夢燈籠第50回

第四章 長い夜の果てに

「神は石油を持てる国に味方し給もうた」

 これは戦後、東大名誉教授が残した言葉だが、まさに二十世紀の戦争は資源の争奪戦だった。資源を持つ者が勝ち、持たざる者は持つ者の膝下(しっか)にひれ伏さねばならなかった。
そんな原理に、戦前から気づいていた男の一人が石原莞爾(いしはらかんじ)だった。
石原は『世界最終戦争』の中で、「われわれは第一次欧州大戦以後、戦術から言えば戦闘群の戦術、戦争から言えば持久戦争の時代に呼吸しています」と記し、いち早く資源の確保を訴えていた。
 石原の考えは明快で、これからは男性的な決戦戦争よりも、女性的な持久戦争が主流になるので、米ソ対決後の日米の最終戦争に備えるべく、資源の確保を重視していくべきだというのだ。
 十九世紀、イギリスを中心に起こった産業革命を支えたのは石炭だった。石炭を燃料とする蒸気機関は列車や軍艦を動かし、石炭産業は巨万の富を生み出した。
ところが一八五九年、米国のペンシルベニア州で油田が発見されることで、すべては一変する。米国は石油が石炭に代わるものと認識し、すぐさま石油精製事業を軌道に乗せ、ガソリン・エンジンやディーゼル・エンジンという新たな動力を開発した。かくして二十世紀の燃料の主役は石油となった。
 それを証明したのが一九一四年に始まる第一次世界大戦だった。戦車や飛行機といった石油を燃料とする内燃機関で動く新兵器が登場し、それが勝敗を左右するようになっていった。
 ドイツと戦っていたフランスの首相のクレマンソーが、「石油の一滴は血の一滴」という名言を残し、ウィルソン米国大統領に石油を求めたのは、この頃の話だ。
 一方、第一次世界大戦当時、ドイツは欧州最強の艦隊を持っていたが、石炭から石油への転換が遅れることで敗れ去った。
 戦後、中東が無尽蔵の産油地帯だと分かり、英米仏がその利権を独占する。
第一次世界大戦で戦勝国になったとはいえ、日本はドイツ同様、国土から石油は出ず、石油利権も持たない国だった。それゆえ政府も軍部も石油の確保に奔走(ほんそう)していくことになる。

 目的地のジャライノールに行くには、東清鉄道の終点の満州里まで行かねばならない。
新京(しんきょう)からハルピンまで満鉄本線を使い、そこで東清鉄道に乗り換え、ハルピンとチチハルを通過し、大興安嶺(だいこうあんれい)を越えてハイラルを経た後、黒龍江を渡り、ようやく満州里に着く。
満州里は北京から北へ二千三百キロ、ハルビンから西へ九百三十キロの内蒙古自治区にあり、西はすぐ国境線となっており、ロシアのマチェブスカヤという町がある。
満州里はかつて臚浜(ロヒン)という名だったが、「清朝の領土である満州は、ここから始まる」という意味を込めて満州里と改名された。
満州里からは、関東軍が用意してくれた「九五式小型自動車」と「九四式六輪自動貨車」数台に分乗し、調査隊一行は目的地のジャライノールを目指した。
 満州里から東に三十里ほど行ったところに、ジャライノールはある。その語源は蒙古語のダライ・ノール(大きな湖)から来ている。確かに南に湖があり、ダライ・ノールと命名されていた。
 ――こんな何もないところがあるのか。
満州里からジャライノールまでは、見渡す限りの広漠たる平原が広がっていた。まさに不毛の地だ。それゆえ華北でありながら漢字の地名はつけられておらず、原住民の蒙古族が呼んでいた地名をそのまま使っていた。
土埃(つちぼこり)を蹴立てながら道なき道をしばらく行くと、平原の彼方に油井(ゆせい)らしきものが見えてきた。
あまりに過酷な地に行くため、今回は周玉齢(しゅうぎょくれい)を連れてきていない。その代わりに、日本石油から満州石油に出向している長田正則(おさだまさのり)という技術者兼通訳が同行してきていた。
「また、ここに来るとはな」
 長田が自嘲気味に呟く。長田は明るくて気さくなので、すぐに打ち解けた。
「いいとこじゃないですか」
 留吉の皮肉に、長田が声を上げて笑う。
「その通り。いいとこだよ。何にも煩わされることなく孤独になれる」
「長田さんは、ここにどのぐらいいたんですか」
「昭和八年の半ばから十年の半ばまで約二年だね。食い物どころか水も底をついた時があって、もう二度と来るつもりはなかった」
 長田によると、満州での石油採掘はジャライノールから始まったという。ここに油兆があるという知らせは、一九二八年頃にロシア人からもたらされた。つまり一緒に採掘して事業化を図ろうという提案だ。満鉄ではロシア人技師を雇って調査に乗り出すが、油兆はアスファルトで、しかも「アスファルト鉱床としては鉱量が少ないので事業化は難しい」という結論だった。
 その後、満州事変を挟み、関東軍は国防資源調査隊を編成した。この時の調査では石油の兆候が認められたため、俄然(がぜん)色めき立った関東軍は試掘を決定した。
 これを受けた日石(にっせき)は昭和九年(一九三四)、満州石油を創設し、本格的な試掘に踏み切るが、いかんせん満州事変の余波で、満州里周辺には正規軍なのか馬賊なのか正体不明の盗賊が跋扈(ばっこ)し、水や食料が略奪に遭うこともしばしばだった。そのため日本人技術者たちから文句が出て、試掘は頓挫(とんざ)しかかっていた。
 長田が得意げに言う。
「さすが石原さんだ。今回はしっかり補給線を確保してくれると、君に約束したんだろう」
「はい、そう仰せでした」
「確かだろうな」
「もちろんです。関東軍の駐留部隊も多いので、水と食糧には事欠かないでしょう」
 盗賊に襲われるのは、満州里の駅からジャライノールまでの間だった。そのため石原は、食糧等の運搬の際には、満州里に駐屯する部隊から警備兵を付けてくれた。
「それなら安心だが、君はよくあの難物に気に入られたな」
「ああ、そのことですか」
 留吉が、これまでの石原とのかかわりを語った。
「なるほどな。馬賊相手に派手にやったのだな」
「ええ、そのあたりが気に入られたのだと思います」
「でも、君は石油に関しては素人なんだろう」
「そうなんです。でも懸命に学ぶつもりです」
「なるほど、そうした意気込みも買われたんだな」
 やがて試掘現場に到着した。そこは厳重に鉄条網が張りめぐらされ、中には設備を守る関東軍の兵と管理を担当する満州石油の中国人社員が数名いた。
 一行は出入口で通行証を示し、中に入れてもらった。
「ここは何度か馬賊に襲われたが、関東軍が撃退に成功した。それから連中は、ここを襲わなくなった」
 長田が自慢げに言う。
「さてと、一服してから打ち合わせだ」
 いったん解散となり、留吉は宿舎の一室に落ち着いた。
 ――随分と遠くに来たものだな。
 自分の運命は自分で決めるべきだと思うが、運命という乗り物は、人を勝手にどこかに連れていく。運命に翻弄(ほんろう)されてジャライノールなる地まで来てしまった留吉だが、それもまた面白いと思った。
 部屋でくつろいでいると、打ち合わせをするという触れが回ってきた。
 ここで最も大きな建物にある会議室に入ると、すでに技術者が集まっていた。
「ああ、来た、来た。彼が今話していた坂田留吉君だ。一応、陸軍軍属となっているが、元は記者だった。そうだよね」
「は、はい」
 留吉が簡単に自己紹介すると、早速技術者の一人が問うてきた。
「ということは、君は石油に関しては素人なんだね」
「そうです。そのことは石原大佐に確認しましたが、『それでもよい』と仰せなので、この仕事を引き受けました。私の役割は、必要な物資を取りそろえ、さらに三カ月に一度程度の頻度で新京まで戻り、石原大佐が指名した将官に経過報告をすることです」
 別の一人が確かめる。
「要は、ここの庶務をやってくれるんだね」
「そうなります」
 長田が言う。
「二年前にここができた頃は、庶務を中国人に任せていたんだが、ここを建てるための資材や食い物を横流ししていたんだ。とんでもない奴だった」
 別の一人が付け加える。
「もちろん中国人にも真面目な者はいる。彼らに偏見を持ってはだめだ。われわれは『五族協和』を実現するために、信頼できる者を見極めていかねばならない」
 それは留吉も同感だった。郭子明(かくしめい)のような信頼できる者もいれば、全くでたらめな輩(やから)もいる。
 ――それが大陸なのだ。
 大陸で生きている者たちは民族も違えば習慣も違う。しかも日本のように画一的な教育を受けていないので、何を考えているのか分からない者が大半だ。
 長田が「あっ、そうだ。まだ紹介していなかったな」と言いながら、技術者たちを紹介する。
「俺と同じように日石から出向でやってきた面々だ。右から――」
 同僚を紹介し終えると、長田は白髪の紳士を示した。
「そして、こちらが京大の松沢(まつざわ)教授だ。地震学の大権威だ」
 先ほど「五族協和」を唱えた人物が会釈した。
「松沢実(みのる)です。専門は地震研究で、主に重力偏差と磁気探査から石油のありそうな断層を探っていきます」
 松沢が、これまでの経緯を語る。
 昭和七年(一九三二)、満鉄から話を持ち掛けられた関東軍は、国防資源調査隊を編成し、ジャライノールに派遣した。この時の探査でアスファルト層は、さらに地下の油層から伝ってきた脂が固化したものと判明した。つまり見込みがあるということだった。
 関東軍は、この年に建国された満州国政府の名で、満鉄にジャライノールでの試掘を命令した。満鉄は日石の協力を得て、翌昭和八年から試掘を開始する。
 ところがダイヤモンド・ボーリングという方法で、四つの坑が掘られたが油兆はなく、さらに地質調査をして、有望な場所を掘ることにした。昭和九年には満州石油株式会社が設立され、満鉄から事業を引き継ぐことになった。
 長田が話を替わる
「というわけだ。それで今年から関東軍が本腰を入れて支援してくれることになり、われわれが再び招集されたというわけだ」
 松沢が再び語った。
「それで今回の方針ですが、重力偏差と磁気探査の結果から湖の北西岸が有望なので、そちらを重点的に当たっていきます。それではお配りした書類を見て下さい」
 会議は技術的な話に移っていったので、留吉にはさっぱり分からなかった。
 結局、この年は地質調査で終わり、厳しい寒気が押し寄せる前に一行は新京に戻り、来年の四月から本格的な試掘に入ることになった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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