夢燈籠第58回
九
いよいよ明日の便船で、留吉も帰国できることになった。
ジャライノールで成果は出なかったが、仕事をやり切った充実感から心地よい気分になっていた。内地でのアパートは岩井壮司が見つけてくれたので、帰国したらすぐにそこに入れるので一安心だ。
夕食の後、ボトルで取り寄せたブランデーを飲んでいると、ドアをノックする音が聞こえた。
ボーイが誰かからの伝言を持ってきたのだと思い、ドアを開けると、そこに立っていたのは周玉齢だった。
「君がどうしてここに――」
「ここでは、日本人を探そうと思えば簡単です」
「だろうな」
「どうして私に連絡してくれないのですか」
「まあ、座れよ」
玉齢を椅子に座らせると、もう一つのコップにブランデーを注いだ。
それを手に取った玉齢は一気に飲み干した。
「無茶はよせ」
「私のことを、どう思っているのですか」
「君のことは好きだよ。しかし私は通り過ぎていく人間だ。君を幸せにはできない」
「日本に連れていってくれないのですか」
再びブランデーを注ぐと、玉齢は一口飲んだ。さすがにそれ以上は飲めないのだろう。
「それは連れていきたいさ。でも俺の仕事は安定しておらず、君を食べさせていくことはできない」
「私も働きます。日本語ができるので貿易関係なら、仕事はいくらでもあるはずです」
「それは分かっている。だがな――」
所帯を持つことは、責任が発生する。そのため留吉は、行動の自由を束縛されることにつながると思っていた。そのため生涯一人でいるつもだった。しかも中国人の玉齢が日本で暮らすのは、容易なことではない。
「どうしてなんですか」
玉齢はその双眸に涙をためていた。
「俺は君を幸せにできない」
「幸せにできなくてもいいんです。あなたといたいだけです」
――そこまで言うのか。
その言葉が留吉の心に刺さった。
――だが駄目だ。心を鬼にしなければ。
「われわれは一緒にはなれないんだ」
「結婚してくれとは言いません。でも一緒にいたいんです」
「君は祖国にいた方が幸せになれる」
「日本に女の人がいるんですか」
長谷川泰子の面影が一瞬浮かんだが、留吉はそれを打ち消した。
「いない。それどころではなかったからね」
「では、中国人とは一緒になれないということですか」
「そんなこと言っていない!」
中国人を差別するなど考えてもいなかったので、留吉は心外だった。
「では、どうして――」
玉齢の目から遂に涙が溢れ出た。
「あの時、君を抱いたことに責任を感じている」
「そんなこと言わないで下さい。私は悔やんでいません」
「分かっている。あれは美しい思い出だ」
「どうしても駄目なんですね」
そこまで言われてしまうと、留吉とて何とも答えようがない。
「答えて下さい」
――心を鬼にすべきか。
ここで希望を持たせるようなことを言ってしまえば、最後には玉齢を苦しめることになる。だが考えてみれば、漠然と自由の身でいたいと思うだけで、玉齢と一緒になれない具体的な理由は浮かんでこない。
「結婚はできない。それでもよかったら一緒にいてくれ」
「本当ですか!」
「もちろんだ。いろいろ考えることがあったので、厳しいことを言ってしまい申し訳ない」
「いいえ、一緒にいられるだけでいいんです」
玉齢が涙をこぼす。
見かねた留吉がハンケチを渡すと、玉齢はそれで涙を拭いた。
――先に待つものが何かは分からない。だが、これも縁なのではないか。
留吉は中国と日本を結ぶ商人になってもいいと思っていた。
「さあ、涙を拭いて笑顔を見せてくれ」
「は、はい」
玉齢が宝石のような白い歯を見せる。
留吉は玉齢を立ち上がらせると、その細い体を抱いた。玉齢もしがみついてきた。
濃密な一夜が過ぎていった。
翌朝、留吉は帰国の途に就いた。また来る時は必ず知らせると玉齢に約束した。
玉齢は桟橋からいつまでも手を振っていた。
まさかそれが玉齢の姿を見る最後になるとは、この時の留吉は思ってもいなかった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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