夢燈籠 第23回
十二
その写真を目にした留吉は驚愕した。
「これは――、爆破直後どころか、爆破した時の写真じゃないですか!」
「そうだ。こんな写真を撮った者がいる」
田中が何枚かの写真を見せてくれた。それは爆発時にその場にいなければ撮れないものだった。
「これらの写真は河本の一味が撮ったので、彼らが記録に残したと思えば不思議ではないが、問題は爆破の様子だ」
それらの写真は、線路脇の土嚢が爆発したのではなく、列車上部が爆発したことを明らかに物語っていた。
「しかし監視所まで電線を引き、監視所でスイッチをひねって爆破したという証拠もありますよね」
「ああ、電線を巻き取るのを忘れたという一件か」
「そうです」
実は河本一派はよほど慌てていたのか、電線を巻き取るのを忘れていた。点火装置は関東軍の監視小屋にあるので、犯人が関東軍だというのは明らかだった。だが田中の観点は違っていた。
「これほど重大な事件を計画実行した者たちが、そんな大事なことを忘れるか」
「ということは――」
「わざと残したんだ」
留吉は頭が混乱してきた。
「しかし河本大佐とその一味は、自分たちがやったと言い張っているわけですよね」
「そのことか」
田中が一つ石を拾うと、嫌悪もあらわに投げ捨てた。
「当たり前だよな。河本らは一時的に予備役編入、停職、譴責(けんせき)などの罪に処されるが、ほとぼりが冷めれば、陸軍に復帰するなり、民間に下野して要職に就くなりして、これまで以上に出世できるというわけだ」
「どういうことですか」
「いいか。張作霖を爆殺して事変を起こさせたい者たちは、関東軍にも日本国内にも数多くいる」
「誰ですか」
田中が苦笑いする。
「俺に言わせるのか」
「お願いします」
「真崎甚三郎、荒木貞夫、南次郎、本庄繁、小磯国昭、そして村岡長太郎といった面々だ」
田中は、平気で上官たちを呼び捨てにした。
「では、河本大佐らは、誰かがやった事件を自分たちがやったことにしたわけですね」
「そうだ。あの男もたいした玉だ」
この事件でいったん停職とされた河本は、後に満鉄理事を経て国策会社の満州炭鉱株式会社理事長の座に就き、満州国を代表する顔になっていく。
「では、やはり蒋介石率いる国民革命軍の便衣兵が犯人なのですか」
「その可能性は否定しきれない」
「では、別の可能性もあるのですか」
その時、ちょうど満鉄の列車が通過していった。その音がやむ頃、田中が答えた。
「ああ、そうだ」
「それはいったい――」
「まだ分からんのか。ロシアだよ」
「コミンテルンですか」
田中が渋い顔でうなずく。
「俺はそうにらんでいる。しかも河本はロシア戦史の専門家だ」
河本は参謀本部勤務時代に参謀総長からロシア研究を命じられ、ロシア語からロシアの文化まで学び、関東軍きってのロシア通となっていた。
「奴は『露探』、すなわちロシアのスパイにも伝手がある」
「つまりロシアと利害が一致し、通牒(つうちょう)していた可能性があるというのですか」
「そこまでは分からんが、その可能性は否定できない」
「しかし北京発の列車に、どうしてロシア人が爆発物を仕掛けられるのですか」
「ロシア人も日本人も警戒されているので、そんなことはできない。だが奉天軍の中には、ロシアに買収されている者もいる」
――そういうことか。
実は、後に事件の首謀者が、張作霖の息子の張学良(がくりょう)の可能性が高いことが明らかになる。蒋介石と手を組むなど考えもしなかった張作霖と違い、父に代わって奉天軍の指揮官となった張学良は、爆殺事件の約半年後に「易幟(えきし)」を断行し、満州の旗を蒋介石軍の青天白日旗に換えてしまった。つまり蒋介石の傘下に入り、日本と戦う道を選んだのだ。こうした事実から、父と折り合いの悪かった張学良が、列車の天井に爆発物を仕掛けさせた可能性は高かった。
「でも、列車の天井に仕掛けた爆薬を、河本一派の偽装工作の現場でタイミングよく爆破させるのは難しいのでは」
「それは簡単なことだ。天井の爆弾にも電線がつながれ、別の車両にいた者が点火装置のスイッチを押したのだろうな」
田中が立ち止まると、「そろそろ帰るぞ」と案内役に告げた。
「待って下さい。なんで私などに、これほどの秘密を教えるのですか」
「はははは」と笑うと、田中が言った。
「君は随時、大連の上司に連絡を入れているだろう」
「仕事ですから当然のことです」
「それで俺は助かっている」
「仰せの趣旨がさっぱり分かりません」
田中が真剣な顔つきになる。
「こんなことを調べていれば、関東軍の河本派に俺は殺される。だが部外者でマスコミの君が一緒にいれば、俺の身は安全だ。仮に俺が一人でいる時に殺されても、すべてを知る君が紙面で騒げば、関東軍は政府から難詰される。ただでさえ今回の件をうやむやにした田中義一内閣に、天皇陛下はお怒りだ。天皇陛下の一言で関東軍など解体される」
――そういうことだったのか。だから田中少佐は、警護の兵も付けずにこんなところに来られたのか。
留吉は田中という人物の賢さに舌を巻いた。
「もう一つ教えて下さい」
留吉は勝負に出た。
「田中少佐は坂田慶一という少尉をご存じないですか」
「坂田慶一、か」
田中が記憶を探るように目を細めた。
「何か知っていたら教えていただけませんか」」
「坂田少尉はこの事件の後、行方をくらました」
「どこにいるか知りませんか」
「知らんな」
ようやく気づいたのか、田中が留吉の顔をしげしげと見た。
「君も坂田姓だが、坂田少尉とは、どのような関係なのだ」
「私の兄です」
「何だと――。つまり君は兄を捜すために満州に来たのか」
「そうです。このことは内密にしていただきたいのですが」
「それは分かった。しかし君は兄思いなのだな」
田中が感心したように留吉を見る。
「兄には大恩があります。それはそれとして、なぜ兄が逃亡したのか、ご存じではないですか」
「そこまでは分からん。ただ河本の下で働いていたのは確かだ」
「兄は何をやっていたのですか」
留吉の疑問には答えず、田中が強くうなずいた。
「そうか。読めてきたぞ」
「どういうことですか」
「やはり河本は、ロシアと結託していた可能性が高い」
「どうしてですか」
「一つだけ解けなかった疑問がある。実は、この事件の犯人を国民革命軍とするために、河本は阿片窟(あへんくつ)から中毒者を三人連れてきた。そのうちの一人には逃げられたが、二人を銃剣で刺し殺し、中国語で書かれた『決行趣意書』なるものを死体の胸に忍ばせた。だが逃げた一人が奉天軍に身を託し、関東軍の仕業だという証言をしたんだ」
「つまりロシアから河本大佐が偽装工作を依頼されたと――」
「そこまでは確証が持てないが、その可能性はある」
河本は偶然の出来事を自分の出世に結び付けたのではなく、ロシアと結託していた可能性があると、田中は言うのだ。
つまり河本ができることは、線路脇に爆薬を仕掛けることだ。しかしそれでは走ってくる列車をタイミングよく爆破し、張作霖を殺すことは至難の業だ。しかし前もって列車の天井裏に爆薬を仕掛けておけば、確実に殺せる。だがロシアは犯人を関東軍にしたい。一方の河本は張作霖を殺すことで、関東軍のタカ派に気に入られたい。双方の利害は、ここに一致したのだ。
「では、兄はどうして行方をくらませたのですか」
「それを聞きたいのか」
「はい。その理由さえ分かれば、兄を捜し出しせると思います」
「分かった」と言うと、田中が煙草に火をつけた。
「阿片窟から犯人候補を連れてきたのは、君の兄さんなんだ」
「まさか――」
留吉は愕然とした。
「爆発物の偽装なども兄さんが中心になって行ったと聞いている。つまり君の兄さんは、この事件に深く関与している」
「それでどうして――」
「河本一派に消されそうになったのだろう。しかも公式には国民革命軍の仕業だと発表している日本政府も、君の兄さんを保護しようとしない。つまり兄さんは、どこかに隠れるしかないんだ」
「兄はどこに――、兄はどこにいるんですか」
田中が首を左右に振る。
「広大な満州のどこかにいるはずだが、捜し出すのは容易ではない。だいいち俺が見つければ――」
田中が言葉を切る。
「田中少佐が見つければ、どうだというのです」
「関東軍に引き渡さねばならない。つまり兄さんは闇から闇に葬られるだろう」
留吉は暗澹(あんたん)たる気持ちになった。
「よく、分かりました。私は自力で兄を捜し出し、日本に連れ帰ります」
「君の健闘を祈っているが、それは難しいだろうな」
ちょうどその時、真紅に染まった太陽が地平線に消えていこうとしていた。
――兄さん、待っていて下さい。
その夕日に、留吉は兄を捜し出すことを誓った。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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