夢燈籠第36回
三
昭和七年(一九三二)が明けた。
母と一緒に、横浜市南区八幡町にある一軒家に移った留吉は、仕事探しから始めた。
経験を生かした仕事に就こうと、募集している新聞社を探したところ、帝都日日新聞が創刊されるという情報を得た。そこで応募してみたところ、二つ返事で採用が決まった。勤め先は東京の芝公園なので通勤もさほど苦にならない。
毎朝、近くにある中村八幡宮に詣でてから出勤する日々が始まった。江ノ島に生まれたことで、留吉はどこに行っても神社があると参拝することにしている。
家事は母親がしてくれるので、随分と助かった。下町なので、近所の人たちともすぐに仲よくなり、幸先よく新生活を始めることができた。
一月下旬、姉の登紀子の挙式がつつましく行われた。場所は夫になる鈴木武男(たけお)という人の地元にあたる埼玉県比企(ひき)郡だったので、電車とバスを乗り継ぎ、一日がかりで新居を訪れた。
その日は武男の実家に泊まっていくことになったので、留吉と母は婚礼後の祝宴にも出られた。
友人や親戚一同が帰り、武男の両親や兄弟もそれぞれの部屋に引き取ったので、部屋には、留吉、いさ、武男、登紀子の四人だけとなった。いさを伴い、留吉も部屋に引き揚げようとしたところ、武男が威儀を正し、「実は、お話があるんです」と言ってきた。
その様子から大事な話だと思った留吉は、上げかけていた腰を下ろした。
「何なりとお話しください」
武男は緊張した面持ちで言う。
「私はブラジルに行こうと思っています」
「えっ、新婚旅行ですか」
登紀子が噴き出す。
「いいえ、ブラジルに移民するのです」
「移民というと、あちらで働くのですね」
「そうです。ブラジルで事業を興そうと思っています」
留吉がいさと顔を見合わせる。
「ということは、姉さんも一緒ですか」
登紀子がやれやれといった顔で言う。
「当たり前じゃないですか。武男さんとは夫婦なんですから」
――そうか。それで急いで嫁をもらったのだな。
いかに移民が増えているとはいえ、ブラジルに行けば縁談は少ないのだろう。それゆえ武男は、こちらで嫁をもらってから行きたかったに違いない。
武男が少し下がると、いさの前で両手をついた。
「大事な娘さんを連れていくことをお許し下さい」
「えっ――」
いさは、事情がよくのみ込めていないようだ。
「母さん、武男さんは登紀子姉さんを連れてブラジルに移民すると言っているのです」
「ブラジルって――」
小学校しか出ていないいさが、ブラジルを知らないのは仕方がない。
「日本の反対側にある国です」
「ああ、そう――」
だがいさは、まだ不得要領な顔をしている。
「母さん、ブラジルはすごく遠い場所にあります。もう登紀子姉さんに会えなくなるかもしれないんです」
「えっ、それはどうしてだい」
留吉と武男が丁寧に説明すると、ようやくいさにも理解できたようだ。
「どうしてそんな遠いところに――」
武男が身を乗り出す。
「ここで人の後塵(こうじん)を拝しているより、ブラジルに行った方が、成功するチャンスが多いと思うのです」
元々、武男は実業家の父を手伝っていた。だが次男なので、いつかは独立せねばならない。独立するからには、よりチャンスの多いブラジルを目指すのは、自然な考え方だった。
「でも、登紀子は――」
いさが言葉をのみ込む。その様子から留吉は何が言いたいのか察した。
「慶一兄さんが帰国できず、正治兄さんが亡くなってしまった今、母さんにとって、登紀子姉さんが血を分けた唯一の子なのは分かります。しかし行ったら帰ってこないわけではありません」
登紀子も目に涙を浮かべて言う。
「そうですよ、母さん。三十日ほどの船旅で帰ってこられます」
「えっ、片道で三十日もかかるのかい」
武男がうなずく。
「はい。今の船舶事情ではそうなります。でも、これだけ移民が多くなると便数も増え、帰国が難しくなるわけではありません」
明治末期から大正期にかけて、新天地を求めて日本を出ていく者たちが増えてきた。当初は「経済的に行き詰まった人」「明治政府に不満を持つ人」「沖縄県出身者」「被差別部落出身者」といった社会的弱者が多かったが、彼らの成功譚が伝わってくるに従い、これらに当てはまらない者たち、すなわちブラジルで一旗揚げようという者も増えてきた。
一九二六年から一九三〇年までの五年間のブラジル移民の数は五万九千五百人余、一九三一年から一九三五年までの移民の数は七万二千六百人余を数えることになる。
母のいさが黙り込んでしまったので、留吉が武男に問うた。
「それで武男兄さんは、あちらで何をするつもりですか」
「コーヒーのプランテーションを経営しようと思っている」
プランテーションとは、大量の資本を投入して単一の作物を大量に生産する大規模農園のことだ。現地の安価な労働力を利用できるので、成功すれば巨万の富をもたらす。
「コーヒーというのは、そんなに有望なのですか」
「有望だ。今コーヒーの市場は欧米中心だが、そのうち日本はもとよりアジア全域に広がっていく」
「なるほど、確かに満州でもコーヒーを飲む人がいました」
「そうなのか。やはり、これほど有望な作物はない」
「それに賭けるのですね」
「ああ、賭ける。どのみち人生は一度きりだ。しかも苦労を乗り越えられるのは、若いうちだけだ。それなら今、勝負すべきだろう」
「その意気やよしですね」
留吉は希望に燃えている武男が羨ましかった。
「どうだ。うまくいきそうになったら君も来ないか」
「えっ、私ですか」
「そうだ。事業というのは、うまく回り始めると人手が足りなくなる。その時は手伝ってくれないか。もちろん独立したいというなら全面的に支援する」
「ブラジルですか」
これまでブラジルと言えば、青い空と広大な農園といったイメージしかなかったが、考えてみれば、だからこそ金城湯池(きんじょうとうち)かもしれないのだ。
――しかし母さんはどうする。
いさを日本に置いていくわけにはいかない。
「それは考えておきます」
その時、突然いさが言った。
「留吉は行かないのかい」
「は、はい。こちらで仕事にも就けたので、当面は行かないつもりです」
いさを安心させるために、留吉はそう言ったが、いさの反応は逆だった。
「今、武男さんもおっしゃったように、勝負できるのは若いうちだけだよ」
武男がわが意を得たりとばかりに言う。
「その通りです。日本の若者は海外に目を向けるべきです」
「そうですね」
いつの間にか、留吉の背を皆が押すような話に変わっていた。その時、登紀子が突然言った。
「もしかしたら、母さんも行きたいの」
まんざらでもないといった顔で、いさが言う。
「年寄りは、足手まといになるんじゃないのかい」
武男が顔の前で手を左右に振る。
「そんなことありません。あちらには日本人の医師もいるし、成功した日本人たちが出資して建てた病院もあります」
登紀子も言い添える。
「私は母さんを日本に置いてブラジルに渡ることだけが、心残りなんです。一緒に来てくれれば憂いはなくなります」
「そうですよ、義母さん、一緒に行きましょう」
「私なんか――」
いさは迷っているようだ。
――そうか。唯一の血を分けた娘と別れ難いのが一つ。自分の子でない僕に負担をかけたくないのが一つ。そして血を分けた孫の顔が見たいのが一つか。
いさの気持ちが手に取るように分かってきた。いさには弟の予備役海軍大尉・又吉健吉(またよしけんきち)がいるが、健吉は海軍兵学校の教官として江田島に赴任しているので、留吉の世話になるしかない。
留吉がいさの顔をのぞき込む。
「義母さん、本当の気持ちを聞かせて下さい」
「私の気持ちかい」
しばし沈黙した後、いさが言った。
「おそらく慶一は帰ってこられまい。となると私の子は登紀子だけ。登紀子と離れ離れになるのは辛い。その上――」
留吉が言葉を引き取る。
「私の迷惑になりたくないというのですね。それは気にしなくて結構です。私は母さんの子です。それだけは忘れないで下さい」
「ありがとう」
その言葉には万感の思いが籠もっていた。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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