一発殴らせて仲直りさせるつもりだったのだろう。ところが石原は甘くはない。殴らせるどころか、上官の腕を締め上げたのだ。
 ――満州で会った時、石原さんはそんなことを一言も漏らさなかった。
 それだけ石原にとっては些細なことだったのだ。
「そうか。それで石原さんは内地に戻されたんだな」
「そういうことだ。八月に石原さんが戻されると、翌月には、東條さんが関東軍憲兵司令官兼関東局警務部長に就任した」
 ――つまり東條なる人物が、満州の治安を牛耳ることになるわけか。
 それが何らかの形で資源問題に暗い影を落とさねばよいと思った。
「頭の痛い話だな」
「それで昨年、石原さんが満州に行った時、東条さんは『もう君は満州に関与するな』と告げたらしい」
「そんなことまで言ったのか」
 満州では、石原が王も同然だった。その地位を奪われて、石原も「しまった」と思ったかもしれない。それでも石原は、平然と石油の採掘を策しているのだ。
「ああ、言ったと聞いた。四期も上の上官に喧嘩を売るんだから、石原さんも大したものだ。しかしお前の仕事は、どうなるか分からんぞ」
「だろうな。予算がもらえなければおしまいだ」
「まあ、せいぜい頑張れ」
「ありがとうよ。だが、なんでお前がそんなことを知っているんだ」
「うちの師匠は諸方面に顔が広くてね。板垣さんとも親しいらしく、たまに飲んでいるらしい」
「そういうことか。それならお前も陸軍人脈が築けるな」
「ああ、今は師匠の鞄持ちだが、せいぜい諸方面に人脈を増やしていくさ」
 岩井らしく、どこに行ってもしたたかに生きているのが、留吉には頼もしかった。
「で、岩井、結婚はまだか」
「そっちの方は、とんと話が来ないな」
「俺もだ」 
 二人は再び盃を掲げて笑った。

 店を出ると、ハイヤーらしき自動車が待っていた。誰か偉い人が来ているのかと思いきや、子連れの家族が出てきた。その紳士の顔を見た岩井が声を掛けた。
「平岡(ひらおか)さんじゃないですか」
「ああ、金井先生のところのお弟子さんだね」
「そうです。岩井壮司と申します」
 どうやら二人は顔見知りらしい。
「その節は助かった。先生によろしくな」
 どの節だか留吉には分からないが、金井が平岡なる人物を助けたのは確からしい。
「はい、もちろん伝えておきます」
 その時、玄関から子供が飛び出してきた。
「あっ、坊ちゃんですか」
「うん。長男の公威(きみたけ)。今日は、こいつの十一歳の誕生日でね」
 平岡が子供の頭を撫でる。
「そうでしたか。それはおめでとうございます」
「ありがとう。公威、挨拶しなさい」
「公威と申します。よろしくお願いします」
 ――随分と賢そうな少年だな。
 その黒々とした瞳には、間違いなく知性が宿っていた。
 岩井は留吉も紹介してくれたが、留吉が「軍属をやっています」と言ったからか、平岡は気にも留めていないようだった。
 平岡一家の乗るハイヤーを見送った後、二人は新橋駅まで歩いた。
「あの人は平岡梓(あずさ)さんといってね、農商務省米穀部の経理課長をやっている。東京帝大出のばりばりのエリートさ」
「そうか。子宝にも恵まれて順風満帆な人生だな」
 平岡は、公威のほかに二人の子供を連れてきていた。
「ああ、俺たちとは違う」
 岩井が夜空に向かって高笑いをした。
 後年、この時の公威が三島由紀夫と名を変え、文学史を彩ることになるとは、この時の二人は想像もしなかった。その三島が最後の晩餐(ばんさん)の場所に選んだのが新橋「末げん」で、この世の名残に食べたのが鶏鍋だった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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