夢燈籠 第40回

 草野と一緒に待ち合わせ場所の渋谷駅に行くと、中原が煙草(タバコ)を吸っていた。その顔が驚きに満ちる。草野が不思議な縁を説明すると、中原は大いに喜んだ。
 待ち合わせ場所には、村井康男(むらいやすお)と阿部六郎(あべろくろう)という詩作仲間も来ていた。留吉は丁重に自己紹介し、詩については全くの素人だということも皆に伝えた。
 入った店は、道玄坂(どうげんざか)の渋谷百軒店(ひゃっけんだな)のほぼ中央辺りにある「千代田軒」という洋食屋だった。
「俺なんかの誕生会を開いてくれてありがとう」
 中原が殊勝そうに言う。実は中原はその強烈な個性から、友人を作っては仲違(なかたが)いを繰り返していた。だがこの三人は、まだ出会ったばかりで、年齢も五つばかり上なので、中原の毒舌にも寛容なようだった。
 草野が中原に水を向ける。
「中原は、いつから詩を書いている」
「俺はずっと短歌をやっていた。それを故郷の防長(ぼうちょう)新聞などに投稿していたんだ。その後、学校を落第して、恥ずかしいからと言って両親が京都に下宿させてくれた」
 中原の郷里は山口県の湯田(ゆだ)で、父親は軍医をやっていた。ずっと成績は優秀だったが、十六歳になる頃、自我が目覚めたのか文学熱が高じ始め、勉強をしなくなる。そのため山口中学三年を落第し、それを機に知己のいる京都に引っ越し、立命館中学に編入した。
「ということは、その頃に自由詩に転じたのだな」
「うむ。関東大震災直後の大正十二年九月、京都丸太町橋際の古本屋で高橋新吉(たかはししんきち)の『ダダイスト新吉の詩』に出会ってからだな」
 ダダイストとはダダイズムを信奉する詩人のことだ。ダダイズムとは、第一次大戦中にスイスで起こった文学の革新運動で、既成の価値観を破壊し、過去の芸術すべてを否定するところに新しさがある。
具体的に言えば、詩の場合、偶然浮かんだ言葉を大切にし、「何も意味しない」言語の羅列にこそ自由があると唱えることだ。この運動は第一次世界大戦で瓦礫(がれき)の山と化したヨーロッパを見て、虚無感を抱いた若き芸術家たちによって提唱された。それが関東大震災で荒廃した東京と似通っていたため、日本でもたいへんなブームとなる。
 中原は高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の冒頭にある「DADAは一切を断言し否定する」という言葉に魅せられ、自らダダイストを名乗るようになる。
 阿部が茶化す。
「そうか。中原にとって『ダダイスト新吉の詩』との出会いは、初恋のようなものだったんだな」
「ああ、実際に恋もしたしな」
 事情に通じている村井が言う。
「長谷川泰子(はせがわやすこ)のことだな」
「そうだ。小林秀雄(こばやしひでお)に取られちまったけどな」
 一同に気まずい雰囲気が漂う。
 長谷川泰子とは、新劇の劇団「表現座」の女優で、中原の三つ年上だった。中原は大正十三年(一九二四)四月から、同棲生活に入る。泰子は中原にとって間違いなくファム・ファタル(宿命の女)的な存在で、中原の詩想を泰子は大いに刺激した。だが翌年、二人は東京に出るが、小林秀雄と邂逅(かいこう)し、泰子が小林の元に走ることで、中原の最初の恋は終わる。
 草野が中原を制する。
「その話はよそう」
「どうしてだ。坂田君は知らないだろう」
 留吉が口を挟む。
「いえ、私に話さなくても構いません」
「そうか。それならよいが――」
 中原は酔いが回ってきたのか、呂律がおかしくなってきた。
「関東大震災という未曽有の災害に接し、俺は人間社会の営みが実に脆(もろ)いものだと知った。自然の脅威に対し、いかに人間が無力かを知ったのだ」
 すでに村井と阿部は別の話に興じている。
「地殻も亀裂が入ったが、表現も震災前と後では全く違うものになった。否、違うものにならねばいかん」
「それは分かるが中原、なぜダダイズムなのだ」
「当たり前だろう。奈良平安の昔から、日本人は端正な歌の世界に埋没し、昭和に至っても、それは変わらない。まさに教師に『上手にできましたね』と言って頭を撫(な)でられる小僧と一緒だ」
「それはひどいな」
「大半の詩人がそんなものだ」
「俺もそうだというのか」
 中原が沈黙する。当たり障りのない話をしていた村井と阿部も、こちらの様子を窺(うかが)う。
「まあ、そうだな」
「失礼な奴(やつ)だな」
 草野が顔を真っ赤にする。
「失礼も何も嘘はつけない」
「では、お前は何だ」
 中原がけろっとした顔で言う。
「天才だよ」
 その言葉に呆気(あっけ)に取られた草野が唇を噛む。
「そうかもしれん。だが俺を貶(おとし)めてどうなるというのだ」
「貶めるだと。そんなこと(は)していない。質問されたから、自分の思うところを述べたまでだ」
 草野が酒を流し込む。
「そうかもしれん。言われてみれば、私も年貢の納め時なのかもしれん」
 留吉は草野が気の毒になってきた。だが草野の詩をさほど知らないのだから、反論のしようがない。他の二人も黙っているところを見ると、中原の言葉が真を突いているのだろう。
 中原が得意げに言う。
「気にすることはない。詩というのは革新的であればよいというわけではない。君のように誰にも分かりやすい詩を書く方が、レベルの低い読者は喜ぶ」
「この野郎!」
 草野は激昂(げっこう)したが、中原はどこ吹く風だ。
「怒れ、怒れ。そのマグマの中から新しい表現が生まれてくる」
「畜生、表に出ろ!」
「いいだろう」
 草野にとって、自分の詩を否定されるということは、親兄弟をけなされるのと同じことなのだろう。
 だが確執はここまでだった。村井と阿部が双方をなだめたからだ。しかも帰り際には、双方は打ち解け、共通の友人のネタで大笑いするほどだった。
 会計して外に出て初めて時計を見ると、もう十二時を回っていた。
 中原は「今日は俺の誕生日だ!」と喚(わめ)きつつ、人影のなくなった百軒店街の裏側にある坂を駆け下りた。それを四人が追いかける形になった。
「おい、待て、中原!」
だが中原は意に介さず、農大正門から道玄坂に通じる道路を横切り、その勢いで石を拾うと、どこかの家の軒灯(けんとう)に向かって投げた。派手な音がして軒灯が割れる。
その時、家の灯(あかり)がつくと、二重回しを着た恰幅(かっぷく)のよい男が現れ、中原の首根っこを摑んだ。
常なら謝って弁償すれば済む話だが、男は怒り、続いて出てきた家人に、警察を呼ぶように告げた。
中原はそれでもへらへらしていたが、残る四人は男に近づき、平謝りに謝ったが、男は許してくれない。やがて警察がやってきて、男から事情を聞いた。どうやら男は区議会議員らしい。
男の剣幕(けんまく)が凄いので、警察も許すわけにはいかず、車に乗せられて渋谷警察署に向かうことになった。それでも残る四人は何とか中原を許してもらおうと、求められていないにもかかわらず、一緒に車に乗った。
五人ともこってり絞られて始末書の一つも書けば済むと思っていたが、案に相違して、警察署長は五人を監房に入れた。それも別々の監房だった。
監房には暴力団やテキヤらしき者もいたが、大半は思想犯だった。
――こいつは参った。
草野と一緒なので会社に言い訳はできるが、監房に何日間入れられるか分からず、留吉は弱っていた。
近くにいた者に話を聞くと、どうやら思想犯は共産党員やそのシンパたちだという。警察が共産党員を一網打尽にすべく一斉検挙に踏み切り、片っ端から検挙して監房に放り込んでいたらしい。
 周りは共産党員ばかりで、政治的な話が聞こえてくる。留吉はわれ関せずを決め込み、膝を抱えて眠ろうとした。
「おい、君はもしかして坂田留吉君か」
 その声に顔を上げると、どこかで見た顔があった。
「えーと、どなたでしたっけ」
「俺だよ。樋口新平(ひぐちしんぺい)だ」
 ――樋口新平って誰だ。
 記憶をまさぐり、ようやく思い出した。
「ああ、早稲田の学生運動家の樋口先輩でしたか」
「そうだ。お前が出前を持ってきたことで知り合えたな」
「は、はい。でも――」
 樋口は瘦せ細り、かつての潑剌(はつらつ)とした面影は消え失せていた。
「ろくなものを食わせてもらっていないからな。こんな痩せちまった」
 樋口がズボンを横に引っ張ると、拳(こぶし)が一つくらい入るのが分かった。
「ということは、ずっと活動を続けていたのですか」
「そうだ。このままでは、この国はたいへんことになるからな」
「たいへんと言われますと――」
「いいか、松岡の馬鹿が国際連盟を脱退したんだぞ。いかに全権を委任されているとはいえ、勝手に椅子を蹴って出てきたそうだ」
 政治部記者なので、それがいかにたいへんなことかは、留吉にも分かる。
「分かっています。つまり国際社会で孤立の道を歩んでいるというのですね」
「その通りだ。よく分かっているな」
 留吉は今の仕事を伝える。
「そうか。記者になったのか。そいつはよかった。朝日も毎日も腰抜けぞろいだ。お前のところは、しっかり報道していってくれ」
「とは言っても――」
 留吉は左翼思想にシンパシーを感じてはいたが、活動家のような記者とは違う。
「なんだ、右翼か」
「そうではありません。ニュートラルです」
「そういう態度がいかんのだ」
 樋口は、あの頃に比べて強硬になっていた。
「では、どうすればよいのです」
「報道の力で軍部の暴走を止めるのだ」
「それは分かっていますが――」
「このままいけば、日本は満州の泥沼に足を取られ、兵を引くことはできなくなる」
「その通りです。早急に妥協点を見出(みいだ)すべきです」
 だがそれが容易でないのは、誰もが知っている。
「しかも最近知ったのだが、海軍は超大型戦艦を二隻も造り上げる計画らしい」
 言うまでもなく「大和」と「武蔵」のことだが、この二隻については、終戦まで国民に秘匿されていた。
「それは初耳です。どうしてそんなものを造るのです」
「ずっと前から計画があったからだ。もはや巨大戦艦が無用の長物にもかかわらず、海軍もお役所的な組織なので、止められないのだ」
 そこには、組織的な駆け引きと様々なしがらみがあると推測できた。
「しかし、それだけの巨大戦艦を造っていると立証できるのですか」
「証拠はないが、造りかけの船殻(せんこく)を見た者はいる」
「写真はないのですね」
「ない。写真など撮れば、憲兵にしょっ引かれるだけだ」
 それは尤(もっと)もなことだった。
「分かりました。気に留めておきます」
「それだけでは不十分だ」
「しかし――」
 樋口は留吉の立場が分かっていない。そんな記事を書いたところで、編集長やデスクに没にされるだけだ。
 その後も二人は、ひそひそ話を続け、最後には連絡先を交換した。
 結局、留吉らは五日間、中原は十五日間も拘留されることになる。

 警察署を出ると太陽が眩(まぶ)しい。髭(ひげ)も生え放題でシャツからも汗染みの匂いが立ち込めている。
「坂田、すまなかったな」
 草野が疲弊(ひへい)した顔で言う。ほかの二人は自宅に戻っていったが、留吉と草野は先に会社に顔を出すことにした。
「お気になさらず。致し方ないことです」
「中原はあんな男だ。友人が次々と去っていく」
「そうでしょうね。何か純粋なものを持ちながら、それを持て余し、自分で自分を制御できなくなっているのかもしれません」
「うまいことを言うな。まさにその通りだ」
 ようやく円タクを見つけたので、二人が乗り込むと、運転手が顔をそむけた。
「すいません」
 留吉は謝罪したが、草野はどこ吹く風だ。
「詩というのは難しいものだ」
「あの時の話で、よく分かりました」
「端正で美しい詩など、誰も評価してくれない。ごつごつした岩のようでいて、その岩をかち割るような言葉を投げつける。それが現代詩だ」
 それは留吉にもよく分かる。
「口惜しいが、奴は本物だ」
 詩について何も知らない留吉に言葉はない。
「もう詩を書くのをやめようかと思っている」
 草野が頭を抱えたので、ようやく留吉が口を開いた。
「詩に優劣はありません。草野さんは草野さんの書きたい詩を書けばよい。それが世間に受け容(い)れられなくても、草野さんは満足でしょう」
「そうだな。それが詩や文学というものだ」
 会社に戻ると、皆に嫌な顔をされた。致し方なく、留吉は上司に弁明し、今日のところは帰ることにした。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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