夢燈籠第34回
二
亡き正治の部屋に入ると、書棚に収まりきらない本が山積みされていた。母のいさは、「要(い)るものと要らないものを選別して下さい。本のことは分からないから、留吉さんに任せます」と言って去っていった。
いさは自らの腹を痛めて産んだ子の一人を失い、憔悴(しょうすい)していた。しかも頼りにしていた長兄の慶一は帰国の目途が立たず、唯一の娘の登紀子は嫁入りを控えている。
哲学書から文学の名著、はたまた講談本まで、正治の趣味は多彩だった。
――もっともっといろいろな本を読み、人生の深淵をのぞきたかっただろう。
知識欲旺盛だった正治の無念を思うと、あらためて悲しみが込み上げてくる。
大量の本は、正治が人生に大きな希望を抱いていることの証左だった。
そこかしこに積まれた本の山の一つから、一冊の本を手に取ってみた。
――『月に吠える』、萩原朔太郎か。
たまたま手に取った本は詩集だった。
――思ったより読みやすいな。
それがその本の第一印象だった。ぺらぺらとページをめくっていると、その中の一節が目に飛び込んできた。
過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。
その一節を読んだ時、背筋に震えが走った。
――これが詩というものか。
文意を汲み取ろうとすればするだけ迷宮に入っていく。だがその叩きつけられた言葉の数々が、なぜか胸に染み込んでくるのだ。
その時、階下で悲鳴が聞こえた。
「どうした、母さん!」
慌てて下りていくと、父と母がテーブルを間に挟んで座っていた。父はぼんやりとしているが、母は手に紙片を持ち、わなわなと震えている。
「これを見て!」
母から手渡された書類を見ると、「賠償請求書」と書かれていた。文字を追っていくと、どうやら父が友人の借金の連帯保証人になり、友人が行方不明となったため、請求書がこちらに回されてきたらしい。
「父さん、ここに書かれている人の借金の連帯保証人になったのですか」
善四郎はゆっくり茶を飲むと答えた。
「覚えていない」
「しかし、ここに『保証契約書』の青焼きがあるじゃないですか」
送られてきた封筒の中には、青焼き(コピー)が入っており、善四郎の署名と実印が捺(お)されていた。
「全く覚えていないんだ」
善四郎が他人事(ひとごと)のように答える。
「では、この印鑑はどこにあるんです」
母のいさが口を挟む。
「金庫に印鑑がないので、不思議に思っていたところでした。もしかすると、言葉巧みに奪われてしまったのかもしれません」
留吉が善四郎に問う。
「父さん、誰かに印鑑を預けたことはありませんか」
「分からない」
「このままでは、家と土地だけでなく財産もすべて奪われます」
「どうしてだ。わしは何もしていないぞ」
「父さんは知ってか知らずか、連帯保証人になっていたのです」
父が首をかしげる。
「そんなものにはなっていない」
「この書類を見て下さい。ここに父さんの実印が捺してあります」
「待て」と言って善四郎が書類を凝視する。
「つまり、わしはこの借金を肩代わりせねばならないのか」
「このままでは、そうなります」
「そうか」と言って、善四郎が茶をすする。
それは頭の中が混乱しているというより、別のことを考えているようだった。
「父さん、しっかりして下さい。ここに書かれている名前に覚えはありませんか」
「ない」
――これはだめだ。
帰宅してから善四郎と挨拶以上の会話をしていなかったが、どうやら今の善四郎は、以前の善四郎とは違うようだ。
いさが口を挟む。
「昔から、父さんには来客が多かったんです。それで、どこの誰だか分からなくても、応接室に通していました」
「この名前に、母さんは覚えがありませんか」
「さあ」
おそらくその男は金でも借りに来たのだろう。だが話しているうちに父の様子がおかしいことに気づき、「印鑑を見せてくれ」とでも言ったのかもしれない。
――そして父の目を盗んで印鑑を盗んだのだ。
留吉は頭を冷やそうと、水道のとこまで行き顔を洗った。
――しっかりしなくては。
その後、父の書棚から『六法全書』を見つけてきた留吉は、書類を食い入るように読んだ。しかし裁判所から送られてきた書類には、落ち度も不備もなかった。唯一、署名部分の筆跡が善四郎のものではない可能性が高かったが、実印が捺されているので、申し開きはできない。
――つまり、このままではここの家と土地を取られることになる。
賠償額は十五万円(現在価値で約六千万円)に達しており、家や土地どころか財産まで根こそぎ持っていかれる金額だった。
じんわりと汗がにじんでくる。
いさが震える声で問う。
「留吉さん、何とかならないのですか」
「今の時点では分かりません。それより母さんは実印を探して下さい。見つからなければ実印の遺失届を市役所に出してきて下さい」
「それを私が――」
いさは嫁入り後、家事しかやってきていないので、そうした手続きは不案内なのだろう。
「登紀子姉さんはどうしたんです」
「婚礼の打ち合わせで、出かけています」
「帰ってくるまで印鑑を探し、登紀子姉さんが帰ってきたら市役所に行って下さい」
「分かりました。あなたは――」
「まずは債権者の安田銀行に行ってきます」
留吉は書類を持つと東京に向かった。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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