夢燈籠第2回

 ぬいの様子がおかしいと思ったのは、留吉が高等小学校の二年、すなわち十二歳の頃だった。
この頃、留吉は中学校に入学すべく、懸命に勉強していた。そのためぬいの変調に気づくのが遅れたが、ぬいは体の不調を堪えていたらしいのだ。次第にぬいは、女中部屋から出てこないことが多くなり、留吉の世話は別の女中がするようになった。
これまで離れでぬいと二人で食事することが習慣になっていた留吉だったが、父の善四郎が突然「これからは皆と一緒に食事を取るように」と命じてきたので、留吉は家族と一緒に食卓を囲むことになった。これまでそうではなかったことが不自然だとは思わず、一人前と認識されたものと思い込み、留吉はうれしかった。
その後、ぬいが留吉のいる離れに顔を出すことはなくなった。さすがに不審に思い、女中に尋ねたが、誰も言葉を濁して本当のことを教えてくれない。ぬいのいる女中部屋の方に行っても、常に誰かがいて「旦那様から、ここから先へは通すなと命じられています」と言われ、先には行けなかった。
思い余って父に問うと、ぬいは肺の病だという。「治る見込みはあるのか」と問うと、新聞を広げて「敷島(しきしま)」をふかしつつ、父は「分からん」とだけ答えた。それでも留吉は一時的な病と信じ、学業に精を出していた。ところがある日、噂話の好きな女中から、ぬいの病が癒えることはないだろうという話を聞いた。
ぬいは七十五歳だと聞いていたので、寿命と思えば致し方ない一面もあったが、物心がついてから、常に留吉の傍らにあったぬいがいなくなるなど、留吉には考えられなかった。
ある深夜、離れから忍び足で母屋に向かった留吉は、女中たちが寝ている棟に入り込み、ぬいの部屋の様子をうかがった。すると薄ぼんやりと灯火がついているので、起きていると分かった。
後で思えば、この時の行動が、留吉の人生を狂わせていくのだが、この時の留吉は、ただぬいのことが心配でならなかった。
「ぬい、おるか」
「へっ、まさか坊ちゃんで」
 ぬいは一瞬驚いたようだが、かすれた声で返事をしてきた。
「ああ、そうだ。様子を見に来た」
「来てはいけません」
 ぬいの声が険しいものになる。
「どうしてだ」
「この病は――、この病は伝染するからです」
 ――なんということだ。
 ぬいが留吉を避けている理由が、これで分かった。
「構わん。行く」
「いけません」
 ぬいに会いたいという衝動が恐怖に打ち勝ち、留吉は襖(ふすま)を開けた。
「ぬい、か――」
 しばらく見ぬ間に、ぬいの姿は激変していた。かつて艶やかな髪を丸髷(まるまげ)に結っていたぬいだが、今は白髪を結もせずに垂らしていた。その顔は皺(しわ)深くなり、病み疲れたかのように生気がない。浴衣(ゆかた)の合わせから見える胸には、あばらが浮き出ていた。
「近づいてはいけません」
 上半身を起こしたぬいが白い手を出して、留吉を制止する。
 ぬいのあまりの激変ぶりに、留吉も呆気にとられ、敷居のところで止まっていた。
「これならよいだろう」
 落ち着きを取り戻した留吉は、口に手拭いを巻いた。尋常小学校の時に見た教科書か何かで、医師が伝染病を治療する時にそうしていたからだ。
 ぬいがあきらめたように言う。
「致し方ありません。襖を閉め、窓を開けて下さい」
 女中の中でも古株のぬいは、角部屋を使っていた。そのため二つの窓を開け放つと、寒気と共に潮の香りが吹き込んできた。後に知ることだが、肺結核は窓を開け放てば、結核菌の飛沫核(ひまつかく)が外に出てしまうので、空気感染することは少ない。
「横になって構わん」と留吉が言うと、ぬいは素直に従った。上半身を起こしているだけでも辛いのだろう。蒲団の傍らには痰壺(たんつぼ)らしきものが置かれ、ガーゼが幾重にも掛けてある。それを見れば、ぬいが深刻な病に罹患しているのは明らかだった。
「苦しくはないのか」
「はい。結核と診断されましたが、発見が比較的早かったので、まだひどい咳や痰の症状は出ていません」
「だが、いつかは表れるのだろう」
「はい。その時には絶対にお会いできません」
 ぬいが悲しげな顔をする。
「病は気からという。気を強く持てば必ず癒えると医者も言っていた」
「気休めは結構です。この病は治りません」
 この時代、肺結核は死病であり、ストレプトマイシンなどの効果的な薬もなかった。そのため、空気のよい場所で安静にし、栄養価の高いものを食べて療養するしかなく、治癒する者はまれだった。本来ならサナトリウムに入れた方がよいのだが、その定員にも限りがあり、抵抗力の弱い老人の場合、咳や痰が激しくなると、さほど時をおかずに死に至るため、なかなか入れてもらえなかった。
 ぬいが、しんみりとした口調で言う。
「いつかこんな日が来るとは思っていましたが、こんなに早いとは――」
「どこでもらったのだ」
「私はよく買い物に行っていましたから」
 ぬいは幼い留吉の世話をするために雇われたが、留吉が育つにしたがい手が掛からなくなったので、この頃は台所の指揮を執っていた。そのため江ノ島の漁港はもとより、鵠沼や腰越の市まで買い出しに行くことがしばしばあった。その時にもらった可能性が高い。
用がなくなれば容易に解雇される時代なのだ。それは、ぬいなりの存在意義の主張だったのだろう。
「ぬいは雑踏に身を置くことが多かったからな」
 正月や父の客が来る時など、留吉もぬいについて市に行ったことがある。
「これも神仏の決めた運命(さだめ)です。素直に受け容れねばなりません」
「しかしどうしてぬいなのだ」
 尾羽打ち枯らしたようなぬいの姿を見ていると、悲しさが込み上げてくる。
「いいえ、ぬいでよかったのです。ご家族ではなく――」
「わしは、ぬいのことをあまりに知らなかった。せめてどこの生まれで、いつから当家に来たのか教えてくれないか」
「私のことなど」と言いながら、ぬいは簡単にそれまでの人生を語ってくれた。それは留吉もおおよそ知っていることだったが、若い頃に結婚し、息子を産んだにもかかわらず、乳飲み子のうちに失ったことまでは知らなかった。
「旦那は寒川神社の社前で車力をしていたんですよ。だから勇ましい人でね。それで息子の名を勇にしました」
 ぬいが頬を朱に染め、昔を懐かしむような顔で言う。
「い、さ、む、か。よい名だな」
「はい。勇ましい子になると思っていたのですが――」
 ぬいの顔がとたんに曇る。
「辛いことを思い出させてしまい、すまなかった」
「いいんですよ。あれがあの子の運命だったのです。そのおかげで、坊ちゃんとも出会えました」
「旦那はどうしたんだい」
 ぬいが苦い笑いを浮かべる。
「車力なんて仕事は荒っぽいことこの上ありません。博奕で稼ぎをすった挙句、毎晩大酒を飲んでばかり。勇を失ったのを機に、お暇(いとま)いたしました」
「そうだったのか」
 ぬいにとって唯一の結婚は、子供の死を機に破綻したのだ。
「だから坊ちゃん、連れ添う相手は、よく吟味せねばなりませんよ」
「分かった。だがわしが連れ添う相手は、父が連れてくるだろう」
 それがこの時代の常識だった。
「そ、そうですね」
 ぬいの顔に一瞬、戸惑いの色が走る。
「何か気になることでもあるのか」
「いいえ――。でも、それをあてにしない方がよいと思います」
「どうしてだ」
「何事もそうですが、自分でよいと思った相手でないと、後で悔やむことになります」
「それはそうだが、父は常々『結婚は家と家との結び付きだ』と言っている。それゆえ――」
 ぬいが悲しげな顔で言う。
「それは慶一様と正治様のことです」
「三男のわしは自由の身ということか」
 ぬいが困ったような顔をする。
 ――何かを言おうか言うまいか迷っているのか。
「ぬい」と、明るい調子で留吉は問うた。
「何か隠しているなら言ってくれないか」
「隠すなんてとんでもない」と言いながら、ぬいは何かを真剣に考えていた。
「頼む。どうせいつかは知れることなら、ぬいの口から言ってほしいのだ」
 この時、留吉は養子に出される話が進んでいるのだと思っていた。
 ――養子なら養子で構わぬ。わしは三男なのだ。
 この時代、次男はまだしも、三男は養子に出されることが多かった。養子に出されるのは、十五歳くらいまでなので、年齢的にも、そうした話が舞い込んでいてもおかしくはない。
「でも、それはお父上から聞いていただいた方が――」
「なんだ、口止めされているのか。それなら、どのみちいつかは知れることだ」
「そうですね。その通りだと思います。しかし――」
「構わん。いつかは養子に出されると思っていた。その覚悟はできている」
 それまで天井に向けられていたぬいの顔が、留吉の方に向けられる。
「養子ではありません」
「では、何の話だ」
 ぬいの顔色が変わる。だが何かを決意したかのように一度二度とうなずくと言った。
「おそらく坊ちゃんも、いつかは知ることでしょう。しかしこの話を聞いても、決して怒ったり悲しんだりしてはいけません」
 何か尋常ならざることを聞かされると、留吉にも分かってきた。
「いったいそれは何だ。包み隠さず教えてくれ」
「実は――」

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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