夢燈籠第64回

十五

 昭和十三年(一九三八)一月、留吉は再び大連に降り立った。いつものように物資を手配し、皆より数日遅れて阜新に入った。
 阜新に到着すると、松沢が興奮していた。というのも昨年十一月に満州炭礦が開坑させていたトホロの一千メートル・ボーリング坑からアスファルトを発見したというのだ。
 だがそれ以降、油兆らしきものはなく、再び「東崗営子採掘試験場」には沈滞したムードが漂い始めていた。
 それでも留吉は皆を鼓舞し、試掘を続けさせた。
 それがようやく実り始めたのは、六月になってからだった。深度六百四十一メートル付近から掘削泥水に混じり、原油が出始めたのだ。油兆は七百八十メートル付近まで続き、幅広い原油の帯が、火山角礫岩(かくれきがん)層内にある可能性が高くなった。これには松沢はもちろん、長田たち日石から満州石油に派遣されてきている連中も色めき立った。
 こうした報告が関東軍になされると、満州炭礦のトホロ地区の施設も、満州石油に引き継がれることになった。
 そして八月の灼熱(しゃくねつ)の中、ダイヤモンド・ボーリングを続けていると、地下からわずかな振動が伝わってきた。
「松沢教授、何か感じませんか」
「確かに何か感じるな」
 振動は次第に大きくなり、地震のように感じられ始めた、その時だった。突然、油井から黒い何かが噴き上げてきた。
「あっ、こ、これは何だ!」
 今まで見たこともない勢いで、何かが天に向かって噴き上げている。
「ああ、何ということだ」
 松沢がその場にひざまずく。遠くから皆が駆けつけてくるのが見えた。
 長田が啞然(あぜん)として黒く噴き上がる油井を見つめる。
「教授、出たんですか!」
 松沢は自分の額に付いた黒い水をなめている。
「教授、どうですか。原油ですよね!」
 松沢がうなずく。
「ああ、間違いなく原油だ。原油が出たんだ!」
 風の向きが多少変わったので、原油の飛沫(ひまつ)は駆けつけてきた皆の上にも降り掛かり始めた。だが、それを避ける者はいない。そのため皆は瞬く間に真っ黒になった。
「喜んでいいのか。いいんだな!」
 誰かが叫ぶと、松沢が「もちろんだ!」と返した。それを機に、皆は「やった、やった!」と言いながら抱き合って歓喜に咽(むせ)んだ。その輪の中には留吉もいた。
 ――遂にやったんだ。これは現実なんだ!
 留吉は感激のあまり、その場にへたり込んだ。
「万歳!」
 誰かが万歳を唱え始めると、皆がそれに唱和した。
 ――これで石原さんも救える。そして日本も南方に進出しないで済む!
 それを思うと、次第に爆発するような歓喜が込み上げてきた。
 ――俺たちが日本を救ったんだ!
 松沢が留吉の肩を叩く。
「やったな、坂田君」
「教授の粘り勝ちですよ」
 真っ黒になりながら握手する二人の手の上に、次々と手が重ねられた。
 長田が眼鏡を黒くしながら言う。
「あきらめずに続けていてよかったです。お二人のおかげですよ」
 松沢がかすれた声で返す。
「何を言う。みんなのおかげだ。私一人では、ここまでこられなかった」
「そう言っていただけるんですね。ありがとうございます」
 クールな長田も涙ぐんでいる。
 ――さて、報告だ。
 留吉は徐々に冷静さを取り戻していった。
「教授、早速ですが、関東軍や関係者たちに連絡を入れたら、採掘計画を練りましょう」
「そうだな。善は急げだ」
 歓喜に咽びながら、二人は事務棟に向かって戻っていった。

 これにより東崗営子やトホロ一帯に原油が胚胎(はいたい)していることが明らかとなり、関東軍や関係者たちは色めき立った。次から次へとお偉いさんが「東崗営子採掘試験場」にやってきて、自らそれを確かめると、それぞれの伝手(つて)を使って、政府にこのことを伝えてくれると約束してくれた。
 松沢の策定した計画は精緻だった。「石油採掘五カ年計画」と題したそのリポートによると、五カ年で百四十七坑を掘り、日本の国内消費量の約四倍に相当する千八百万キロリットルを採掘するというものだ。
 だが、ここからがたいへんだった。この計画を実現するためには、東崗営子に製油所を造らねばならない。そのためには五十億円規模の莫大な予算が要(い)る。また輸送手段や労働者の宿舎も建設せねばならない。それらを考慮すると、採掘が軌道に乗るのは昭和十五年(一九四〇)半ばと見積もられた。
 だが報告書を出してから、この計画に暗雲が垂れ込め始める。
 九月になっても関係諸機関からは連絡がなかったため、留吉は奉天の関東軍本部に向かった。しかしこの時、関東軍参謀副長を務めているはずの石原は、東條と衝突して帰国した後だった。それでも関東軍の担当者に試掘の成功を訴えようとしたが、東條の息のかかった者たちから門前払いされた。
 十月、致し方なく留吉は石原に会うべく東京に向かった。

夢燈籠

Synopsisあらすじ

江ノ島の実家の庭にある苔むした石燈籠。その人生において坂田留吉は、この石燈籠に問いかけ続けることになる――。裕福な家に生まれつつも、彼の出自には秘密があった。自らを鼓舞し、逆境をはねのけ、明治・大正・昭和・平成と駆けぬけた男。その波瀾万丈の生涯を描く!

Profile著者紹介

1960年、横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。外資系企業に勤務後、経営コンサルタントを経て2007年、『武田家滅亡』でデビュー。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞を受賞。そのほか文学賞多数受賞。近著に『一睡の夢 家康と淀殿』がある。

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