夢燈籠第9回


 
 ――筑豊とはどんなところだ。
 百科事典を紐解いてみても、たいした情報はない。そこで働く人々が過酷な環境に置かれていることだけは分かったが、どんなところなのかは一切伝わってこない。だが母は、その炭鉱町のどこかにある花街らしきところで働いているのだ。考えてみれば、筑豊や炭鉱のことまで知る必要はない。
 ――福岡の筑豊炭鉱なるところに行き、母を捜し出すことができるのか。
 花街で働く女なら、聞いて回れば捜し出せないこともない。だが捜し出せたところで、落籍(らくせき)する金がなければどうにもならない。
 これまでの貯金で、何とか旅費はなんとか工面できそうだが、女衒に売られた母を落籍する金まではない。それがどれほどの相場なのか見当もつかない。
そこで留吉は、兄の正治に知恵を借りることにした。
「兄さん、よろしいですか」
「おう、珍しいな。入れ」
 布団に入ったまま何かの本を読んでいた正治が、本を閉じて胡坐(あぐら)になる。
「失礼します」と言って、一つしかない座布団をあえて避けた場所に、留吉は座した。
「遠慮するな。座布団を尻に敷け」
「すいません」と答え、留吉は座布団の上に座した。
 かつては中学も休みがちだった正治だが、どうやら大学生活には順応できたらしく、学校が休みでない限り、朝早くから小田急線に乗って早稲田に向かう日々を送っていた。
「何を読んでいたのですか」
「これか。ヴィクトル・ユゴーというフランス人が書いた『あゝ、無情』という小説だ」
「面白いですか」
「抜群に面白い。だが、こんな悲惨な人生があったのかと思うと暗然とする」
「それほどですか」
「ああ、十九世紀のフランスはひどいものさ。パンを一つ盗んだだけで、十九年も牢獄に入れられんだからな」
 ――それは僕の母とて同じではないか。
 だがそんなことを、正治は思いもしないのだろう。
「いつか私も読みたいです」
「ああ、読み終わったら貸してやる」
 そんな会話をしながら、大学生活などを聞いていると、兄が問うてきた。
「お前も早稲田に行きたいのか」
「はい。できれば」
「早稲田は私学の雄だ。懸命に勉強せねばならんぞ」
「分かっています。今のままでは到底合格できません」
 留吉は、復学してから心を入れ替えて勉強しようと思っていた。
「分かっているならそれでよい。今日は大学の話が聞きたいのだな」
「いや、実は違うんです」
「ほう、では、何の話だ」
 留吉の顔から思いつめたものを感じ取ったのか、正治の顔から笑みが消える。
「私の母親のことです」
 停学の理由について、すでに正治には話していた。
「ああ、そのことか。まさか居場所を突き止めたのか」
「そうなのです。どうやら福岡の筑豊炭鉱に連れていかれたらしいのです」
 留吉が事情を説明すると、正治が「実の兄なのにひどいことをする」と言って天を仰いだ。
「それで何が知りたい」
「お聞きしたいのは、福岡まで行って母親をもらい受けてこようと思うのですが、お金もありませんし、父さんも協力してくれないでしょう」
「そうだろうな。しかし落籍(ひか)せるのは容易なことではないぞ」
「分かっています。でもそれをやらないと、母は――」
「そうだな」と言ってしばらく考えた末、正治が言った。
「やはり父さんしかない。最近、父さんは大豆相場で当てて金が入ったと聞いた。一緒に来い」
 そう言うと、正治は何かの封筒を懐にねじ込み、父の書斎に向かった。

 二人が連れ立って善四郎の書斎に行くと、善四郎はラジオに耳に当て、何かをメモに取っていた。流れているのは株価の情報のようだ。
「父さん、よろしいですか」
「今はよろしくない。後にしろ」
 善四郎が顔の前で手を振る。
「株価なら、夕刊でも分かります」
「うるさいな。二人そろって、いったい何だ」
 善四郎がうんざりした様子で、ラジオのスイッチを切った。
「大事な話です」
「早く用件を言え」
「分かりました。実は金を出してほしいのです」
「何を馬鹿なことを言っている。お前には学費と小遣いを与えているはずだ」
「私ではありません。留吉にです」
「留吉も同じだ」
 そう言い捨てると、善四郎は再びラジオのスイッチを入れようとした。
「父さん、待って下さい。実は――」
 正治が事情を語り、留吉が補足する。それを聞き終わった善四郎の顔は真っ赤になっていた。
「お前ら、何を言っている。あの女には手切れ金を与えて縁を切ったのだ。今更ここに連れてこられても困る」
「ここに連れてくるとは言っていません。しっかり身が立つようにしてあげたいのです」
 ここで言う「身が立つようにする」とは、落籍せた上で、こちらに連れてきて生活を軌道に乗せることだ。
「わしは関係ない。祖父様は手切れ金を払った。それを懐に入れたのは、栢山の兄ではないか」
「その通りです。では、二人で脅しに行きます」
「何を言っている。祖父様の昔とは違うんだ。そんなことをすれば警察が動いて、お前らはお縄となり、学校も退学させられるぞ」
「だったらお金を出して下さい。この件は元々、父さんが原因ではないですか」
「その話はもうよい。しかし落籍せるとなると、尋常な額ではない。しかも吹っ掛けてくるぞ」
 落籍の交渉は何度もしてきているはずなので、その相場にも、善四郎は詳しいに違いない。
「ですから、一筆書いていただけませんか」
 曲がりなりにも善四郎は横浜の顔役だ。闇の世界にも多少の顔は利く。闇の世界は金と顔で片がつくので、一筆は最大の効果が見込める。
「で、いくら要(い)る」
「五百円ほどで何とかなるでしょう」
 五百円は、現代価値だと二百万円ほどになる。インフレ率を加味すると、さらに何倍かの価値になる。
「馬鹿も休み休み言え」
 善四郎が椅子を半回転させて背を向ける。
「では、妾のことを母上に言います」
「八重のことは、いさも知っている」
 善四郎が勝ち誇ったように言う。
「昔のことではありません。父上が今、横浜に囲っている若い女のことです。毎月、執事に金を届けさせているではありませんか」
「そんなことは知らん!」
「では、母上に言いつけます」
「ああ、言いつけろ。何の証拠もあるまい」
「ありますよ」と答えつつ、正治が懐から封筒を取り出した。
「私がカメラを趣味としていることはご存じの通り」
「こ、これは――」
 その写真には、善四郎と妾と思しき女が家の前で笑っている図が写っていた。
「なんでこんな写真を撮った!」
「こういう時に役立てるためです」
「この女はただの知り合いだ。証拠にはならん!」
「では、母さんに知らせます」
「待て」
 母のいさとて馬鹿ではない。興信所に調査を依頼することくらいはできる。
「では、五百円とこの写真を引き替えましょう。ネガも付けます」
「何て奴だ」
 それでもしばらく善四郎は考えていたが、やがて逃れる術はないと観念したようだ。
「分かった。その代わり、八重を、わしの前に連れてくるな」
「父上」と、それまで黙っていた留吉が言う。
「連れてこないと約束します。しかしかつては契りを交わした女に対し、あまりの言いぐさではありませんか」
「知ったことか!」
 そう言うと、善四郎は手文庫から五百円を取り出した。
「ありがとうございます」
 それを頭上に頂くようにもらうと、正治は留吉に渡した。
「大事に使えよ。相手は海千山千(うみせんやません)だ。必ず証文をもらえ」
「終わったら、さっさと行け」
「まだ一筆もらっていません」
 善四郎は不機嫌そうに一筆書くと実印を捺(お)した。そして一拍置くと、仕方なさそうに言った。
「留吉、女衒が騙(だま)そうとしたら、わしの名を出せ。そうだ。これを持っていけ」
 そう言うと、善四郎は手文庫から留吉も写っている家族写真を取り出すと続けた。
「これがあれば、お前がわしの子だとはっきりする」
「父上、このご恩は忘れません」
「もうよい。わしもあの女、いや、そなたの母には悪いことをしたと思っている。この金で奈落から救ってやれ」
 善四郎は、最後は父親らしくそう言った。
 かくして留吉の初めての旅が始まる。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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