夢燈籠 第47回
十二
記者会見場で記者たちが雑談していると、下士官がやってきて「静粛に」と告げるや、石原が入室してきた。フラッシュが焚(た)かれ、石原が眩(まぶ)しそうにする。
――少し年を取ったな。
石原は以前と変わらず丸刈りだったが、頭髪には白いものが混じり始めている。考えてみれば、石原はもう四十五歳なのだ。
前回会ったのが昭和四年なので、それから五年が経(た)っている。その間、石原は関東軍司令官の本庄繁(ほんじょうしげる)中将や高級参謀の板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐を差し置いて実質的に関東軍の指揮を取り、本意でないにしても満州国を建国したのだ。それを思えば、気苦労は並大抵のものではなかっただろう。
「お集まりいただき恐縮です」という言葉で語り始めた石原は、明確な論旨で滔々(とうとう)と語り始めた。
それは国際情勢から始まり、今なぜ満州を日本の保護下に置かねばならないかまで多岐にわたっていた。
「第一次世界大戦後、世界に平和が戻ったが、列強はいずれ次の世界戦争を始める。どのような戦いが繰り広げられるかは分からないが、アメリカとソ連が生き残るのは間違いない。その時、日本は国力を蓄え、無傷で東洋に君臨していなければならない。おそらく米ソ戦争はアメリカの勝ちとなり、世界の覇権はアメリカに握られる。だがその時、日本が満州を確保し、中国と手を組んでアメリカに対抗すれば、それまでの戦いで傷ついているアメリカは日本と戦争はできない。これにより日本は、いつか決勝でアメリカと戦うか、世界をアメリカと二分していくことができるわけだ」
石原の話は満州国に及んだ。
「私の個人的な見解を言わせてもらえば、当初は独立国という形までは構想していなかった。本来は民族平等による自治を目指し、日本の関与を少なくすべく、満州国協和会を作り、そこを介して政策に関与しようという構想だった」
自らの構想から逸脱し、政府や軍部が主導権を握りつつある満州国に対する不満を、石原がぶちまけた。こんなことを言えば、石原の出世は頭打ちになり、左遷されるのがオチだが、石原は小心翼々たる軍人とは違う。
――それが満州事変を成功に導いた自負なのだろう。
石原は自信に溢(あふ)れていた。
その後も石原の饒舌(じょうぜつ)は続き、遂には政府や軍部批判まで飛び出した。
記者たちは笑っていたが、これで石原を失脚させようとでも思っているのか、懸命にメモを取っている。むろん留吉もその中の一人だった。
やがて時間が来て、下士官が「今日は質問を受けません」と言ったが、何人かが食い下がった。だが石原は、「では、これにて!」と言うや、右手を挙げて部屋から出ていった。その後ろ姿に、期せずして拍手が起こった。彼の言動に是非はあっても、あまりに見事な弁舌ぶりに、記者たちも感銘を受けたのだ。
「さすが石原さんだ」
小林も拍手しているので、留吉もそれに倣った。
「その通りですね。あれだけ理路整然と語られては、誰も反論ができません」
「質問は受けてくれないので今日はこれでおしまいだな。今夜は新京に泊まって、明日の汽車で大連に帰るつもりだが、君はどうする」
「はい。ご一緒したいのはやまやまですが、上司からは個別のインタビューを取ってこいと命じられているので――」
「そうか。それはたいへんだな。まあ、夜にでも飲もうや」
留吉も小林も新京ヤマトホテルに部屋を取っている。
「そうですね。早く帰れたら小林さんの部屋に内線します」
「いいのかい」
小林が玉齢の方を示しながら問う。
「何を言っているんですか。そんな気はありません」
「分かった。話半分で聞いておく」
そう言うと思わせぶりな笑みを浮かべ、小林は行ってしまった。
――石原に個別に会えないものか。
留吉が石原の後を追おうとすると、廊下の途中にいた下士官が声をかけてきた。
「帝都日日新聞の坂田さんですね」
「はい、そうですが――」
「石原中佐がお会いしたいとのことです」
「えっ、本当ですか」
「石原中佐は先に関東軍本部に戻りました。私の車で後から来るようにとのことです」
「分かりました。ありがとうございます。でも――」
留吉が背後に控える玉齢の方を見る。
「私は坂田さんだけをお連れするよう命じられています」
「分かりました」
留吉は玉齢に先にホテルに戻るよう言うと、下士官の後に続いた。
下士官に従って裏に停めてある陸軍の乗用車に乗り込んだ留吉は、関東軍本部に向かった。
「入れ」という声が聞こえたので、下士官に従って留吉が石原の部屋に入ると、石原は書類に目を通していた。
「坂田留吉氏を連れしました」
「ご苦労。下がっていいぞ」
「失礼します」
石原が手で指示したので、留吉は対面の椅子に座を占めた。
「久しぶりだな」
「はい。五年ぶりです」
「もう、そんなになるか。あの時の武勇伝を後で聞いて驚いたぞ。だが兄さんを連れて帰ることができず、残念だったな」
「はい。兄は兄の道を歩んでいくそうです。だから、これでいいんだと思います」
「そうか」と言うと、石原が書類の山の中から、何かを取り出した。
そこには「満蒙国防資源調査報告書」と書かれていた。
「これは――」
「突然なので面食らっただろう。順を追って説明しよう」
石原が出された茶を一飲みすると問うてきた。
「私が満州に固執する理由が分かるか」
「ソ連の南下を防ぐための緩衝地帯にするためではないのですか」
「それもある。だがそれだけではない。いや、それよりも大切なことがある」
「それは何ですか」
「資源だ」
留吉の眼前にある「満蒙国防資源調査報告書」が、それなのだ。
「つまりこの広い原野のどこかに石油が埋まっていて、それを見つけようというのですね」
「そうだ。実は昭和初期、日本政府は民間に委託し、満蒙の地に石油を求めて探鉱調査を実施していた。最初の本格的調査は、昭和四年に『満鉄地質調査所』を設立し、満州里近辺のジャライノール地区で探鉱を始めた。だが探鉱というのは実に辛(つら)い仕事だ。何と言っても人里離れた地に何年も住み、試掘井(しくつせい)を掘っては破棄することの繰り返しだ。それで日本から派遣された民間の技術者たちが音を上げてしまい、二年半後、『この地にアスファルト鉱床は存在するものの、鉱量少なく商業化は難しい』といった報告を残して帰ってしまった」
石原が「満蒙国防資源調査報告書」のあるページを指し示す。
「なるほど。つまりこの地に腰を据えて探す気力がなかったのですね」
「そうだ。奴(やつ)らは月給取りだからな。石油を掘り当てたところで自分の懐に入るわけではない。そんなことでは、必死になるわけがあるまい」
石原は煙草(タバコ)を取り出すと、うまそうに一服してから続けた。
「昭和六年九月の満州事変の直後、再び調査隊を編成し、満州里を中心にした地域の試掘を行った。この時は十分な地質調査を行い、有望だという結果を得て、二十もの試掘井を掘削したが――」
石原がため息交じりに言う。
「全く成果が出なかった」
「それはお気の毒」
留吉としては、そう言うしかない。
「それでも昭和七年、瀋陽(しんよう)の西の阜新(ふしん)辺りが有望と聞き、一千メートル級の試掘井を掘ったところ、油兆があった」
「遂に出たんですね」
「ああ、二百リットルね」
「えっ」と言って留吉が絶句する。
「それでも出ないよりましだ。それで四十七もの試掘井を掘った。中には深度二千メートルのものもあったが――」
「だめだったんですね」
「結果的にはそういうことになる。だがな――」
石原がいかにも残念そうに続ける。
「俺は口惜(くや)しいんだ。この原野のどこかに、どでかい石油が眠っている気がしてならないんだ」
「しかし――」
留吉は石原のあきらめの悪さに驚いたが、それが石原なのだと思い直した。
「それで上の方は、『石原、もうあきらめろ。すでに出ている油田をいただけばいい』と言うんだ」
「つまり南方ですね」
「そうだ。スマトラ、ボルネオ、ビルマ、ジャワといったところだ」
「ああ、私も聞いたことがあります。スマトラのパレンバンとかボルネオ島近くのタラカンですね」
「うむ。だが油田地帯に侵略などすれば、列強は黙っちゃいない」
石原が珍しく弱気な顔をする。
「さすがの石原中佐でも、列強とは戦えませんか」
「当たり前だ。アメリカ一国だけでも全く歯が立たん」
「そんなに日本は弱いのですか」
「ああ、弱い。戦争は資源の勝負だ。日本のようなからっけつが、どうやって資源大国のアメリカに勝つんだ」
この時代の日本の石油自給率は八パーセントにすぎず、八十パーセントはアメリカから輸入していた。中東の油田が開発される前なので、アメリカは世界最大の石油生産国であり、原油生産量は日本の七百四十倍に達していた。また量だけでなく、航空機用の高性能ガソリンといった石油製品の品質でも、日本は大きく後れを取っていた。
「その通りですね。だから南方進出は無理ですよ」
「いや、そうでもない。内地の参謀本部には、俺よりも強硬な奴が出始めている。だから奴らが南方に手を出す前に満州で石油資源を見つけねばならぬ」
「しかし大油田を見つけるとなると、たいへんな予算と人手が必要ですよ」
「そんなことは分かっている。俺の計画では、昭和十六年(一九四一)までに対ソ戦争準備を終え、対ソ八割の軍備を整えねばならない。そのためには満州の産業を内地並みに育成せねばならない。それを実現するためにも石油が必要なんだ」
「なるほど、尤(もっと)もなことですね」
石原の言いたいことが終わりに近づいたと思った留吉がメモ帳を閉じると、石原がおもむろに言った。
「そこでだ。君に一働きしてもらいたい」
「一働きって何ですか。私は一介の新聞記者ですよ」
「先ほどの記者会見で、君の顔を見て閃(ひらめ)いたんだ。『こいつにやらせよう』ってな」
「待って下さい。何をやらせるんですか」
石原が二本目の煙草に火をつける。
「石油を見つけるのさ」
「どうして私なんですか。私は門外漢ですよ」
「以前に、炭鉱で働いたことがあると言っていなかったか」
雑談でそんなことをしゃべった記憶があるが、石原はしっかり覚えていた。
「そりゃ、働いていたことはありますが、プロではありません」
「まあ、聞けよ」
石原が、「満蒙全図」と書かれた地図を鞄(かばん)から取り出すと広げた。
「俺が有望だと聞いたのはここだ」
「黒竜江(こくりゅうこう)省の大慶(だいけい)ですか」
「そうだ。またここも有望だ」
石原が遼寧(りょうねい)省の遼河(りょうが)平原という場所を指し示した。
「こんなところ、何もありませんよ」
「分かっている。だから内地から来た民間の連中は腰が引けて、最初は望み薄と言っていた。だがな、どうも怪しいと思い、一人を酔いつぶして本当のところを語らせた」
「そこまでやるんですか」
「当たり前だ。日本の未来が懸かっている」
石原が中空を見据える。その目には強い意志が表れていた。
「しかし内地の技術者が来ないのに、私に何ができると言うんです」
「こんな時のために満州炭鉱、満州石油、満州鉱業開発といった会社を立ち上げ、内地から来た技術者に技術移転をやってもらった」
「では、彼らにやらせたらいかがですか」
「その通りなのだが、それらの会社の社員は中国人や満州人ばかりなんだ」
「つまり日本人のリーダーが必要というわけですね」
石原がにやりとする。
「そうだ。それを君にやってもらいたいと思ってね。そうすれば君も巨万の富が築ける」
「しかし――、私にできるようなこととは思えません」
「おい」
石原がどすの利いた声で言う。
「俺を見くびってもらっちゃ困るぜ。これでも人間洞察力には自信があるんだ」
「ありがとうございます。でもどうやって油田や油層を見つけるのですか」
「それは、先ほど言った中国人や満州人が知っている、はずだ」
――頼りないな。
石原は多忙なので、細かいところまでは把握していないのだろう。
「いずれにしても、少し考えさせていただけませんか」
「もちろんだ。いつまでだ」
「どのみち、いったん帰国して身辺を整理せねばなません」
「尤もだ。では二カ月で決めてくれ」
「分かりました」
留吉は一礼すると、石原の前を後にした。
――どうしたらいいんだ。
留吉にとって、またしても人生の決断の時が迫っていた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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