夢燈籠第29回

十八

 留吉は夢と現(うつつ)の間をさまよっていた。
雲一つない青空の下、岩礁に打ちつける波を見ていたかと思うと、雨の日、狭い下宿の部屋で、八重樫春子と一緒に見つめていた下宿の天井の木目模様が鮮烈によみがえってきた。その時の甘い気分に酔っていると、突然トロッコに乗せられ、轟音を蹴立てて地下深くに潜っていく光景になった。その線路は無限に続いているような気がした。
 ――降ろしてくれ!
 留吉はトロッコから飛び降りようとしたが、体が硬直して動かない。
 ――誰か助けてくれ!
 やがてトロッコの行く手に明るい光が見えてきた。
 ――ああ、地上に出られたのか。
 その光を浴びた瞬間、上から声が聞こえた。
 隣にいた郭子明が震える声で言う。
「起きろと言っています」
 上を見上げると、数人の匪賊が太陽を背にして立っている。
 ――そうか、俺は地下牢に閉じ込められていたのだ。
 記憶がよみがえり、自分が絶望的な環境にいることが思い出された。
「殺されるのか」
「分かりません」
 覚束(おぼつか)ない足取りで梯子を上ると、太陽が眩しすぎて眩暈(めまい)がした。
「さあ、来るんだ」
 匪賊は二人の腕を取ると、屋敷の方に連れていった。それは豪農の家だったらしく広壮で立派な構えのものだったが、おそらく匪賊に乗っ取られ、住人たちは追い出されるか殺されたのだろう。
 そこには匪賊の首領らしき肥満漢がいた。
「ようこそ、新聞記者さん」
 肥満漢が留吉の身分証を見ながら笑みを浮かべる。
 満州国が建国される前は満鉄沿線の治安は最悪で、匪賊が沿線各地を跋扈し、日本人をとらえては身代金を要求していた。
匪賊には共産匪と兵匪があった。共産匪は若い日本人を捕らえて共産思想を吹き込み、一定期間の洗脳が終わると解放した。それによって日本人の間に共産思想を蔓延させようというのだ。
一方の兵匪は主に張作霖軍の元兵士たちで、張作霖軍が瓦解した際、武器弾薬や馬などを奪い、徒党を組んでいる集団のことだ。彼らは日本人を殺さず、目隠しをしてどこかに連れていくと、身代金を要求した。その相場は一人あたり千円(現在価値で六十万円ほど)ほどで、金持ちなら払えない額ではない。
――どうやら兵匪のようだな。
それが分かれば怖くはない。この場は強く出るべきだと、留吉の直感が知らせてきた。
「私は大日本帝国の国民だ。私を害すればどうなるかは知っているだろう」
 郭子明がつかえながら訳す。
「もう一人はどうかな」
「私は――」
 郭子明の言を留吉が遮る。
「この若者は中国人だが、れっきとした満州日報の社員だ。つまり大日本帝国の国民と変わらない」
 郭子明は臨時雇いだが、社員と言っても調べようがないので留吉は強く出た。
「まあ、どうでもよいことだ。満州日報が金を払わなければ、お前ら二人とも殺すだけだ」
 ――俺も馬鹿だった。
 満州では誘拐が頻発(ひんぱつ)していると聞いていたが、わざわざ誘拐を専らとする匪賊の屋敷に行ってしまったのだ。
 留吉が不貞腐(ふてくさ)れながら言う。
「どうやら飛んで火にいる夏の虫だったようだな」
 郭子明が聞き返す。
「えっ、今なんと――」
「それは訳さないでよい」
 肥満漢が得意そうに言う。
「では、満州日報に連絡させていただく」
「新聞社が応じるわけがあるまい。だいいち新聞社は大連にある。新聞社に連絡して金を持ってこさせるまで三カ月はかかる」
「何だと――」
「そうなれば、われわれの食費だけで足が出るぞ」
 粗末な飯を食わされるので足が出るわけがないが、すぐに金にならないのは、匪賊としても困るのだろう。
「では、どうする」
 首領が困惑したような顔をする。
「私が手紙を書くので、それを持って奉天の石原莞爾という軍人を訪ねればよい」
「関東軍にはかかわりたくない」
 たとえ強靭な兵匪であっても、関東軍にはこっぴどい目に遭わされているので、顔も見たくないのだろう。
「では、金はもらえぬぞ」
「その石原というのは、金を出すのか」
「石原は関東軍の作戦参謀だ。つまり序列第二位だ。関東軍の金庫を押さえている」
「そうか。では三千円くらい出せるだろう」
 ――しまった。
 つい口が滑ったが、三千円なら出せない額ではない。
「吹っ掛けるのは勝手だが、この中国人と一緒だぞ」
「それは分かった。日本人は中国人の分は払わない。この前、鉄道のために密林を伐採している現場を襲い、日本人三人と中国人の苦力二十人ばかりを捕らえた。だが満鉄は日本人の分しか払わないという。それで仕方ないので日本人の分だけ金をもらって、三人を返してやった」
「中国人はどうした」
 首領が両手を広げて「知るか」と答えた。おそらく殺すのも手間なので、どこかで解放したのだろう。だが水も食糧も持たせなければ生き残るのは難しい。
「石原か。仕方ない。では、そうするか」
 首領が腹を揺すって笑った。
 
 石原宛の手紙を書いた後、二人は地下牢に戻された。草木で覆われた揚げ戸が下ろされると、わずかに漏れる日を除けば、漆黒の闇が一面に広がる。
「坂田さん、石原さんは金を出してくれますか」
「分からん」
 実際のところ、石原が留吉に、なにがしかの好意を抱いてくれているのは確かだが、それが三千円の価値になるかどうかは分からない。
「坂田さんはまだしも、私の分は払ってくれるのですかね」
「いや、何としても連れていく。もしそうならなくても、私が解放されてから軍の車で捜しに来る」
「そうですね。この場所は分かりますからね」
「あっ」
 その時になって初めて、留吉はまずいことに気づいた。
「われわれは、この場所を知っている。つまり解放されれば、関東軍を案内できる」
 常の人質の場合、アジトに着くまでは目隠しをされ、アジトに至る道が分からないようにする。だが留吉たちは、ここまで運転してきたのだ。
「どういうことですか」
「われわれはここに至る道を知っているから、解放はされない」
「ええっ!」
「致し方ない。あいつが気づかないことを祈るだけだ」
 ――どうとでもなれだ!
 留吉は開き直り、体を丸めて目を閉じた。

 時間がどのくらい経ったのかは分からないが、翌日の午後遅くのことだった。再び揚げ戸が引き揚げられた。
「早く上がってこい」
 言われるままに上がっていくと、再び肥満漢の許に連れていかれた。
 葉巻をくわえながら、肥満漢が言う。
「大事なことを忘れていた」
「何だそれは」
 嫌な予感が湧き上がる。
「お前らはここまで車で来た」
「ああ、そうだが――」
 留吉の背に冷や汗が伝わる。
「つまりこの場所を知っているということだ」
 郭子明が通訳するが、歯の根が合わないのか、震え声になっている。
「ここに来る道など、もう忘れてしまった」
「何を言おうと、この場所を知っているからには、生きて帰すわけにはいかない」
 肥満漢は留吉の書いた手紙を取り出すと、ゆっくりと引き裂いた。
 ――何ということだ!
 絶望がひしひしと押し寄せてくる。
 背後からは、郭子明のすすり泣きが聞こえる。
「では、殺すのか!」
 開き直りにも近い気持ちが湧き上がってくる。郭子明の通訳がないものの、質問の意味が分かったのか、肥満漢が平手を首に持っていくと横に引いた。
 ――やはり殺されるのか。
「待て。私は新聞記者だ。常に関東軍には批判的だ。だから関東軍には、この場所を言わない!」
 郭子明が懸命に通訳するが、親方は首を左右に振ると、手で払うようにして「連れていけ」と言った。
 背後から腕を取られた二人は、外に連れていかれた。
 すでに外は夕暮れ時となっており、大きな太陽が橙色(だいだい)となって地平線に沈もうとしている。
 兵匪たちは、いかにもうれしそうに二人を庭に連れていくと、そこに立たせた。傍らには膝をついた郭子明がすすり泣いている。
一瞬、走って逃げようかと思ったが、背後は荒れ野なので、たとえ逃げきれたとしても、水も食糧もないので苦しみながら死ぬだけだ。
 ――事ここに至っては、日本男児として堂々と死ぬしかない。
 留吉は死を覚悟したが、郭子明だけでも救いたい。
「この中国人だけでも救ってくれないか」
 郭子明が通訳するが、兵匪たちは聞く耳を持たず、銃に弾を込めている。
 ――いよいよ大陸の露(つゆ)と消えるのか。
 悲しみが込み上げてくる。馬鹿なことをしたとも思う。だがすべては運命なのだ。
 ――父上、義母(はは)上、そしてお世話になった方々、これまでありがとうございました。
 留吉が直立不動の姿勢で東に向かって拝礼すると、兵匪たちから笑いが漏れた。
 その時だった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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