夢燈籠第67回
十八
昭和十三年(一九三八)十一月、軍務に復帰した石原に面談を求めると、快く会ってくれた。
この面談には横田も連れてきたが、留吉は横田を廊下で待たせ、まずは一人で石原に会うことにした。
「ご快癒、おめでとうございます」
「快癒はしていないが、こんなポンコツでも、まだ使えそうだ」
石原の血色は、病院を訪問した頃よりも格段によくなっていた。
「それはよかったです。これを――」
留吉が虎屋の芋羊羹を渡すと、石原の顔に笑みが浮かんだ。
「うれしいね。当番兵を虎屋に走らせるわけにもいかないので助かる」
「そうだったんですね。では、あれ以来ですか」
「ああ、そうだ。これからは、こいつをめったに食べられなくなる」
「と、仰せになられると――」
「実は、十二月から舞鶴要塞司令官という閑職に回される」
「石原さんがですか。まさか――」
「ああ、そのまさかだ。まあ、『病人なので、しばらく養生せい』という含みもあるのだろう」
石原の顔には、第一線から退かされる寂しさが漂っていた。
「残念です」
「で、今日は何の用だ」
「実は、前回お会いした時の言葉を覚えていらっしゃいますか」
「ああ、何か依頼の筋があれば言ってくれ、というやつだな」
石原がにやりとする。
「そうです。その件で参りました」
「分かった。話してみろ」
「では、連れてきた者を呼んでもよろしいでしょうか」
「誰か連れてきたのだな。構わないから中に入れろ」
留吉が廊下に出て横田を呼ぶと、横田が転がるようにして入ってきた。
石原の前に出た横田は、過度に恐縮していた。
「横田英樹と申します。どうぞお見知りおきを」
横田は頭を下げて名刺を出すと、繊維業界や自分のことを語り始めた。語り始めてしまえば、横田から一切の緊張は失せていた。
話を聞き終わった後、石原が問う。
「要するに、坂田君は横田君と一緒に繊維問屋をやろうというのだな」
「そうです。もちろん石油の件もあきらめてはいませんが」
「なるほど、二股掛けるのか」
「そういうことになります」
「で、横田君は陸軍に繊維関連の軍需物資を納入したいのだね」
「は、はい。そうです。お安くしておきます」
石原が高笑いする。
「必ずしも安くなくてもよい。それよりも品質だ」
「尤もです。どこよりも品質のよいものを納めます」
「もちろんだ。俺の顔を潰すようなことはしないでくれよ」
二人が同時に「はっ」と答える。
「分かった。数日待ってくれ。担当者から連絡が行くようにしておく」
「ありがとうございます」
「横田君か。いくつになる」
「大正二年(一九一三)生まれの二十六歳です」
「そうか。君のような若い人が、これからの日本を背負っていくのだな」
石原が遠い目をする。石原は明治二十二年(一八八九)生まれなので、今年で五十歳になる。
留吉が励ますように言う。
「石原さんも、まだまだ若いです」
「そう言ってくれるのはうれしいが――」
その先の言葉を石原はのみ込んだ。
横田が元気よく言う。
「日本はこれから末広がりに栄えます。われわれ若者が、それを支えていきます」
「そうなればよいのだがな。で、君の夢は何だ」
「日本一の商人になることです」
石原が感心したように言う。
「日本一か。たいしたものだな」
「目指すところは大きく、と思っています」
「それはよいことだ。坂田君はどうだ」
「私は――」
留吉が言葉に詰まる。
――俺は今まで運命に流されてきた。しかしそれではいけない。これからは、自分の運命は自分で操らなくては。
「無理して言わなくてもよい」
「いえ、私は日本一大きなことがしたいです」
「そうか。大きなことか。その具体像は、まだ結んでいないのだな」
「はい。大日本帝国が世界に羽ばたくように、様々な可能性を探っていきたいと思っています」
「よし、二人とも頑張れ」
石原はドアまで二人を送ると、留吉の肩を叩きながら言った。
「いつの日か、俺の田舎(いなか)に遊びに来い」
「確か、庄内(しょうない)でしたね」
「ああ、広々とした田園風景が広がるよいところだ」
「ぜひ、行かせて下さい」
「うむ。いつの日かな――。その時、君のしたい大きなことが何か分かるだろう」
石原が遠い目をする。
「そうですね。失礼します」
石原のドアの部屋が閉まった。
その時、留吉は石原に二度と会うことがないような気がした。
この数日後、留吉の許に陸軍の購買担当から連絡が入り、打ち合わせに来るよう伝えてきた。
留吉と横田が駆けつけると、ほんの小口だが装備品の発注があった。横田は「これで陸軍に口座ができました。これを突破口としてやっていけます」と言って歓喜した。それは小さな発注だったが、横田の手腕なら、この突破口を広げていけると確信した。
その確信は当たり、横田は陸軍から次々と受注していくことになる。しかも些少(さしょう)な手違いから、大手の繊維問屋が失態を犯して陸軍を怒らせたことから、次第に大口の発注がなされるようになっていく。しかも陸軍なので金払いがよく、横田商店は瞬く間に大きくなっていった。
一方、石原はこの後、不遇をかこつことになる。昭和十四年(一九三九)八月、石原は中将に昇進し、京都十六師団長に就任するが、陸軍の中枢からは、さらに遠ざけられていった。
そして昭和十六年(一九四一)三月、遂に石原は予備役に編入された。その後、すぐに石原は立命館大学で国防学研究所所長に就任し、国防学の教鞭(きょうべん)を執ることになる。だが東條の命を受けた憲兵と特高の監視の目が厳しく、大学に圧力まで加えられてきたので、九月には故郷庄内(山形県鶴岡市)に引き揚げることになる。
その後、隠遁(いんとん)生活を送っていた石原だが、昭和十七年(一九四二)の秋、総理大臣となった東條英機から呼び出しを受け、陸軍省内で面談をする。行き詰まってきている戦局への打開策について、東條は石原の考えを聞きたかったのだ。しかし石原は「戦争は君では勝てない。このままでは、君が日本を滅ぼしてしまう。だから即刻総理大臣をやめるべきだ」と突き放した。
終戦後、極東軍事裁判の酒田特別法廷に証人として呼び出された石原は、「満州事変の中心はすべて自分であり、戦犯として連行されないのは腑(ふ)に落ちない」と言い放ち、裁判官たちを感嘆させた。その後、講演活動や「東亜連盟」という思想団体を率いて活躍するが、反民主主義的団体として弾圧されてから、表舞台に立つことはなくなる。そして戦後わずか四年の昭和二十四年(一九四九)八月十五日、肺炎と膀胱癌により、石原はこの世を去ることになる。稀代の戦略眼を持つ天才児も、病には勝てなかった。石原莞爾、享年六十。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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