夢燈籠 第19回
八
四月一日、満州日報の東京支社に出社すると、その日のうちに満州行きの辞令を受け取った。二週間ほどは研修と身辺整理に当てられたが、四月中旬に神戸(こうべ)港を出港する大連行きの旅客船に乗れとのことだった。
神戸と大連を結ぶ大阪商船の日満連絡航路は、なんと週二回も出ていた。
むろん留吉に否はない。もっと早く行きたいくらいだ。
留吉は友人や知人に葉書で一時的な別れを告げたが、岩井から返信が来て「四月十日に会いに行く」とのことだった。こちらの都合も確かめずに来るというのも岩井らしかったが、とくに用事もないので会うことにした。
「こんな気取った場所を指定してくるとは、壮司らしくないな」
指定された時間に上野精養軒(せいようけん)に着くと、珍しく岩井は時間前に待っていた。
「構わんさ。今日は俺におごらせろ」
「いいのか。まだ新米弁護士だろう」
「俺は司法試験に受かっていないので弁護士見習いだが、学生時代に弁護士事務所で働いていたので、給料はもらっていた」
「そうか。では、お言葉に甘えさせていただく。満州に行けば、頼りになるのは金だけだからな」
「生きて帰ってきたら、今度はお前がおごれ」
「よし、約束しよう。だが、それが嫌で内地に戻らないかもしれんぞ」
「それは許さん。大金持ちになって戻ってこい」
二人が声を上げて笑ったので、近くの客が非難するように顔を向けてきた。
「おっと、ここは居酒屋じゃなかったな」
「そうさ。由緒正しい上野精養軒さ」
二人は忍び笑いを漏らした。
新橋・横浜間で鉄道が開通した明治五年(一八七二)、精養軒は築地(つきじ)で開業した。実はこの年、明治天皇が肉食を宣言し、宮中において国賓(こくひん)やVIPを招く時の正餐(せいさん)がフランス料理となった。これによりフランス料理の一大ブームが起こる。精養軒はその波に乗って繁盛し、上野公園開園の際に上野に移り、高級フランス料理店の草分けとなっていった。
「ところで正治さんの具合はどうだ」
「よくはない。どうやら大きな手術をせねばならぬようだ」
「正治兄さんは若い。手術をすればよくなる」
「ありがとう。俺もそれを信じている」
壮司がナプキンを胸に掛けたので、留吉もそれに倣った。それを見た給仕がワインを勧めてきたので、壮司は赤ワインのボトルをオーダーした。
「それにしても、よく満州行きを決意したな」
「ああ、前から行きたかったこともある」
「嘘をつけ。行方不明になった兄さんを捜しに行くのが目的だろう。となれば、お前を本来なら守ってくれるはずの軍部からもにらまれる。それを覚悟しているのか」
壮司には、慶一が張作霖爆殺事件に関与しているとは言わず、作戦行動で行方不明になったとだけ伝えていた。
「その通りだ。満州軍は『こちらで捜すので任せてくれ』と言ってきた。それを無視するのだからな」
「何とも無鉄砲な奴だ」
「無鉄砲は承知の上だ。だが満州日報の伝手は使える」
「仕事でもないのに誰も手伝ってくれないぞ。しかもお前は、あちらに知己はおらず、中国語もしゃべれん」
「そうだ。だから当たって砕けろだ」
「本当に当たって砕けるなよ」
運ばれてきた前菜の「伊勢海老(いせえび)の凍疑物(よせもの[ジェリー寄せ])」に、二人は早速手をつけた。
「どうだ。うまいだろう」
「いつも来ているような言い方はよせ」
二人が再び笑い合う。
「で、見込みはあるのか」
「全くない。現地に行って出たとこ勝負だ」
「そうか。それはたいへんだな」
「ああ、満州は広大だからな」
自分でも感覚的にその広大さが摑めていないが、とにかく広い範囲を捜さねばならないのは事実だ。
「でも、お前が羨ましい」
「なぜだ。満州には何もないぞ」
「いや、広漠(こうばく)とした大地だからこそ、人間を鍛える上で恰好(かっこう)の舞台になる」
「人間を鍛えるか。それもそうだな」
続いて青豌豆羹(あおえんどうあつもの[グリーンピースのスープ)]が運ばれてきた。
「音を立てずに飲むのが西洋のマナーだ」
「それくらい分かっている」
そのスープは、香りがほどよく胃の腑(ふ)に染みるようだった。
「あちらの生活は、よほど過酷なんだろうな」
「おそらくな。でも大陸浪人になるわけではない。寄る辺ない地を放浪するのでないなら命を取られることもあるまい」
明治から昭和にかけて大陸浪人という言葉があった。特定の組織には所属せず、大陸を股にかけて旅をし、そこで得た情報を日本軍に売るなどして礼金をもらっていた。中には、旅人のように大陸を放浪する者もいたが、帰国してから大陸浪人だったことを売りにして政治活動に従事する者も多い。
スープを飲み干してスプーンを置くと、壮司がしみじみとした口調で言った。
「必ず戻ってこいよ」
「お前におごるためにか」
二人は笑い合ったが、すぐに壮司は真顔になった。
「いや、お前がいないと退屈する」
「そんなことはない。すぐに弁護士活動が忙しくなり、俺のことなど忘れてしまうさ」
「そうかもな。だが無駄死にはするな」
「ありがとう」
壮司らしい友情の表現だったが、留吉の心に染みた。
続いて福子捏粉包焼(ふっここねこつつみやき[パイの包み焼ソースショロン])、牛繊肉(ふぃれにく)フィナンシェル盛合せ(牛フィレ肉フィナンシェル風)、天門冬(あすぱらがす)マルテーズ被汁(かけじる[アスパラガスのサラダ、ソースマルテーズ])が運ばれてきて、二人とも見事に平らげた。
「ああ、うまかった」
「精養軒だからな。当たり前だ」
最後に桃糖液烹(シロップ煮)アイスクリン添え(桃のコンポートとアイスクリーム)と珈琲がテーブルの上に置かれた。
「これですべてだ」
「大満足だ。大陸に渡れば、こんなものは食べられないからな」
二人は最後に笑い合うと、残ったワインを互いのグラスに注(つ)いだ。
続いて壮司は立ち上がると、周囲を憚(はばか)らず大声で言った。
「坂田留吉君の満州での活躍を祈り、乾杯!」
それを聞いた周囲の客から拍手が起こる。留吉は立ち上がると、それに応えるように頭を下げた。
椅子に座り、ワインを飲み干すと熱いものが込み上げてきた。
「壮司、ありがとう」
「よせやい。友として当然のことだ」
壮司の目には、涙が浮かんでいた。
――これで心残りはない。
留吉に、日本を後にするという実感が湧いてきた。
四月十七日、鉄道で神戸まで行った留吉は、「亜米利加(あめりか)丸」に乗り、一路大連を目指した。
かくして留吉の人生は新たな一ページを刻むことになる。
Synopsisあらすじ
江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!
Profile著者紹介
1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。
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