夢燈籠第5回
四
大正十一年(一九二二)の新年早々、坂田家では大騒動が持ち上がっていた。
皆で食卓を囲んでいる時、突然、長兄の慶一が陸軍士官学校を受験したいと言い出したのだ。これに父の善四郎は激怒した。祖父から善四郎が引き継いだ事業を慶一に継がせたいと思っていたからだ。
最後は「出ていけ!」「出ていきます」という岩井家と同じようなやりとりになったが、翌日、母のいさから急を聞いてやってきた母の弟で予備役海軍大尉の又吉健吉(またよしけんきち)の仲介により、二人は仲直りした。
士官学校を卒業してから軍務に就かず、別の仕事に就いたり、家業を継いだりする者もいるという健吉の話を聞いた父は、落ち着きを取り戻し、「では、やってみろ」となったからだ。
とりあえず慶一は、又吉の家に居候して受験の準備をすることになった。
かくして慶一が、家族で初めて家を出ることになった。
その前日、留吉は慶一の部屋に行ってみた。
「慶一兄さん、よろしいですか」
年が五歳も離れていることから、留吉は慶一に遠慮があった。だが慶一の方は、いつも留吉に優しかった。
「留か。入れ」
慶一はランニング姿で荷造りをしており、部屋は散らかっていた。
「失礼します」
留吉の視線が、大量に積まれた漫画本や「少年倶楽部」に行く。
「これらは処分するつもりでいたが、ほしければくれてやる」
「よろしいのですか。正治兄さんがほしいものもあるのでは」
「あいつは高尚なものしか読まん。だからお前にやる」
「ありがとうございます」
留吉は心中うれしかったが、そのことで来たのではないことを告げねばならないと思った。
「何でも好きなものは持っていけ」
かつて触らせてもくれなかった軍艦や飛行機のおもちゃが、畳の上に乱雑に置かれていた。
「それらをいただけるのは、とてもうれしいのですが、何かほしくて来たのではありません」
「ほう、では何の用だ」
慶一が雑誌の束を縛り終わると、その場に胡坐(あぐら)になった。
それに合わせるように、留吉も正座する。
「実は、軍人になりたいという兄上の本意が聞きたいのです」
「本意だと」と言いつつ、慶一が首をかしげる。
「はい。実は私の友人の兄も『軍人になりたい』と言い出し、その理由を親から問い質(ただ)され、つい『軍服に憧れて』と言ってしまったそうです」
慶一が白い歯を見せて笑う。
「そいつはよかった。実は俺もそうだ」
「えっ」
「嘘だよ。俺が軍人になりたいのは、もっと単純な理由からだ。よいか――」
慶一は荷造りしかけたものの中から、筒状に丸めたものを取り出すと広げた。
「これが何か分かるな」
「はい。世界地図です」
「われらの国日本は、これほど小さい」
そう言われると、日本がいっそう小さく見えてきた。
「なるほど小さいですね」
「今の世界情勢を考えてみろ」
慶一が簡単に世界情勢を説明する。
第一次世界大戦が終結し、二月にはワシントン会議が開催され、世界は軍縮ムードに包まれていた。だが軍縮の目的には、膨張し始めた日本を抑えたいという米国の思惑があった。またロシア帝国は崩壊し、その後の主導権争いの内戦が激しくなっていたが、それが収まれば再び南下策を取るのは目に見えており、日本は窮地に立たされる。そのため世界が小康状態を保っている今のうちに、軍部は有為の若者に危機感を共有させ、士官学校に入るよう勧めていた。
「ということだ。こうしたことを踏まえ、俺は日本を守る仕事に就くことにした」
「立派なお考えです。しかし家業はどうするのです」
「俺の知ったことか。俺の人生は俺のものだ。売春宿の親父などに収まってたまるか」
慶一がうそぶく。その気持ちは十分に分かる。
「でも慶一兄さんが軍に入ってしまえば、正治兄さんが跡を継ぐしかありません」
「奴は病弱だから、それでもよいのではないか。好きなこともできるしな」
「そうでしょうか。でも正治兄さんにも、考えがあるのでは――」
「確かに難しい本ばかり読んでいる正治に、売春宿の経営は無理だろうな」
慶一と正治は仲が悪いわけではないが、全く対照的だった。慶一は運動好きで、いつも仲間に囲まれていた。一方の正治は内向的で、部屋に閉じこもって本ばかり読んでいた。
「でも、私は家業を継ぎませんよ」
留吉は予防線を張っておいた。
「そうなのか。一生楽に食えるぞ」
「でも売春宿の経営者では、誇りを持って生きられません」
「そこよ」と言って慶一がうなずく。
「わしもそう思った。人生は一回きりだ。誇りを持って生きられないでどうする」
「では、士官学校を出ても、家業を継ぐつもりはないのですね」
「ない。わしはそのまま職業軍人になるつもりだ。それで世界の平和を維持していく」
「でも軍部は、平和よりも日本の権益拡大を考えているのではないですか」
慶一の顔が曇る。
「そうかもしれん。だがそれは、日本国を守ることにつながっているのだろう」
「私もそれを信じています。しかしあまりに台頭しすぎると、寄ってたかって叩かれませんか」
「大丈夫だ。日本国は、これまで幾度となく難局を切り抜けてきた。これからもそうなるだろう。微力ながら、俺もそれに貢献したいのだ」
そこには、慶一特有の前向きな楽観主義があった。
「立派なお考えです。でも軍人というのは、死と隣り合わせの仕事では」
「問題はそこなのだ」
慶一の顔に一瞬不安の色が走る。
「敵と干戈(かんか)を交えることになれば、死を覚悟せねばならぬ」
「若くして死んでしまってもよいのですか」
慶一が驚いたように留吉を見る。
「お国のために命を捧げるのも、一つの生き方ではないかな」
「そういう考え方もありますが、慶一兄さんの人生は、それで終わりではないですか」
「まあ、そういうことになるが――、で、お前は何が言いたい」
「もっと別の方法で、日本国のために役立つこともできるはずです」
「ああ、そういうことか」
少し考えると慶一は言った。
「わしはまどろっこしいことが嫌いだ。それは別の者の仕事だ」
「それが慶一兄さんなんですね」
「ああ、そうさ。それが俺だ。それよりもお前はどうする」
突然話を振られた。
「私ですか。まだ何をしていくか見当もつきません」
「そうか。それも今のうちだ。卒業までに進路を決めておけ」
「分かりました。その言葉を肝に銘じておきます」
それで慶一との会話は終わった。
翌朝、慶一は父母に育ててくれたお礼を言うと、弾むような笑顔で家を出ていった。母のいさは長男の門出に涙を抑えきれなかったが、父の善四郎は、遂に玄関口にさえ顔を出さなかった。
かくして慶一が去ることで、坂田家の一つの時代が終わりを告げた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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