夢燈籠 第32回


 大連に戻り、何の一報も入れずに満州日報本社に戻ると、満州日報編集局長の米野豊實、同編集長の臼五亀雄、同編集委員の小林金吾らが驚いた顔で迎えてくれた。
 米野らは、連絡が取れなくなってから石原大佐に連絡し、手を尽くして探してもらうよう依頼したという。だが誰一人として、長春まで来てくれなかったのは事実だった。
 留吉は「薄情な連中だ」と思ったが、考えてみれば、留吉はこちらに来て一年にも満たない新人記者であり、彼らにとっては「かけがえのない人間」ではないのだ。だから「手を尽くした」と言っても高が知れている。
 それでも丁重に礼を言った留吉は、自分の机に着くと、山積みになった手紙を整理した。
 その中には、義母からのものがあった。
 嫌な予感がした留吉は、真っ先にそれを読んだ。
 そこには「正治危篤、至急帰れ」と書かれていた。
 ――来るべきものが来たのだ。
 最後に会った時、正治は遠からず訪れるであろう死を覚悟していた。だが留吉は、正治が死ぬなどということが現実感を伴っておらず、構わず満州に渡った。だが運命は待ってくれない。
 ――あの病(やまい)は快癒(かいゆ)することがないのだ。
 留吉は帰国を決意した。
 その場で臼五のデスクに行った留吉が辞職を申し出ると、臼五は驚き、米野にそれを告げた。
 慌ててやってきた米野が、「何も辞めることはない。一段落したら戻ってこい」と言ってくれたが、留吉は「いつまでかかるか分からず、ご迷惑をお掛けすることになります」と言って辞表を取り下げなかった。
 それでも米野と臼五は引き留めてくれたが、「実は満州日報に入ったのは、ジャーナリストになりたかったからではなく、兄を捜したかったからです」と正直に告げると、ようやく納得してくれた。

 かくして留吉が満州を去る日がやってきた。すでに昭和六年も十一月になっており、大連にも寒風が吹いてくる季節になっていた。
 大連の港には、小林と郭子明が見送りに来てくれた。
 小林があきれ顔で言う。
「まさに雷騰雲奔(らいとううんぽん)だね」
 雷騰雲奔とは、「現れたかと思うと、すぐに去ってしまうこと」を意味する中国の古典に出てくる言葉だ。
「確かにそうですね。でも自分にとっては、随分と長く感じられました」
 大連港独特の半円形のエントランスに佇み、留吉は大きく息を吸った。
 ――もう来ないかもしれないな。
 確かに一年にも満たない期間だったが、留吉はかけがえのない体験をした。
「では、私はこれで失礼するよ。君の手紙は確かに預かった。何とか兄さんに届くよう努力してみる」
 留吉は慶一宛てに帰国する旨を書いた手紙を認め、小林に託した。朱春山のアジトの場所が分からないので、通常の郵便では届くはずがない。そのため小林の伝手を使って届けてもらうことにしたのだ。
「恩に着ます」
「たいしたことではない」
「小林さん、短い間でしたが、ありがとうございました」
 小林はパナマ帽を少し上げると、ステッキをつきながら満州日報の車の方へと去っていった。
「さて、子明もここでお別れだな」
「船が出るまでお付き合いしますよ」
 そう言うと、郭子明は留吉のトランクを摑むと歩き出した。
「そうか。すまないな」
 二人は談笑しながら埠頭待合所を通り、バルコニーに着いた。
 その時、留吉の乗る船が出航の合図の汽笛を鳴らした。
「せっかく来てもらったのに、もう出航のようだ」
「本当に雷騰雲奔ですね」
「そうだな。だが人生は長いようで短い。雷騰雲奔でよいのではないか」
「さすがです」
 留吉が手を差し出すと、郭子明が強く握り返してきた。
「とても楽しかったです」
「下手をすると、俺たちはあの兵匪のアジトに埋められていたな」
「本当ですよ。もう冒険はこりごりです」
「達者で暮らせよ」
「はい。通訳の需要はありますから、これで稼いで、いつか大学に行きたいです」
「そうか。それがよい」
 郭子明がトランクを渡してきた。
「では、これで」
「待てよ」と言って、留吉は千円札を取り出すと、郭子明の手に握らせた。
「特別ボーナスだ」
「こ、こんなにいただけませんよ」
「いいんだ。危ない目に遭わせてしまったからな」
郭子明が感無量といった体で頭を下げる。
「ありがとうございます。学費の足しにします」
「ああ、それがよい。また会えるかどうか分からんが、会えたら祝杯を挙げよう」
「そうですね。また大連に来て下さい」
「よし、必ず来るぞ!」
「あてにしてませんよ」
 二人は天にも届けとばかりに笑った。
 郭子明と別れ、桟橋を渡ると、瞬く間に桟橋が片付けられた。どうやら留吉が最後の客らしい。
 上甲板に出た留吉がバルコニーを見ると、郭子明はまだいた。
 二人は手を振り合い、別れを惜しんだ。
 やがて郭子明の姿も見えなくなり、船は白波を蹴立て港外へと出ていった。
 ――あの大きな空の下に、慶一兄さんはいるんだな。
 大陸が瞬く間に小さくなっていく。
 慶一を置いて帰らざるを得ないことに一抹の口惜しさはあったが、なぜか心は晴れ晴れとしていた。
 ――俺には次の戦いが待っている。
 留吉は周りに人がいないのを確かめると、大きな声で言った。
「さらば満州!」
 満州の大地と共に、留吉の青春も波濤の彼方に去っていったような気がした。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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