夢燈籠第60回

十一

 三月、大連に着いた留吉は急いでいたこともあり、そのまま阜新へと向かった。本来なら大連に着いたことを郭子明(かくしめい)と周玉齢(しゅうぎょくれい)に知らせるべきだが、阜新に先乗りしている人たちのために機材や物資を手配せねばならず、それに忙殺されていたので時間がなかった。これらの機材や物資は貨物車両に積載している。むろん阜新に行くことも、関東軍の機密に関することなので、二人には知らせていない。
 ――帰りに寄ればよい。
 玉齢に会いたい気持ちはあったが、石原から大切な使命を託されている身としては、そうもいかない。だいいち松沢教授や満州石油の人たちは、もう試掘を始めようとしているのだ。
 留吉は満鉄本線で奉天まで行くと、そこから奉山線へ、さらに大虎山(だいこさん)でその支線に乗り換え、ようやく阜新に着いた。
 ――ここが阜新か。
 留吉も阜新に来るのは初めてだが、そこら中に日本兵がおり、日中両国の緊張が高まっていることが伝わってきた。
 阜新は遼寧(りょうねい)省の省都で、満州族の故地でもある奉天の西北にある。北はモンゴルまで続く草原、東は遼河(りょうが)が形成する沖積平野、西は熱河(ねっか)山地、南は松嶺(しょうれい)山脈に遮られている。ただしジャライノールが日ソ両国の境界線に近いことで、治安が比較的安定しているのと違い、かつて張作霖が本拠を置いたことからも分かるように、奉天軍閥の勢力が強い地域でもあった。
 昭和四年五月、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件で更迭された河本大作(こうもとだいさく)大佐の後任として、石原と肝胆相照(かんたんあいて)らす仲の板垣征四郎大佐が関東軍の高級参謀として赴任してきた。そこで同年七月、石原は板垣を誘い、「対ソ作戦計画の研究」と称して北満の長春、ハルビン、チチハル、満州里に「関東軍参謀旅行」を行い、さらに十月、今度は遼河西方の奉天、新民(しんみん)、錦州、阜新などを回り、敵情視察はもとより対抗演習まで行った。しかしその裏で石原は、石油採掘の専門家を同行し、調査も行わせていた。そこで可能性が高いとされたのがジャライノールと阜新だった。

 機材や物資の運搬を業者に託した留吉が阜新の駅頭で立っていると、三台の九五式小型乗用車がやってきた。それが留吉の目前で止まったので、同じ汽車に乗ってきた客たちが目を丸くして見ている。
「お待たせ」と言いながら降りてきたのは、一足先に阜新に入っていた長田正則(おさだまさのり)だ。
「お迎えありがとうございます。それにしても、やけに物々しいですね」
「こっちは物騒なんだよ。それで阜新駅まであんたを迎えに行くので警護役を出してくれと、関東軍に掛け合っていて手間取ったのさ」
「それは申し訳ありません」
「いいってことよ。警護車両なしで行けば、帰途を襲われるかもしれんからね」
「誰にですか」
「蔣介石(しょうかいせき)の正規軍もいれば、張学良(ちょうがくりょう)の私兵もいれば、馬賊もいる」
「ここは、そういうところなんですね」
 車に乗り込みながら長田が高笑いする。
「そうさ。大連に近いから治安もよいと思ったら大間違いさ。こんなところで落ち着いて穴を掘れって言われても、いつ何時、どうなるか分かったもんじゃない」
「どうなるかって――」
 車が走り出した。ジャライノールと違って私的な車ではなく、運転も軍属らしき日本人が担っている。
「関東軍は阜新の採掘現場を警備していると言うが、後備役のような老兵が三十人あまりさ。支那の大軍が押し寄せてくれば、俺たちはひとたまりもなく殺されるか捕虜になる」
「待って下さい。石原さんは安全だと――」
「ここでは、もう石原さんの影響力は衰えてきているんだ」
「そ、そんな――」
 満州が、石原の帝国から東條の帝国へと変貌を遂げつつあるのが、これで分かった。
 ――そうか。東條さんの影響だけでなく、石原さんの出世に不満を持つ関東軍の将校たちが、俺たちにも嫌がらせをしているのか。
 留吉は危険な場所に足を踏み入れることを、初めて知った。
「ただ、ここには近くに満鉄の炭田があるので、そちらには、もう少し兵がいる」
 満州国成立後、満州炭礦株式会社が創設され、阜新で炭田開発を始めた。こちらは大当たりし、満鉄が消費する石炭の半数近くを供給していた。
「もう少しって、どのくらいですか」
「一個中隊というところだね」
一個中隊は約二百名の歩兵から成る。
「では、安心ですね」
「あてにはならないよ。満州炭礦は満州石油とは別会社だからな」
「分かりました。警備に関しては、後で私も掛け合ってみます」
「もういいよ。俺たちは『もう引き揚げたい』と会社に要求しているんだ」
「ちょっと待って下さい。それはまずいですよ」
「君は石原さんとツーカーだから、そう言うんだろう。だが陸軍内部の政局なんて、俺たちの知ったことではない」
 九五式小型乗用車はエンジン音がうるさい上に悪路を行くので、互いに大声になる。それが感情に火をつけることになるので、留吉は黙ることにした。
 気まずい思いを抱えつつ、二時間ばかり車を走らせると、阜新の採掘現場に着いた。そこには「東崗営子採掘試験場」という看板が掛かり、ジャライノールと同じように急造の金網が張りめぐらされていた。
そこでは、長田が「後備役」と呼んだ老兵たちが警備にあたっていた。
 急造のバラック造りらしき事務所内に入ると、険悪な雰囲気が漂っていた。
「どうしましたか」
 再会の挨拶もそこそこに、留吉が松沢と満州石油の技術者たちの間に割って入るように問うと、松沢が答えた。
「ここからは石油が出る」
「確証があるのですか」
 すかさず長田が口を挟む。
「問題はそこなんですよ。出たからといって、どのくらいの量が眠っているのか、採掘施設を作って商業的に成り立つのか、そして石油が出れば関東軍が守ってくれるのか。疑問は山積しています」
長田や日本の技術者たちは、明らかに腰が引けていた。それは遠隔地のジャライノールとはまた違った理由だが、こちらの方が数段危険なのは間違いない。
留吉が松沢に確認する。
「ここで、石炭ボーリング中に油兆があったのは確かなんですよね」
「そうだ。間違いない」
 満州国成立後、満州炭礦株式会社が創設され、阜新で炭田開発を始めた。こちらは大当たりし、満鉄が消費する石炭の三割近くを、ここだけで供給していた。その時、行われた石炭ボーリング中に、液状の石油らしきものが見つかり、それが報告されたことから、石原の肝煎(きもい)りで調査が始まった。
 松沢が自信ありげに続ける。
「阜新の南西三十キロメートルのところにあるトホロ地区の石炭は、この地域唯一の粘結炭で、これを乾留すると石油と成分が変わらないものになる。満州炭礦が露頭(ろとう)と竪穴(たてあな)を掘って調査したところ、炭層の下にアスファルトがあり、これは断層の亀裂によって地下から原油が上昇して固化したものだとされた。そこで満州炭礦は、予定深度一千メートルのボーリングをすることになった。その結果、火山角礫岩(かくれきがん)中に突き当たり、深度六百四十メートル付近から泥水に交じって約二百リットルもの原油が回収された。これに色めき立った政府は、満州炭礦から満州石油に替わって採掘を続けるように指示した。そこで満州石油は深度二千メートルのロータリー堀を掘ることにしたんだ」
「では、なぜトホロ地区とやらに採掘基地を設けないのですか」
 それには長田が答えた。
「そこまでは順調に行ったんだが、そこを襲われたんだ」
「襲われた――」
「そうだ。張学良の息のかかった奉天軍か馬賊か分からんが、採掘基地が襲われ、施設は焼き払われた。幸いにして満州炭礦の社員に人的被害はなかったが、こんなことでは採掘など続けられないとなった」
 松沢が口を挟む。
「トホロは凹凸地形の上、近くに身を隠す藪(やぶ)などもあるので、馬賊などが接近するまで分からない。つまり守りにくい地だと軍人さんたちは言うのだ」
「それでここ、つまり東崗営子に試掘基地を築いたのですね」
 東崗営子はトホロの東七キロメートルほどになる。
「そうだ。ここなら四方に見通しが利く」
「でも、トホロのように地下に原油が埋蔵されているのですか」
「原油層は広く長いので出るはずだ」
「では、国家のためにやるしかありません」
「おい、待て」と長田が口を挟む。
「勝手に決められては困るな。ここも危険なことに変わりない。それで俺たちは関東軍の警備隊が増援されてこない限り、ここを退去すると関東軍に通達した」
「そんな勝手なことが許されるのですか」
「当たり前だ。すでに日本石油の社長から内閣に訴えてもらっている」
 松沢が怒りをあらわにする。
「この仕事には日本の存亡が懸かっているんだ。引くわけにはいかない」
 誰かが机を叩いて怒鳴る。
「だったら勝手にやって下さい。われわれには家族もいるんだ!」
「ここで石油を見つけなければ、日本は南方に石油を求めることになる。そうなれば英米蘭仏が黙っていない。つまり戦争になる。どうしてそんなことが分からないんだ!」
「待って下さい」
 留吉が双方の間に入るように言う。
「双方の言い分は分かります。では、関東軍の警備兵を増援してもらえばよいのですね」
 長田がうんざりしたように言う。
「それは何度も要請したし、日石の社長からも働き掛けてもらった。だが関東軍は増援などしてくれない」
「どうしてですか」
「それは、君が一番よく分かっているだろう」
 ――やはり東條か。
 満州での石油採掘は石原の構想の下で行われている。それが失敗に終われば、石原は面目を失って失脚する。それを東條は狙っているのだ。
「おおよそのことは分かっています。しかしわれわれ採掘チームが、陸軍内部の政治闘争に巻き込まれるわけにはいきません。これは国家にとって重大な事業なのです」
 長田がため息をつくと言った。
「十月末までに一個中隊規模の警備兵が駐屯しない限り、ここから退去してもよいと日石の社長から言われている」
いずれにしても、冬場の試掘は寒気が厳しく効率が上がらない。しかも予算に限りがあるので、冬場すなわち十一月から翌年の二月まで、採掘現場を閉鎖することで、石原の合意は取れていた。
「分かりました。では、確実に油兆があったらどうするのです」
「そこからは採掘段階だ。われわれの仕事ではない」
 そうまで言われては、留吉にも言葉はない。
「松沢教授、ここから石油は出ますね」
「出る。ただし私の言う通りにしてもらわなければ保証できない」
「どういうことです」
「問題は予算だ。ここではダイヤモンド・ボーリングの掘削機で、五年くらいかけて百五十坑は掘らねばならない。つまりもっと掘削機が必要だ」
「ジャライノールから移された分では足りないのですか」
「それは一基だろう。国内からもっと集めねばならない」
「長田さん、何とかならんのですか」
「それは無理だ。陸軍は国内にある一千メートル級の掘削機を南方に運ぼうとしている」
 それは事実だった。石原と東條の確執を別にしても、試掘が予算を無尽蔵に食い潰すと知った陸軍は、すでに石油が出ている南方の油田地帯、すなわちスマトラのパレンバンやボルネオ島の近くのタラカンに目を向け始めていた。
 ――この賭けに勝てるのか。いや、勝たねばならない。
 留吉と松沢は、十月末までに一基の掘削機で石油を掘り当てねばならなくなっていた。

 その後、頻繁に油兆はあるものの、確固たるものには至らない。ジャライノールから移されてきた一千メートル級の掘削機によって手応えもあったが、松沢はまだ確信が持てないという。
 留吉たちの苦闘とは別に、日本は大きな歴史の境目に立たされていた。
 それが昭和十二年(一九三七)七月に勃発した盧溝橋(ろこうきょう)事件だ。この事件は北京郊外の盧溝橋で、日中両軍が衝突した事件のことで、七月中に日本軍は北京・天津地方を制圧した。八月には上海で日本軍の中尉が射殺されたことをきっかけに、日本軍は上海地方まで兵を進めた。
この時、石原は事件の不拡大方針を提唱したが、陸軍内でそれに賛同するものは少なく、拡大派からは「あんたは満州事変の張本人ではないか。私らはあんたの業績にあやかろうとしてるのだ」と言われて返す言葉を失ったという逸話がある。
 かくして石原の思惑とは裏腹に、大陸の事変は拡大の一途をたどっていった。
 当時、満州軍参謀長だった東條は、どちらかと言えば不拡大派だったが、「石原憎し」の思いから事態を拱手傍観していた。かくして石原の孤立は深まっていく。
 九月末、石原への報告があるため、留吉は皆と再会を約して帰国することになった。幸いにして、中国軍や馬賊の攻撃もなかったため、満州石油の技術者たちにも安堵の空気が広がり、来年の三月再開にも、いやいやながら応じてくれた。
 その帰途、留吉は大連に着き、郭子明に電話した。玉齢の家には電話がないからだ。電話口に出た郭子明は、「すぐに行きます」と言ってくれた。むろん留吉は、子明が玉齢を伴ってくるものと思っていた。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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