夢燈籠第21回
十
連鎖街で乗合自動車を下りた米野、臼五、留吉の三人は、「扶桑仙館(ふそうせんかん)」という一流中華料理店に入り、少佐を待っていた。瞬く間に灰皿が吸い殻の山と化していく。
米野と臼五は「遅いな」などと言って腕時計を見ながら、世間話をしている。それを留吉は黙って聞いていた。
やがて一人の士官が入ってきた。
「いやー、田中少佐、お久しぶりです」
米野と臼五が立ち上がったので、慌てて留吉もそれに倣った。その時、椅子を倒してしまったので、二人からにらまれた。
「おう」と答えつつ座に着いた男は、いかにも気の強そうな面構えをしている。
「初めてなので、紹介します。こちらが新人の坂田留吉です」
臼五が留吉を紹介すると、田中が鋭い眼光を向けてきた。
「陸軍付をやらせてもらうことになりました坂田と申します」
「そうか。田中隆吉(たなかりゅうきち)だ。上海公使館付武官をやっている。いつもは上海にいるのだが、こちらにもたびたび来て、貴様らマスコミの相手をしている」
マスコミを相手にする場合、陸軍報道部が担当部署になるが、田中は上海公使館の正式任命か自称かは不明だが、マスコミ相手のスポークスマンのような立場に就いている。そもそも駐在武官という仕事は、外地で情報収集に従事するのが任務なので、行動の自由度が高い。
米野が媚(こ)びを売るように言う。
「ご多忙の中、夕食を共にしていただき、ありがとうございます」
「いいってことよ。何事も助け合いだ」
ちょうど運ばれてきた老酒(ラオチュー)を、臼五が田中の盃に注ぐ。本来なら留吉がやらねばならないのだが、緊張して気づかなかった。
共通の知人などの噂話などでしばし盛り上がった後、米野が問うた。
「少佐、ところで大陸の情勢をどう見ていますか」
「最初から核心を突いてきたな。わしから機密情報を聞き出したいのだろう」
「滅相もない。少佐の慧眼(けいがん)に満ちたお話を伺いたいだけです」
「そうだな」
老酒を飲み干すと、田中が言った。
「わしがここに来た理由は分かるだろう」
臼五が如才なく答える。
「はい。満州某重大事件の調査ですね」
露骨な表現を避けるために、関係者の間で、張作霖爆殺事件は満州某重大事件と呼ばれていた。
「その通りだ。これがなかなか難しい事案だ」
「難しいとは」
米野がすかさず問う。
「一筋縄ではいかないということだ」
「では、関東軍の一部の跳ね返りが起こした事件ではないのですか」
「君は直截だな」
田中が笑みを浮かべる。ちょうど料理が運ばれてきたので、田中が流暢な北京語で女給に何かを尋ねている。
「餃子(ぎょーざ)は、満州が発祥の地だと知っているかい」
田中がはぐらかす。
「田中少佐、真相を摑んでいらっしゃるんでしょう。教えて下さいよ」
「ははは、馬鹿言うな。そんなことを教えたら切腹もんだ。俺の腸詰でも食べたいのか」
「やめて下さいよ」
留吉を除く三人が爆笑する。
中国の腸詰とは、牛、豚、羊の肉をミンチ状にして酒や香辛料を加え、豚や羊の小腸に詰めたもののことだ。
「いずれにしても、お前らに語れることと語れないことがある」
「では、関東軍の仕業(しわざ)ということですね」
「わしの口からは何も言えん。そのうち様々なことが明らかになってくるだろう」
「どうしてですか。もう明らかなことではありませんか」
「それはどうかな」
田中はそう言うと、再び満州料理の薀蓄(うんちく)を語り始めた。
その日の接待はそれで終わった。田中を車に乗せて送り出した後、三人も別の車に乗り込んだ。
米野と臼五が別の話題で盛り上がっているので、留吉は張作霖爆殺事件に話題を振った。
「先ほどの田中少佐のお言葉ですが、どうも奥歯にものの挟まったような言い方でした。関東軍の一部将校が犯人ではないのでしょうか」
臼五が小馬鹿にしたように言う。
「この事件は、関東軍の跳ね返りが勝手にやったことだ。だが関東軍は、それを公式には認められない。政府もそんな軍を責められない。何とも情けないことだ」
「しかし先ほどの話では、そんな単純なことではないような気がしましたが」
何かピンと来たのか、米野が言う。
「そういえばそうだな。何か言いたいのだが、ぎりぎりのところで踏みとどまった感があった」
臼五が口を尖らせて問う。
「真相は明らかなはずです。ほかに何があるというのです」
「だが『そのうち様々なことが明らかになってくるだろう』と、田中少佐は言ったよな。もうすべて明らかになっているのではないのか」
「そこです」
留吉が身を乗り出すように言う。
「私は素人(しろうと)同然ですが、何か臭うんです」
臼五があきれたように言う。
「おい、お前さんは素人同然ではなくて素人なんだぞ」
「分かっています。しかし素人だからこそ、先入観を抱かずに事に当たれると思います」
「事にあたるって、お前が何をやるというのだ」
「まあ、待て」と言って米野が間に入る。
「坂田は、どうせすぐには戦力にならん。だったら田中少佐に張り付いて、何か言質(げんち)を取れたら、めっけもんじゃないか」
「しかし――」
「やらせて下さい。田中少佐に張り付き、必ず気に入られるようにします」
臼五が叱るように言う。
「おい、田中少佐は、われわれの大事な情報筋だ。機嫌を損ねるようなことをすれば、それだけで陸軍の情報が入ってこなくなるんだぞ」
だが米野は別のことを言った。
「臼五君、新人だから多少の粗相(そそう)をしても許してもらえるんじゃないかな。だいいち新人だと、田中少佐の口も緩む可能性がある」
「それはそうですが――」
「だったら坂田君にやらせてみよう」
「ぜひ、やらせて下さい」
二人が顔を見合わせた後、米野が言った。
「よし、君は田中少佐付だ。奉天でも北京でも一緒に行って、満州某重大事件の真相を摑んでこい」
「はい!」
臼五が渋々言う。
「分かりました。こいつにやらせましょう。ただ若造が田中少佐に付き合うのはたいへんですよ」
「どうたいへんなんですか」
「酒と女だよ」
二人が大笑いする。
「私は金を持っていませんが――」
「何も自腹を切れとは言っていない。些少ながらわが社の経費で落とせ。だが田中少佐は陸軍の経費を自由に使える立場だ。だから逆に奢ってもらえる」
「それは助かります」
臼五が煙草に火をつけながら言う。
「われわれだと、そうはいきませんからね」
「その通りだ。新人というのは、存外使い勝手がよいかもしれんぞ」
「それもそうですね」
米野が膝を叩くように言う。
「よし、明日からは出社に及ばずだ」
「よろしいので」
「今日は大人しく帰ったが、田中少佐は朝まで飲む。それに耐えられるな」
「もちろんです」
そうは言ったものの、朝まで付き合う自信はない。
――だが兄さんを見つけるためにはなんでもやってやる。当たって砕けろだ。
留吉は希望通りの初仕事を見事射止めた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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