夢燈籠第13回


 大学の講義は退屈だった、と言いたいところだが、決してそんなことはなく、どの講義もそれなりに興味深かった。それが知的好奇心や知的欲求だと気づくのは、もっと後になってからだが、漫然と講義に出るのではなく、また試験のために講義に出るのではないことが、留吉にとっての誇りであり、また大学に入ってよかったと思うところだった。
 平日は下宿と大学を往復し、たまには壮司か別の誰かと盃(さかずき)を傾け、土日は近くの中華料理屋「栄来(えいらい)軒」で、出前のアルバイトをした。そんなことをしなくても親からの仕送りだけで十分に生活できるのだが、アルバイトは学生時代にしかできないことだと割り切り、出前という仕事を選んだ。
 そんな平穏な日々が卒業まで続くかと思っていたが、大学三年の春、珍事に見舞われた。
 いつものようにアルミ製の岡持ちを持ち、西早稲田のあるアパートに出前を運んでいった時のことだ。
 表札を見て注文主と確かめてからノックすると、中からドアが開けられた。
「ご注文をお届けに参りました」
 この部屋から注文が入ったのは初めてだった。
「お前は誰だ」
「誰だって――、出前持ちですが」
 その眼鏡(めがね)をかけた優男(やさおとこ)は室内に向かって問うた。
「おい、誰か出前を頼んだか」
 室内からは「さあ」といった反応が返ってきた。
「間違いですかね」
 留吉がもう一度住所を確かめようとした時、眼鏡が息をのむように言った。
「お前、特高(とっこう)だな」
「とっこう、ですか。いや栄来軒ですが」
「いいや、特高だ!」
 そう言うや、眼鏡の男は強い力で留吉を室内に引っ張り込むとドアを閉めた。岡持ちは外に置いたままだ。
「何をするんですか!」
「うるさい!」
 中にいた男たちも、どやどやと玄関口までやってきた。
「いったい僕が何を――」
奥につれていかれた留吉は、男の一人に羽交(はが)い絞めにされた。だが客は客なので、抵抗するのも憚(はばか)られる。
続いて「静かにしろ」と言われ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされる。
「あっ、やめて下さい」
「おい、電気を消せ。外を見ろ!」
 別の声で電気が消された。
 ――まさか殺されるのか。
 次の瞬間、留吉は引き倒されると、体の上にのしかかられた。
 布団蒸しにされた時のように息が詰まりそうな中、留吉は声にならない声を上げた。
――息ができない。
 だがのしかかっている男たちに容赦はない。
――ああ、苦しい。
 気を失いそうになったが、気を失えば死ぬと思い、少しでも息ができる態勢に体を動かそうとした。
「察(サツ)の姿は見えない」
「本当か」
「ああ、外に動きはない!」
 その時だった。
「お前ら何をやっている」
「先輩!」
 突然体を押さえる力が弱まったので、体をにじらせて男の腕から脱し、息ができるようにした。戸口の方を一瞥(いちべつ)すると、留吉の岡持ちを持った髭面の男が立っている。羽織に袴(はかま)を穿(は)いたその姿は、明治初期の不平士族を思わせた。
 ――もうだめだ。
 こんな男に来られては、命がいくらあっても足りない。
「ああ、助けて――」
 猿轡の間からかすれた声が出たが、誰も気づいてくれない。
 不平士族のような姿をした先輩は、留吉を見下ろすようにして言った。
「お前ら、そいつは本物の出前持ちだぞ」
「どうしてそれが分かるのです」
「出前を頼んだのが俺だからだ」
 ――ああ、助かった。
 その言葉を聞いたとたん、留吉の意識は薄れていった。

「さっきはすまなかったな」
 どうやら先輩と呼ばれた男は、この集まりのリーダーらしい。
「こっちは死にそうだったんですよ」
「分かっている。本当にすまなかった」
先輩によると、自分のアパートで人数分の出前を頼んでから、こちらに向かったが、自分が到着する前に留吉が出前を運んできてしまい、特高だと間違えられたということだった。
「まずはこれを飲め」
 男がコップ一杯になった日本酒を渡してきた。
「いや、仕事中なので――」
「いいから飲め。気つけ薬だ」
 留吉は気圧(けお)され、言いなりになるしかなかった。
「俺たちは全日本学生社会科学連合会という社会思想研究団体だ」
「そ、そんなことはどうでもいいです。なぜ僕をこんな目に遭わせたのですか」
「申し訳ない。実は先日、明大の七日会という同じような団体が、特高に急襲されたんだ。その時、特高は部屋に押し入るために中華料理店の出前持ちを装ったというわけだ」
 後輩たちは正座して悄然(しょうぜん)としている。
「よく分かりませんが、あなたたちは悪いことをしているんですか」
「そうではない。正しいことをしているんだが弾圧されているんだ」
「そんなことは私に関係ありません。早く金を払って下さい」
 ポケットから取り出した財布から一円札を抜き取った先輩が、「釣りは要(い)らない」と言って寄越した。
「よろしいんですか」
「ああ、こっちが悪いんだ。ただしな――」
 先輩が声を潜める。
「このことは黙っていてくれないか」
 ――そういうことか。
 全日本学生社会科学連合会というたいそうな名前がついているが、どうやら非合法の集まりらしい。
「どうだ。君も早稲田の学生だろう」
「それとこれとは関係ありません」
「そうだな。しかしこの場所を警察に言わないでほしいんだ」
 ――どうする。
 密告という行為は好かないが、非合法な活動をしている集団を見逃すわけにはいかない。
「あなたたちは非合法な団体ではありませんか」
「俺たちは正しいことをしているんだ」
「それは本当ですか」
「ああ、確信を持っている。このままではこの国は滅ぶ」
「滅ぶって、どういうことですか」
「諸悪の根源は軍部さ」
 先輩が昂然(こつぜん)と胸を張る。
「大正デモクラシーは知っているだろう」
「ええ、藩閥(はんばつ)政治に嫌気がさした政党政治家たちが、民衆を焚(た)き付けて起こした様々な分野の社会運動ですよね」
「そうだ。十年ほど前まで盛んだったが、藩閥に代わる軍部の弾圧によって、今は下火になっている」
 ノンポリを自認する留吉だったが、新聞は読むので、それくらいは知っている。
「大正デモクラシーは資本家から搾取されている労働者の地位向上を謳(うた)い、ストライキなどを行ったと聞きました」
「そうだ。よく知っているな。日露戦争で多大な犠牲を出したにもかかわらず、日本政府は戦死したり、怪我(けが)をしたりした兵士たちの遺族にろくな補償をしなかった。しかも戦費増大の皺寄(しわよ)せを増税で補ったのだ。その結果が日比谷(ひびや)焼き討ち事件になる」
 その後も、先輩の熱弁は続いた。それは十分に興味を引くものだったが、留吉には仕事がある。早々に引き取ろうとしたが、先輩は「君は見込みがある。一緒に戦おう」と言ってガリ版刷のチラシを渡してきた。
「これは――」
「集会のチラシだ。誰にも見せるな。君を信じて渡すんだ」
「ありがとうございます」
 礼を言って、連中がアジトと呼んでいるアパートの一室を後にした。慌てて「栄来軒」に戻ると、店主にこっぴどく叱られた。仕方なく「旧友に出会って」と言い訳をしたものの許してくれるはずもなく、しかも「酒臭い」と罵られた。結局、その場で首を言い渡された。
 自分が悪いので致し方ないが、これまでの精勤ぶりを全く評価されなかったのが残念でならなかった。
 その後、秘密の集会に顔を出した留吉は、先輩こと樋口新平(ひぐちしんぺい)と親しくなった。もちろん単に人柄に惹(ひ)かれたわけではない。その志や大義を聞くほどに、日本という国が未曽有(みぞう)の危機に陥りつつあることを知ったからだ。

 夏休み前の六月下旬、再び樋口に誘われたので、全日本学生社会科学連合会、いわゆる学連の集会に顔を出した。集会といっても、街頭で政治的主張をアジるのではなく、皆でアジトに集まって政治的なことを話し合うだけだが、それが知識欲をいたく刺激されるのだ。
 新聞で国内・国外の情報を知ることはできても、それをどう解釈し、どう行動に移していくかは分からない。だが彼らは、それを語り合っている。そこに留吉は惹かれた。
 だがいつもは威勢のいい学連の連中も、この日ばかりは深刻な顔をしていた。少し遅れて着くと、樋口が「おい、出前、これを知っているか」と言って新聞を差し出してきた。
 留吉は、学連内では「出前」という渾名(あだな)で通っていた。
「これは何ですか」
 その新聞の一面には、「奉天驛(ほうてんえき)に近づける矢先、張(ちょう)氏の列車爆破さる。張作霖(さくりん)氏始め負傷多數」と書かれていた。さらに読むと、この爆破は蒋介石(しょうかいせき)ら国民革命軍なる団体の仕業(しわざ)だという。
「見ての通り、これは六月五日の新聞朝刊だ」
「この記事は私も読みましたが、これが何か――」
「いいか、これは嘘だ」
「嘘ってどういうことですか」
 留吉には、新聞とは常に正しい記事を書くものだという認識がある。
「ここに国民革命軍の犯行だと書かれているだろう。これは誤報だ。本当は、関東軍が国民革命軍の犯行に見せかけたのだ」
「なぜそうだと言い切れるのですか」
「それだと辻褄(つじつま)が合うからだ」
「待って下さい。関東軍が張作霖を殺して、どんなメリットがあるのですか」
「それを口実にして南満州に進駐しようというのさ」
「でも張は、関東軍が支持していた傀儡(かいらい)ではないのですか」
 張作霖は日露戦争で日本に協力したことで、関東軍の庇護(ひご)を受けて有力な軍閥となり、満州の実効支配を遂げていた。
「それが違うんだ」
 樋口が意味ありげに首を左右に振る。
「当初、双方は歩調を合わせていた。だが張という男も野心家で、関東軍の意向を聞かずに満州から中国本土へと侵攻しようとした。既成事実を作ってしまえば、日本政府と関東軍も張を支援せざるを得なくなるからな。しかし大正十一年(一九二二)の第一次奉直戦争で、張は欧米の支持する直隷(ちょくれい)派に敗れた。これにより関東軍の言うことを聞き、鉄道建設や産業育成に力を尽くすと誓ったのだ。しかしそれは、時間を稼いで態勢を整えるための方便だった」
 樋口の顔が近づいてくる。その口臭が鼻をつくが、留吉は我慢した。
「そして大正十三年(一九二四)の第二次奉直戦争で勝つと、張は関東軍の許可を得ずに長江(ちょうこう)まで攻め寄せた。ところが兵站(へいたん)が延びきり窮地に陥った。だが関東軍は張の予想通り、支援のために兵を出した。それで張は得意満面になったというわけだ」
「つまり張は、関東軍を手玉に取ったのですね」
「その通り。張というのはたいした玉さ。そして大正十五年(一九二六)に蒋介石率いる国民革命軍の北伐(ほくばつ)によって直隷派が壊滅させられると、今度は日本から欧米に乗り換えようとした」
 樋口が得意満面に話す。張作霖が、日本政府と満州軍を手玉に取るのが楽しくて仕方がないのだろう。
「しまいには大正十五年(一九二六)には北京(ペキン)に入城し、大元帥の地位に就くと、『自らが中華民国の主権主になる』と宣言し、反共・反日の旗を掲げた。そして昨年の国共合作(こっきょうがっさく)の破棄で、遂に共産党とも手を切った」
 昭和二年(一九二七)、国共合作が破綻し、張は北伐の継続が叶(かな)わなくなったが、それが逆に欧米から好感を持たれ、欧米、とくに米国と張の関係が強固になる。
「それだけならまだしも、張は関東軍の虎の子でもある南満州鉄道に対抗する路線を、欧米の支援で築こうとしたんだ」
「なるほど、たいした男ですね」
「ああ、大胆にして細心。駆け引きにかけては、歴史上並ぶ者がないほどだ。ところがだ!」
 樋口が講釈師のように机を叩く。
「今年の四月、南京(ナンキン)国民政府の蒋介石が国民革命軍を編成し、張に戦いを挑んだ。これまで張は圧政を敷いていたため、配下も国民もついてこず、蒋介石に惨敗を喫した。関東軍は第二次山東(さんとう)出兵によって蒋介石軍と対峙(たいじ)するが、『満州には侵攻しない』との条件で講和し、遂に張を見捨てたのだ」
 樋口が折れ曲がった煙草に火をつけた。どうやらここまで熱弁を振るったので、煙草を吸うのさえ忘れていたようだ。
「それで張は満州軍に殺されたのですね」
「ああ、張は自らの本拠の奉天に戻り、反攻態勢を整えようとした。ところがその途次、関東軍に鉄道を爆破されて死んだのさ。張が手に余るのは、関東軍も身に染みて分かっていたからな」
 反政府主義者の樋口だが、いつの間にか日本の立場で語っていた。
「国際政治というのは凄まじいものですね」
「そうだ。これが現実だ。こうした裏話は新聞には載らない。政府の検閲があるからな」
「では、なんで樋口さんはご存じなのですか」
 樋口が薄ら笑いを浮かべる。
「それは聞かない方がいいぜ」
「どうしてですか」
「情報源はいろいろある」
 樋口の顔が厳しく引き締まった。しゃべりすぎたと感じたのだろう。
「さすがですね」
「このことは黙っていろよ。しゃべれば特高が来る」
「分かっています。僕は雑魚(ざこ)ですから口を閉ざします」
 そのうちアジトに人も集まってきたので、話はここまでとなった。
 これだけなら国際情勢の話なので他人事(ひとごと)だが、何の運命のいたずらか、この事件は後年、留吉にも大きな影響を及ぼすことになる。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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